03 三時過ぎると明るいです
とっぷりと陽の暮れた樹海の中、ヒグマが冬眠に使っていたと断言できそうな洞から這い出てきたのは場違いなタキシード姿だった。土に塗れている。
「アナグマの真似事をするはめになるとはな。それよりも、日暮れが遅くて敵わんではないか」
日光を避け洞の中で夕闇を待っていた。棺もなく地下室でもないところは初めてのことだった。存外悪くなかった気もするから不思議だ。
流石に今宵のうちに人里で国の確認だけでもしたいところ。土を払って飛び上がる。
「なんと!」
そう遠くないところに街灯りが見えるではないか。何故、今朝方は気づかなかったのだろう。
男はそう早くないスピードで灯りの方へ近づいていく。
そして間近に見る景色に驚愕した。
「これは一体どうしたことだ?」
家屋の窓から漏れる灯りがなんと明るいことか。ロウソクを無制限に点けているのだろうか。それもいたる所の家々で、だ。
しかも街路のあちこちまで明るいではないか。オイルランタンをこれほど贅沢に使っている街など見たことがない。そもそもランタンにしては明る過ぎるようにも思う。
男の認識が大きく揺らぐ。
都なのだろうか。それにしては建物が疎らにしかない。わけがわからなくなってくる。
人間を掴まえ、次第を問い質さなくてはなるまい。
しかしどういうわけか、人っ子一人歩いていない。訪問のお誘いを受けなければ家屋に侵入すること叶わぬ身の上だけに、難儀の予感。
道に降り立ち、いっそ窓から覗いてみようかと思ったその時、強烈な光がこちらに襲ってきた。
光を遮るために手をかざす。
「なっ!」
魔獣がいるのかと身構える。
光放つそれは寸前にけたたましい音をたてて止まった。
「このバカ野郎! 轢き殺されてえのか! さっさと端に寄りやがれ!」
よく見るとそれは箱型をしていた。そして男は目を疑った。
箱型の中に人間がいて、顔を出してこちらを怒鳴りつけているのだから。
やはり異国か、言葉が解らない。ただ迫力に圧され、箱型の前からどいてしまう。
すると光放つ箱型はあっという間に行ってしまった。
「もしかして乗り物なのか? いや、馬は見えなかったが……」
あまりの出来事に男は追いかけることができずに立ちすくむのみ。こうして人間との初接触は失敗に終わるのだった。
男が知る由もないことだったが、この田舎町で夜間外出する際、車を使わない者など誰もいないということを。
■ ■
一体どれほどのジョッキを空けたのだろうか。二人で飲み切れる量ではないと、店員が会計時に三度もレジを打ち直していたくらいだ。その困惑顔が印象に残る。
しかも配膳時にチラ見した限りでは綺麗な女のほうがピッチが早かったように思う。事実、カップルの飲んだビールは三対一の比率で女のほうが多い。
「とっても美味しかったです。ごちそうさまでしたぁ!」
お千香は上機嫌で舜治の手を引いて店を出る。その酔い加減はほろ酔いの域を出ない。
「すご……あんな綺麗な人がザルもいいとこ……」
そんな客の呟きが舜治の耳に届いた時はさすがに苦笑いが隠せないものだった。
ウワバミ姫は軽やかに階段を上る。
日中からみて随分と涼しく感じるが、それでも未だ二十五度もあればまだまだ飲みたくなってしまう。
「次は少し静かなお店がいいと思います」
「あ、はい」
満腹の舜治であったが破顔の妖姫に逆らうことはできようはずもなく。
結果ホテルに戻る頃には夜明けの早い夏の北海道を思い知る――そして二日目の予定は朝食も摂れず、昼までずれ込んでいくのであった。
地元の一過性の噂は観光客の耳には入りにくい。それでも舜治は昨夜の話を思い返さずにはいられなかった。二日酔いの頭で。
「吸血鬼ね……」
昨日まではお昼にラーメンかスープカレーでもと思い描いていたが、今は冷たいコーヒーが何よりもありがたい。
