04 アオリイカのマリネ、季節の野菜添え
日は沈みながらも、闇夜に覆われるまで薄明るい僅かの頃。メガヨット目当ての人だかりの中に十千もいた。おしくら饅頭とは言わないが、ぶつからずには歩けない人波にうんざりする。
それでも監視対象を見失う愚は犯さない。
「うちは探偵じゃないのよ……これなら悪霊退治の方がまだ気楽よね」
些か物騒な愚痴が溢れ、聞こえたのか数人に振り向かれてしまう。こちらを向いた全員が慌てて頭を戻したのは目つきのせいではなかったとしてあげたい。
列の中ほどに並んでいたはずの若様と目立つ女がタラップを登っていく姿が見える。二人横並びになれないのに手を繋いでいるのが腹立たしい。
これで乗船確認の連絡をすれば任務完了だ。そっと人混みを抜ける。
「心がささくれていくのがわかるわ……お腹空いたし、ちょっといいもん食べないとダメかも」
乗船完了を告げる船員のハンドベルが鳴り響き、十千の胃を叩いた。
■ ■
薄闇に手がかかりあちこちの灯が灯りだし、たくさんの見物人に見送られた船はゆっくりと岸から離れていく。
そんな光景をバカップルは船首側のデッキに立って眺めていた。舜治は遠洋航海に出るわけでもないのに切ない気分になるという不思議。お千香がはしゃいでくれるので、簡単に引き戻されてしまうのだが。
「寒くもないし、いい日よりだな」
「最高です! こんなに幸せでいいんでしょうか」
帽子が型崩れするのもお構いなしで密着してくる。寒くないのに温もりが心地良い。舜治にとっても至福のひと時だった。この後のコースディナーに更なる期待がかかる。
テーブルに着かなくてはならない時間まで潮風に身を晒すことにする。港を離れるにつれ、海浜公園やショッピングモールのイルミネーションが視界に広がっていく様子が得も言われぬ高揚を感じさせてくれるのも大きい。
船体には高度な姿勢制御の設計が盛り込まれていて、快適な航行を下支えすることに一役買っている。沿海の航海で船酔い客を出していないことが密かな自慢でもあった。
二人に気取られぬよう気配を遮断している痩せた男がいた。それはもう人の悪い笑みを浮かべて。
「快適なのは、長続きしないと思うけどねぇ」
■ ■
白銀の天馬号の最下層、常夜灯のオレンジに照らされる男がいた。教団の女神の護衛に着いていた黒服の一人だった。動力室に近いためエンジン音が耳に障る。
「こんなところに置きやがって……よく誰にも見つからんかったもんだ」
工作員として忍んできた黒服の目当ては二つの箱。前もって仕込んでおいたものだ。目立たないように配管の下に並んではいたが、誰も気づけないとは言い難い。
黒服は両方の箱を開ける。携帯ライトに浮かび上がるのはいずれも白い壺。封印が機能していることを確かめると口角が上がってくる。準備は万端にして順調だと。
黒服の役割はその封印を破ること。先ずは和紙と蝋でなされている方だ。ライターを取り出し蝋の端を炙る。
蝋は流れ落ち、和紙にも火が点いたところで離す。今はこれだけでいい。数歩後退り暫し待つと、壺から光の玉――人魂らしきものが湧き出てきた。ゆらゆらと漂うそれらはサッと数えられる量ではなさそうだった。
しかしこの黒服も計画の全てを知らされているわけではなかった。故に自身が餌食となろうとは考えてもいなかったのだ。
それはあっという間のこと。人魂のひとつが胸元に飛び込むや服を素通し、体内へ滲む。
「んがっ!」
思わず仰け反り、短い悲鳴が口を衝く。
人魂は心臓に絡みつき、血液に溶け込んでしまう。悍ましい何かが血管を駆け巡り、脳へと至る。黒服の人生が一変する瞬間だった。
上体が直った黒服には目に見えて変化があった。黒かった瞳は白濁し、逆に眼球の白い部分は黒く染まっていた。だらしなく開いた口元からは犬歯が伸びているのが窺える。皮膚に異状は見受けられないが手指の爪が赤黒い。
