ピンクのカクテルは空に揺れる
いつから私は、二つの立場に挟まれて、こんなに窮屈になっちまってるんだろう―――。
最近、一人で店にいるとき、新しいドリンクを試してるときに、よくそう考えるようになった。応援したい気持ちと向けられる期待。どちらも、わかってるんだよ。わかってるからこそ、私はどちらにもこの壁を押し返せないんだ。
ギィ、と狭い小屋のような酒屋のドアが開いた。古い、木製のドアの音。ちょうど店に在庫を追加しようと倉庫から戻ってきたばかりで、カウンターの上には木箱に入った何本もの瓶が並んでいた。木箱から手を離し、ドアへ顔を向けた。
「あぁ、いらっしゃい」
店、という物売りをやっていると誰もが口にする迎えの言葉を口にした。と言っても、この酒屋はかなり長く店をやっているため、客はほとんどがこの辺りの地元の住民たちで顔見知りなので、そこまで堅くやってるわけでもないのだけど。
「ねえさん、どうも」
「今日は何のための酒だい?」
「いやぁ、実はこの間勧めてもらった葡萄酒がかなり評判良くてよ。その追加と、後は新しいカクテルの元になる面白れぇ酒でもねぇかと思って」
毛先は色の抜けかけた赤、根本は黒の髪をした無精ひげを生やした男。口調はこの港町では珍しくない荒っぽさだが、声を聞けば、年齢がそう食っていないことがわかる。
彼は、店の前の坂を下りて、二本向こうの通りでバーを営んでいる。どうやら今日も、その仕入れに来てくれたらしい。ちなみに私は、なぜだかこの辺りの顔なじみからは大体『ねえさん』呼びだ。
「あの葡萄酒か。そりゃよかった、ちょうど倉庫から取ってきたところだったんだ。箱で持ってくかい?」
タイミングよく、今運んできた木箱の瓶のほとんどが、彼にこの前売ったものと同じ葡萄酒だった。彼が頼むよ、と言ったので、木箱からビールと特製ミックスジュース、ピクルスの瓶をひとつずつ取り出し、カウンターに置いた。こいつらは、後で棚に追加すればいい。
「で、どうなんだい店の方は」
私は、この店に来る客たちの近況をよく聞く。それはこの小さい街の状況把握や近所付き合いの一環だったが、今では聞くことが癖になってしまっている。ありがたいことに、ここに来るやつはむしろおしゃべり好きが多い。彼も、そうだった。
「ま、いつも通りさ。客は相変わらず漁師と近所の昔馴染みだ」
そう言って彼は肩を大げさにすくめて見せた。それも、いつも通りのことだった。彼のバーは観光地と港の市場のちょうど間ほどに位置している。その微妙な立地では、なかなか商売繁盛、ともいかないだろう。なんとか続けてる、そんな程度だろう。
「そうかい。こっちとしてはいつもありがたい得意先さ」
だからきっと私もいつも通り微笑んで礼を述べる。彼は相槌を打ってから、思い出したように漆黒の瞳を瞬かせた。
「あぁ、そうだ。よかったら桃とかプラムを使ったドリンクはあるか?ミックスでも、原液でもいいんだが」
「桃かプラム?」
「おう。今度、店で新しいカクテルを考案しててよ。飲んでピンク色が連想できるもんにしてぇんだ」
この男がこういった要求をしてくることは、時々あった。そうだねぇ、とつぶやきながら逡巡し、ドアから入ってすぐ右手の棚の最下にあるワインボトル半分ほどの瓶を取り出した。
「プラムの果汁なら、ここに。これでもいいかい?」
瓶のラベルを男の方へ向けながら渡しながら言った。一瞥して満足そうにうなずく。
「充分だ」
「よかった。でも、どうしてピンクなんだい?」
私は素朴な疑問を口にする。
「まぁ、いろいろとね。ところで、ねえさんの方はどうなんだ?」
「え?」
「いや、だから家の方。息子が確か、そろそろ統一教育が終わる頃だろう?」
「あぁ……」
戻った近況報告に、とりあえずなるほど、と頷く。そして、ここ数日目に見えて落ち込んでいるダイニングでの伏せたわが子を思い浮かべた。
「そうだねぇ……まぁぼちぼちってとこだよ」
