03 兄の面目
陰鬱な気分で帰宅してきた陶子は玄関に兄と思しき靴を見て一瞬にしてぱあっと晴れ、見慣れない女物の靴を見て一瞬にして落胆した。
重い荷物を玄関に放置し、いるであろう居間に顔を出す。
「帰ってたんだ、兄貴。それと……!?」
二年ぶりに拝めた顔が色眼鏡もあって精悍に見えた。ドキリとしたものの、隣にいるとんでもない魔物が意識の総てを攫う。
母の言っていた女なのだろうとは思った。確かに美人だったと聞いてもいた。だがこれは一体どんな冗談だ。世の中にこれほどの美貌を持った人間がいるのか。美人だどうこういうレベルではないではないか。
「お兄……この人、誰?」
茫然自失となり呼び方が昔に戻る。
「初めまして陶子さん。舜治の妻、お千香と申します」
立って優雅に一礼するお千香。
「つ、妻?」
「お義姉さん、って呼んでくださいね」
間髪入れず舜治は微笑む妻の後頭部をはたいた。
「どうしたんだい陶子、帰りは明日のはずだろう?」
夫婦漫才にまんざらでもない様子の母志摩子が予定外の帰宅を果たした娘に問うた。
「うん……そうだったんだけど、ちょっとあって」
「まあ、突っ立ってないでお座り。ご無沙汰だったお兄様の北海道土産をいただきながら聞こうじゃないか」
未だ棘は引っ込まず。お兄様の渋面は崩れない。
しかし活力あふれる妹しか知らない不肖の兄がはたと気づく。
「いや、陶子ちょっと動くな」
「え?」
舜治は無造作に近づき、陶子の肩口にある虚空を引ったくるように掴む。
黙って見つめていたお千香も形の良い眉を寄せていた。
「舜治?」
「お兄?」
まさに狐につままれた感の東浦母娘。顔立ちが同じなら、呆気の表情も同じ。
舜治は思わず吹き出しそうになるほどだった。二年見ないだけでこれほど似るまで育ったものかと感慨も湧いてくる。それはさておき――
「ふん……」
握り締めた拳に念を籠める。言霊を謳うまでもない。ほどなくして湯気のようなものが立ち上った。
それは母娘の目にも映る。
「何か憑いていたようですね」
「ああ……あまり良くないやつだ。偵察用なのか、分体みたいな感じだな。本体は別にいるぞこりゃ」
お千香と舜治の二人には最早日常。
「どういうことだい?」
「お兄、何それ?」
されど他は然にあらず。
コマンダーは己の理解に及ばないからと全否定するような愚かさはない。しかもさらっと流すこともしないからやや面倒。
「舜治……お前の領分だね?」
「お兄? どういうこと?」
「どうもそうらしい。陶子、林間学校で何があった? 話せ」
「う、うん。一日目にお寺の研修があったんだけど、その晩に――」
思い出したくないのだろう陶子の語り口は重かった。
■ ■
「ふひひーーっ!」
多宝塔より飛び出してきたのは見る者全てを恐れさせる存在の塊だった。身の危険というよりは心を恐怖で縛り、精神を壊しにくるモノ。
和尚の戒めは本当だったのである。それも後の祭り。怨念は人の形をして人に非ず。
その場にいた一人ひとりを舐めるように襲っていった。外傷を与えるのではなく、顔の辺りを嬲るようにしてすり抜けていく
気を失うものはまだ僥倖。泣き叫ぶものにはからかうように幾度も集られる。
最後は陶子の番。されども腰の抜けたまま祈るしかなかった。
「お兄、助けて!」
ここでポケットにあった御守を無意識に握り締めたことが功を奏す。
怨念は陶子に触れる寸前にその動きを止め、目玉もあるのか怪しい顔でしげしげと見てくる。陶子の顔とポケットの辺りを視線が何往復もしていた。
興味深げな仕草が人間くさいという皮肉。ありもしない表情までわかりそうなほどだった。
いつまでも自身に何事も起こらないことに陶子は不審がり、薄っすらと目を開ける。
そして後悔した。
「ひっ」
怨念と目が合ったのだ。いや、正確には目などないのだがそう思えた。
今度こそ動けない。一ミリたりとも身じろぎさえできない。震えも許されない恐怖に包まれる。
助けを乞うた兄が現れることはない。しかし強張る手中の御守が鳴った。中身が擦れ合うちゃりという軽い音。
陶子の耳には届かない。ただし怨念はどうか――
刹那、怨念が踵を返し、吸い込まれるように多宝塔に飛び込んでいった。ご丁寧に観音扉まで閉まる。
膠着の解かれた陶子は目に映る光景が信じられなかった。弾け飛んだ錠前を除き、何事もなかったかの如き光景に。
確かに事はあった。倒れたりうずくまったりしているクラスメイトがその証し。
「助かった……の?」
ポケットから抜いた手にある御守を見つめ呟く。
最前まで鳴りを潜めていたカエルの合唱が耳を打ち始めた。
されど陶子たちの修羅場は続く。
騒ぎを聞きつけた教師陣の説教だ。特に陶子へはここぞとばかりに叱りつける。日頃やらかしているわけでもないのに理不尽といえば理不尽だ。それだけ陶子が斜め上に特別視されていたらしい。やはり理不尽か。
意外な反応だったのは和尚であった。
全員無事なことを裏なく喜び、陶子の差し出す御守に関しては――
「きっと功徳と御利益があったのでしょう。それは既にあなたのものです。できうれば大事にしなさい」
と慈しみの眼差しで言われるほどに。
明けて翌朝、林間学校は続行された。そこで肝試し組の様子がおかしいと気づかれる。おかしいのは陶子を除いて。
落ち着きなくさまよい歩き、時には樹木に向かってブツブツと語りかける者。
絶えず背後を気にし、話しかけられても過剰な反応をする者。
三者三様の異様さに引率教師も慌てて病院へ送り届けるも、身体に異状がないものだから病院側もお手上げである。取り敢えず入院させて検査三昧の最中とか。
素でいる陶子だけ帰されたというお粗末な顛末を迎えた。
■ ■
「なんじゃそら」
舜治がそういうのも自然である。何しろ引率の対応がなってない。
「今時の教師はそんなのものが多いのさ」
保護者であるはずの志摩子の言い様も如何なものかと思われ。
「まああれだ、平たく言えば、封じてあった怨霊に触っておかしくなったってとこだな。しかし陶子にだけ監視を憑けたのか?」
「潰したのは早まったかもしれませんね」
珍しくお千香が真っ当なことを宣う。式返しの要領で本体を探れたかもしれないのだ。舜治も二の句が告げない。
「どっちにしろお前の出番じゃないか。ほら見たことかい。早く呼びつけた甲斐があったってもんさね」
これには流石に舜治もイラッときた。たまたまを手柄にされては堪らない。
「だから、どういうこと?」
当事者なのに蚊帳の外にされてる陶子もイライラが募りだす。
「ああ、陶子には教えてなかったね。お前の兄はこの国最高の霊能者らしいのさ……そうだろ!」
「身も蓋もねえな」
「さっさとお祓いでもなんでもしてやんな」
「はあぁ!?」
花も恥じらう女子高生のお間抜けな叫びが家中に響いた。




