05 街の変貌
「耐えられぬこともないが……ここまで不味いとは思わなんだわ」
端正な面差しを歪ませまくるタキシード男は口元を拭って独り愚痴た。
その足下にはランニングのオッサンが転がっている。気を失っているが、胸は上下していた。
ただし肩口に二つ穿たれた穴から赤い雫が流れ落ちる。
そしてタキシードは幾ばくか目を瞑る。口内に残る味を更に吟味するように。
「ふむ……ラシアンの先に島国があったとは。よもや海を越えていたか。しかも三百年は経ていると考えてよいだろう。やはり猊下の仕業であるな」
男は読み取ることができる。生きている人間の血液を直接摂取することで、その人間の記憶を識ることができるのだった。
故に今まで得た知識は数十で効かない。
記憶を識る――それはその国の言葉も理解できるようになる、ということ。だからこそ現地で速やかに人間と接触したかったのである。
できうれば若い娘がよかった。何しろ味が違う。横たわるオッサンが聞けば何と憤るだろうか。
「どれ、自動の車とやらに乗ってみようか。馬よりも速く走るとは楽しみよ」
運転操作も交通ルールというものも頭にある。ようようとオッサンのライトバンに乗り込んだ。
「むむ……窮屈だな」
オッサンはシートを前に出して乗るタイプ。足が届かないせいとも言う。長身のタキシードには狭かった。よく乗り込めたものと賞賛してもいいくらい。
スライドさせることに気づくまで五分経過。
「いざ!」
最初の躓きを振り払うつもりでアクセルペダルを踏み込んだ。
翌朝、行き倒れのオッサンが発見され集落は騒然となった。更に数百メートル先では路肩に落ちて刺さっているライトバン。フロントガラスが割れ、車内は無人であったという。これが騒然に輪をかける。
知識として運転操作を知っているからといって安全に運転できるかどうかは別の話。そしてどんな時でもシートベルトは大事と思い知らされる。
男が車を運転することは二度となかった。
■ ■
煌めくばかりの夜景は見る者の眼を同じように煌めかせ、あるいは言葉にならない達成感を得られる。
繁華街周辺がことさら強く光放ち、高速道路がオレンジ色の川をつくっていた。
嵐山展望台から望む仲睦まじい男と女。女は男の腕を千切れんばかりに振るほどはしゃぎ、男は揺すられながらも噛みしめるように景色を味わっていた。
他にも観客はいるのだが、いま一つ不釣り合いなこのカップルにあてられてしまい、景色を楽しむ風ではなさそうだった。
そんな微妙な雰囲気漂う嵐山展望台。
原生林と人の手がうまく釣り合って景勝を保っている嵐山公園は虫も多い。夜ともなればなおさらだ。
お千香が掴まっていない反対側の舜治の手には赤白縞のハンカチらしきものがにぎられていた。こずるくも虫除けの術をつかっている。
虫さされを気にしないではしゃぐ妖麗の女に奇異の目を向ける者もいたが、術はあくまで舜治用。妖気を身に纏うお千香にはそもそも虫さされに縁がない。それもまたずるい。
「堪能した?」
「はい。とっても素敵です」
「んじゃ、そろそろ」
「北海道限定飲みに?」
「ああ」
思うタイミングの合う二人。
「この街も見納めですね」
「そうだな……明日は札幌と小樽だ」
「お寝坊できませんから、今夜は控えめに飲みましょうね」
「……ソウデスネ」
舜治の返答から抑揚が消えていたのは無理もない。だから一体どの口が言うのか、と。
帰りも頼んであったタクシーは既に待っていた。
「中心地の……なんでしたっけ? 繁華街」
「サンロクね。了解しましたよ」
くだけた感じの運転手は淀みなく道を往く。
「眺め、どうでした?」
「そりゃあもう」
「最高です!」
「連れてきた甲斐があったねぇ」
和やかな車内であったが、ある時から運転手の口数が減ってくる。
「妙だ……」
「何ですか? 急に」
舜治も怪訝と問う。
「それが……他の車とすれ違わないんだよね……前にも後ろにもいないし。夜中だって途切れることはそうそうないんだけど……」
言われてみるとそうだ。そこそこ大きい街のそこそこ大きい道路、時間も宵の口である。街灯やコンビニの照明も見えてはいる。これは車が通らないだけで感じる違和感だろうか。
街が持っているはずの気配が乏しいのだ。
「お千香……何か感じるな?」
「自動車で走りながらですから確かとは言えませんが、空間に軋みがあるような……?」
「術者か……魔物かなんかいやがるな」
「それは間違いないかと……」
「ちょっと、お客さん、何か知ってるの?」
運転手の不安げな問いには応えない。
そして中心部に至って違和感は如実となる。
「あり得ない……」
駅前通りを走る車が皆無。そして通りを歩く人も。
看板も信号も光を失っていない。ただ人がいない。それだけで感じる途方もない非現実。無数にある建物の中はどうなのだろう。
サンロク街のど真ん中にタクシーは止まる。
「運転手さんは降りないほうがいいですよ」
料金を払いながら舜治が声かける。
言われなくても運転手はそのつもりに違いない。どれだけ不思議に思っていても、己が身を晒すほど若く旺盛な好奇心を持ち合わせてはいないのだから。
「舜治……これは異界のようです」
先に降りたお千香が周りを巡らし曰う。その表情は引き締まって壮麗さの格を上げて見せるようだ。
「異界? これはまた…」
二人の目にするのはとてつもない光景だった。光あふれる夜の街で人っ子ひとり見当たらないとはこうも違って見えるものか。
それにも増して何一つ音が聞こえてこない。これもまた活気あるはずの繁華街を奇っ怪なものへと変えていた。
異様な世界、これがお千香の言う異界なのだろうか。
タクシーのドアが舜治の背で閉まる音を響かせた。二人の言葉以外で初めて耳にする音。そういえばエンジンの音も聞こえていなかったのではないか。
舜治は振り向き己が目を疑った。
たった今まで乗っていたタクシーまでもが消えている。走り去ったのとは訳が違う。振り向く刹那に見えなくなるほどのスピードなどでは決してない。
「俺たちだけか」
「閉じ込められたのでしょうか?」
「そうなるかな」
二人に焦燥はない。摩訶不思議の最前線に立つ身だ。いや、摩訶不思議そのものと言える二人だ。地獄の最下層でも鼻歌交じりに散歩する。
「ほう……この世界で平然と存在できるとは。其処な二人、ただの人間ではないな」
何もない、誰もいない空間に場違いなタキシードを纏った美丈夫が現れた。
今年もよろしくお願いします。