「ふぅん」
苦笑を汲み取ったのか、目の前の男は一応相槌をくれた。が、すぐに思い当ったように聞かれた。
「そういえば、どこか訓練学校に行っていたか?」
「事前訓練学校だけどね」
「事前?正式には今から入学なのか?」
その言葉には、さすがに言葉を詰まらせた。……おそらくあの子は、正式に入れないまま、終わってしまうだろう。
何を思ったか、はたまた思わなかったのか彼は特に沈黙には追求せず、じゃ、と続けた。
「何の訓練学校だったか?」
「……操縦士の」
「操縦士?」
当然聞き慣れない単語のはずで、復唱されるのも無理はないだろう。
私はドアの隣にある小さめの窓から外を見上げた。綺麗とは言えない古びたガラスに木製の格子からは、晴れてるはずの空に靄をかけて見せていた。
「空を、飛ぶんだと」
「空?」
「最近になって、稀に空を飛ぶ機械を見ないかい?」
「あぁ―――」
男は一応知っているように頷いた。私は空を見ながら説明を加えた。
「飛行機と言うらしい。あれを操る職業が操縦士。都ではもうかなりの数の飛行機が飛んでるらしく、この街からももっと速く人や物を運ぶために操縦士の訓練学校を隣街と共同で作ったみたいなんだ。それで……」
―――母さん、おれ、空飛びたいんだ。
その声は、何度だって頭の中で鮮明に響く。でも。
―――お願いだから、この店を守っておくれ。
切実にそう呟いた病床の義母の姿も同時に脳裏に浮かぶ。
「そうか」
言葉を失った私に届いたのは、そんなどこか間の抜けた返事だった。その変わらない返し方が意識と視線を空から男へ戻す。彼は穏やかに微笑んでいて、それ以上は聞かなかった。この男はしゃべることが好きだが、同時に聞くのも決して下手ではないのだ。
「ねえさん、さっき俺に新しいカクテルがどうしてピンクかって訊いたな」
「え?あ、あぁ、そうだけど」
ここでぐいっと話題を引き返されて、思い出しながら肯定する。また、だいぶ戻ったな。
でも男の表情はやっぱり穏やかなままで、その目は違う別の場所を思っているようだった。
「店にさ、最近シンガーの子たちがよく歌いに来てくれるんだよ」
それは、バーとしては珍しいことではない。ここらでバーといえば小さな店だ。広すぎない店の中なら、声も通りやすいこともあり、歌を生業としたい若い子たちは、成功を夢見てバーで歌う活動をよく行う。この街でもその光景は珍しいものではないため、男の店にも来る、というのは納得できるものだった。
「それがカクテルと何の関係があるんだい?」
「大抵は女の子なんだが……、彼女たちを見てると、どうしても応援してあげたくなるんだよ。そんで、それをどうにかして伝えたくてな。言葉を掛けてもいいが、それよりも何か新しい酒でも作って店に置いた方が俺らしいと思ってよ」
また、ふと思う。この男は基本的に、こう、優しい男だった、と。言葉には優しさが拭いきれないほど滲んでいて、それが彼から溢れて薄暗い酒屋にしみ込んでいくようで。
私が息を吸い込んで、何かを言おうと口を薄く開けたのと同時、男はまた言った。
「―――彼女たちの輝きが、俺にはピンクを連想させたのさ」
開いたままの口からは、あ、と何かに驚いたような気が付いたような、はっきりと目的は持たない呟きが自然にこぼれた。
「……そう。そうかい」
かろうじて出た相槌。でもこの男は、きっとそんなの気にしないだろう。その証拠に、それ以上は何も言わずに、酒代をカウンターに置いて、また来るよと言って帰って行った。
パタン、と静かな店には、ドアの閉まる音だけが響いた。
私は、未だに棚の隣から一歩も動いていなかったけど。
「…………」
客が立ち去ってから、少しの間を置いて。それから、ドアを引いた。
薄暗い店に、太陽の明るい、けれどもう少しで沈みだす柔らかい日差しが一筋差し込む。外に出て、今度は直に空を見上げる。
―――あの子の輝く色は、間違いなく青だ。