「う……ああ……」
口から発せられるのは既に人語にあらず、力ない呻きのみ。その足取りも覚束なく、どこへ行きたいのやらわからない。もう人間としての自我が失われている証左と見ていいだろう。
自爆テロに等しい所業だった。しかも実行者は露も知らず。差配した者は鬼畜の権化かもしれない。
そんな頼りない歩みがもう一方の箱を蹴飛ばし、黒服は彷徨っていった。残りの人魂も続く。
蹴倒された箱から壺が転がっていくが、それを正す者はいない。
■ ■
海岸線のライトアップが船内から映えるようラウンジルームの照明は弱められていた。各テーブルに灯された淡いLEDランプが雰囲気を盛り上げる。
「お外も中も綺麗です……」
流石はメガヨットのラウンジ、舜治が結婚披露宴の会場かと思う広さときらびやかさであった。もちろんウエディングプランもあるらしいが、お千香が舞い上がっても困るので口にはしない。
「前菜はアオリイカのマリネ、季節の野菜添えでございます」
淀みない所作で給仕が皿を配す。イカと野菜の艶を見るだけで美味しいと断言できそうだ。先に舐めた薄口の白ワインが際限なく飲めてしまいそうな予感がする。
「イカってこんなにうまいんだな……」
酸味がイカの甘みを堪能できるよう調整されている。
「ドレッシングとブロッコリーが合い過ぎです。いくらでも食べられますよ。庭のお野菜で真似できるでしょうか」
それは厳しい。
「お千香、折角なんだ、飲み過ぎないようにしよう」
うわばみ姫も同意せざるを得なかった。のっけから想像を超える味わいにやられてしまう。料理を楽しむことに専念しなければ。
副菜はフォアグラの蒸し物、オレンジソース。オレンジの風味がフォアグラのくどさを抑える技ありの一品。
グリーンピースのポタージュを口にしようとした時、ラウンジの一角にスポットライトが当たる。そこにカフェで接触した舜治曰く奇妙な女が現れた。
女の容貌に見とれたのか、他のお客から嘆息や囁きが漏れる。
「演奏の人だったんですね」
女がヴァイオリンを手にしているのを見て、お千香は小首を傾げている。ウインドアンサンブルという前触れだったはず。他の奏者は一曲演奏してからの登場だろうか。イスやスペースが見当たらないのが気になる。
「本日ヴァイオリンを担当いたします美杏と申します。ご挨拶代わりに先ずは一曲お聞きくださいませ」
マイクを通し会場に響く声も聴衆を魅了していた。約二名を除いて。
されどひと度弓が振れると二人の認識も変わる。伸びやかで柔らかい旋律にラウンジが包まれた。
――せめて末期の慰めになれば良いのですが……次は鎮魂歌に変更してみましょう。
奏者は噯にも出さずにそんな酷いことを思っていた。
魚の主菜はキジハタのポワレ、ヴェルモットクリームソース。切り身を中心にクリーム色のソースが円を描く。
盛り付け艶やかな料理を睨むお千香が可愛い。
「ヴェルモットって何ですか?」
「いや……全くわからん」
給仕を掴まえ、ハーブを漬け込んだワインと知る。ヨモギの風味が白身との相性を語り尽くしていた。バケットで残ったソースを掬うのも美味しい。
次は肉の主菜という順番だ。二人の気持ちも盛り上がり、ちょっとだけワインに口付ける。
いつの間にかヴァイオリンも次の曲を奏でていたが、奏者は増えていないようだ。ソロでも飽きさせない実力者と言える。
「牛ヒレの蕗味噌添えですか……蕗味噌は昔良く食べました。お肉と食べるのは初めてです」
「昔……ね?」
「む、何ですか?」
「いやいや、何でもないよ……何だ!」
会話を遮る爆発音が轟く。同時に船全体を揺るがす振動が走る。
ラウンジは悲鳴と怒声が入り交じる空間と化した。
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