05 狙われたなっちゃん
午後の保育園、おやつを食べた園児たちは皆うつらうつらと船を漕いでいた。
その中で、菜津子はいつになく目が冴えていた。遊び足りないこともあったのだろうが、何か眠ってはいけないような気持ちだったのだ。
何がしかの勘が働いたと思っていいのだろう。
「あれ?」
絵本でも読もうかと棚を漁ってみると、ふと窓の外から呼ばれたような気がした。
「あー、くーちゃん!」
あれは昨日公園で一緒に砂遊びをした白っぽい童女ーーくうこがそこにいた。
菜津子は鍵のかかっている窓が開けられなく、玄関から外を目指す。
「なっちゃん、どこ行くの?」
「お外で遊ぶー」
「一人じゃだめよー」
「ひとりじゃないよー」
保育士の言葉を振り切り、外履きに履き替える。菜津子の言う「ひとりじゃない」はもちろんくーちゃんを指す。本来なら保育士はここでもう一度確認するべきだった。
「よかったー。くーちゃん、また会えたねー」
「うん。うれしい」
昨日同様くうこの抑揚は薄い。それでも菜津子は構わない。
「きのー、急にいなくなるから、びっくりしちゃったよ?」
「ごめん。知らない大人、怖いから」
「そっかー。でも、あのお兄ちゃんとお姉ちゃんはいっぱい優しいんだー」
「そう。次は会う」
「今日もお砂で遊ぶ?」
「あれ、乗りたい」
くうこが指さしたのはブランコ。一人掛け二連のものと、二人掛けのものがある。いづれも木製なのが珍しい。もっと言えば、この保育園の遊具は全て木製だ。平均台や滑り台まで。それがここの売りでもある。
「いっしょに乗ろ!」
二人掛けに仲良く座る。吊っているのも金属製ならぬロープ。優しい造りだ。
菜津子は大好きなお兄ちゃんお姉ちゃんのことを拙い言葉でくうこに説明しながら、穏やかにブランコを漕いだ。
くうこも相槌を返す。時折頭にあるとんがった耳を揺らしながら。
そんな幼女の微笑ましい様を離れた高所から眺める非常識な獣がいた。二階建てアパートの屋根上にそれはいた。
――ミツケタ。タベル……タベタイ。
いるはずもない身の丈を越える大きな白い猿はニタリと笑う。そして思い出したかのように肩口に刺さった矢を見て、鼻息を荒くした。
■ ■
お千香は焦っていた。
遠くで舜治が霊術を使った気配を感じたから。危険はないと言っていた本人が真っ先に遭遇戦だ。しかも使った術のレベルが高い。それなりの相手だと思われる。
舜治の神気が健在なのは当たり前ながらも安堵するとして、瘴気もまた消えずに動いていくではないか。舜治が取り逃がすほどの強敵。しかもその瘴気が向かう先はお千香らが向いている方と重なる。
嫌な予感しかしない。
保育園の場所がわからないため、先導する風結子の速さに合わせなくてはならないことも焦りに拍車をかけた。
「見え、ました。あそこ、です」
風結子が指差す。こちらが小高いため、平屋造りの保育園が見える。場所の把握はできた。
――まだちょっと遠いねー。
浮遊霊佐和子が額に手を翳して緊張感なく言う。
もう遠慮はしていられない。
「お先します」
お千香が跳び上がる。文字通りの意味で。
「ええ?」
呆気にとられた風結子は足を止めてしまうほど。
漆黒のカラス羽が舞うかの如くお千香は屋根伝いに消えた。
――置いてくなー!
意外や先に佐和子が異物に気づく。
――うっわ、何あれ?
言われたお千香も目をやる。常人にはわからなくとも、さすが二人は人外。
やや離れた屋根にある白い猿を見た。どこか一点を凝視しているのか、微動だにしない。
あれが舜治と対峙した瘴気の正体とわかる。なるほどそこそこの強さだろうが、舜治が取り逃がすほどだろうか。
そこでお千香は知る。稀代の巫覡が取り逃がしたかもしれない要因を。
白猿が屋根伝いに動いたのだ。速い。お千香の目が驚愕に丸くなるほどのスピードだ。あれでは舜治も後手に回って不思議ではない。
そしてまずい。恐らく目的地はなっちゃんのいる保育園。残りの距離と移動速度を計ると向こうに先を行かれてしまう。
「くっ」
お千香は跳躍を諦め、飛翔飛行に移る。弾かれた弾丸となって飛んでいく。
――ちょ! 速すぎぃ!
今度こそ置いていかれる佐和子だった。
この日から、空を飛ぶ黒い魔女の噂が町を席巻する。
風結子宅で留守を託されていた玉樹は後日その噂にほくそ笑んだらしい。
■ ■
二人の幼女がブランコに飽き次は滑り台に向かおうかという時、それは来た。
くうこが菜津子の手を握り、その歩みを止めさせる。
「どうしたの?」
「なっちゃん、動いちゃだめ」
くうこは空を睨む。透けるような白肌が露わになり、面を上げたくうこを初めて見た菜津子はとてもきれいだと思った。
「来た」
くうこがそう言った直後、保育園を揺るがす衝撃が襲う。
「びゃ!」
驚いた菜津子が素っ頓狂な声を上げてよろめくが、くうこのお陰で転ばずに済む。
「今のは一体?」
園長だろうか年配の保育士が飛び出してくる。しかし舞い上がる砂埃に遮られ状況はわからない。かろうじて園児二人の姿が見える。
「あなた達! すぐに中へ入りなさい!」
されど二人は動かない。パニックで身が竦んでいると予想する。抱きかかえて連れ戻すしかないのではないか。
砂埃が晴れるのを待っていいものか迷う。いや、幼い子を思うなら迷ってはいけない。
事態は非常にして非情。
視界が戻り始めると目に映るは巨大な白い猿。あり得ない光景に保育士も固まってしまう。
「おっきいおサルさん?」
――ウフッ! ゴチソウタベル。
白猿は実体化していた。舌なめずりまでしている。
無邪気な菜津子はどこまでも無防備。近づこうとさえする。
その小さな体躯を掴み取ろうと白猿の手が伸びる。凶悪な爪と醜悪に笑う顔が添えられていた。
保育士は最悪を悟った。あの巨体に掴まれて無事でいられるはずがない。そもそもあれはなんなのだ。背丈こそスポーツ選手ならいそうなくらいだが、ゴリラの筋肉体型を更に超える太さは伊達じゃないと思われる。いや、間違いない。
ここに来て初めて菜津子の表情が引き攣る。
「ひっ」
「大丈夫」
くうこが半歩前へ。
重い鉄の塊同士がぶつかり合うような鈍い音が大きく耳を打った。