曇りの全く無い蒼穹ではないかもしれない。雲がかった水色や、夕日へ伸びるグラデーションを描く曖昧な色かもしれない。
でも、それでも青だ。と。心に浮かんだのは、ただそれだけだった。
応援してやろう。私がしなくて誰がする。
夫の家が代々繋いできた古く長い店。それを絶やさないでと願う義両親の気持ちもわかる。次に継いでほしいと期待を息子に抱いていることも、それを信じて疑っていないことも、全部受け止めよう。
頭脳は足りても、身体は決して空を飛ぶ負担に耐えられるほど恵まれてはいない大事な息子―――でも、空を飛びたいと、はっきりとそう言ったあの子の夢を、私が信じなくてどうする。不甲斐ない母親だけど、信じて、努力を支えることはできるのだ。
どちらの希望も消化するために動くことは、真ん中にいる私にしかできないはず。訓練学校への猶予をあの子に与えよう。期限までに入学できなかったら店を継いでもらう。入学できたら、私が元気なうちは店を回して、それからまた先のことを考えればいい。輝く青を、みすみす曇らしていいわけないんだから。
ガラスを介さない、美しい青空はどこまでも広がっていて。あの子が飛びたいと言った空は、確かにそこに存在していた。それがどうしても眩しくて、私の目には明るすぎて―――、目を細めずにはいられなかった。
*****
今日使いそうなグラスをカウンター席に並べて、端から順に布で拭いていく。週末の夜だし、開店してから様子を見て追加で準備する必要が出てくるかもしれない。まぁ、それは後の仕事だ。
決して広くない店内。バーとしても小さい方だろう。こんな微妙な場所ではこれ以上広い敷地では経営していけないと踏んでこのサイズを選んだ。カウンター席が七つ。二人掛けのテーブル席が三組。たったそれだけの店だが、俺にとってはやはりここは特別な場所で、王国といっても過言ではないはずだ。
グラス拭きが終わったら、さっそく用意してもらったプラムと何か組み合わせて試作してみるか。
こんな小さなバーで歌ってくれるシンガーの女の子たち。彼女たちの知名度を上げるため、人前で歌うため、という希望と、バーの店が寂しくならないため、客に少しでも楽しんでほしい、という希望が一致して一緒にやっているだけ。利害の一致だと言い切ってしまえば、きっとそれだけの関係。でも、そんな彼女たちが頑張る姿は間違いなく輝いていて、どうしたって応援してやりたくなる。その気持ちを商品として形にしよう、と思ったのが始まりで、新しいカクテルを考えている。ピンクの果物をメインにしたものにしたら、飲んだ時に香りでピンクをイメージできるだろう、とかなり安直な案。でもこういうのは、ストレートに考えられるものが一番効果があると信じている。
最後のグラスを拭き始めると、住居用に借りている二階から俺より少しだけ若い女が荷物を手に下りて来た。
「わたし、そろそろ帰るわ」
「あぁ。すぐに暗くなるから気をつけんだぞ。送ってやれなくてすまねぇな」
つき合って数年になる女は、歳より幼く見える笑みを浮かべた。俺が、心底惚れた笑顔。
「気にしないでって言ってるじゃない。お店、頑張って。またね」
さらりと手を振ってまだclosedの札がかかる戸を開けて去っていく。―――いつか、「またね」ではなく「ただいま」と、ここへ彼女が入って来る日が迎えられるだろうか。
もうずっと抱えている考えは、王国であるはずの店内に、ふわっと浮かんだまま。最近は、どうも不安の方が重い割合で浮かんでいるように思えてならない。
「……ふぅ」
壁に掛かった時計を見る。開店まで、まだ時間はある。
俺は拭き終えたグラスをカウンターに並べたまま、階段の手前にある蓋の開いた木箱から、今日買ってきたばかりのプラムの果汁が入った瓶を取り出した。
友達への誕生日プレゼントです。
Happy BirthDay!いつもたくさんありがとう。
少しでも楽しんでくれたらうれしいな!
2018/02/05 キホ☆。