「何ですか、吸血鬼って?」
こちらは二日酔いなどどこ吹く風のお千香さん。朗らかにパンケーキと格闘中だ。煮詰めた地場のさくらんぼがふんだんに盛られて目に鮮やかである。食欲の湧かない舜治に遠慮した故の小洒落た喫茶店でのチョイスだった。
「吸血鬼ってのはな――」
一般的な吸血鬼を説明してやると――
「……つまりは妖魔ですよね? ヨーロッパの」
「そうだな。それがこの街に出没して、悪さをしている――らしい」
「舜治なら瞬殺ではありませんか?」
お千香は一ミリの脅威と感じていない。事実この妖姫が脅威に感じる敵など想像もできないのだから。
「だといいけどな……」
「浮かないご様子ですね?」
さくらんぼに負けない艶やかな色の唇が動く。異性にとっては抗い難いほど扇情的に。
「いやな、せっかくのお千香との旅行だ。面倒はゴメンだな、って思っただけだよ」
「まあ、何某かの怪奇現象や事件に巻き込まれるのは、もはや既定路線ですからね」
最近鳴りを潜めていた毒が吐かれる。これも実は機嫌がいい証しだから困ろうというもの。
それでも言われたほうは二日酔いも相まってこめかみを揉むしかないのであった。
「……お前が言うか」
外気に触れることで体調が良くなるからと、大きな公園にやってきた二人。目星はつけてあっても所詮気ままな旅プランは変更も気ままに。舜治は渋々であったとしても。
都市部にあって、広大な森林の中に核となる神社を有する神楽岡公園。樹々を縫う遊歩道をひっつきながら歩いてみれば、不思議と暑さほどよくアルコールも抜けていくように思えてきた。
どうせ夕飯時には飲むだろうに。
「どうです? 気分よくなってきませんか?」
「悪くない……ような気がする」
「んふふー。見てください。ヒイラギさんの森林公園とは植生が全然違います。やっぱり随分と北の方なんですね」
「よくわかるな。俺にはさっぱりだ」
そろそろ一服したい舜治は少し先に東屋を見つける。二日酔いは和らいできているものの、休みたいのはまた別だ。足の運びは正直だと。
「お千香、あそこで少し休もう。拒否はさせん!」
「ふふ、わかっていますよ」
艶然と微笑む。
こんな掛け合いもお千香には大事なものだった。掛け替えのない存在との何気ないやり取りが愛おしく、いつまでも続いてほしいと乞い願う。そう、あの日から――
程なく東屋に辿り着き、飲み物を持ってくれば良かったと思い至る。
「先客がいますか……」
見れば長椅子にしなだれかかっている女性のようだ。膝丈のパンツと履き物でそれとわかる。長めの茶髪が散らかしたように乱れていた。
ただ寝ているのとは明らかに違う。
「具合でも悪いのか?」
「血の臭いがします」
さすがに鋭敏な妖姫。その玉骨をしかめながら行き倒れ風の女性を起こしにかかる。
「もし? 大丈夫ですか? 起きられますか?」
意識はない。が息はある。
「救急車だな……こんなとこまで来てくれんのかね」
囲む木樹が恨めしくなりそうだ。ここが都市中央部だと忘れそうになるが、スマホはしっかりと圏内を示す。
「舜治、見てください」
「ん?」
お千香が力ない女性を抱き起こし、かかる髪をかいて見せる。日焼けのない白い首筋が覗いた。
「ちっ」
その異様を見せられ、舜治の眉根も寄る。
その異様とは綺麗な肌には深く穿たれた穴が二つ並んでいるものだった。まだ傷は新しいようで、そこから垂れる赤い筋二本が乾いていないのがその証左。
「噂の吸血鬼ですか? どうにも既定路線に乗っていたようですね」
「嬉しそうに言ってんじゃねぇ!」
お千香のせいではない。せいではないが言いたくなるのも無理はない。
それにしても吸血鬼の被害者を目の当たりにしてしまうとは――それも日中に、である。




