06 刻印
階段まで取って返し、飛ぶように落ちるように降りる。着地の際、足首と膝に鋭い痛みが走るが今は後回しにするしかない。事務室に飛び込んだ。
「お千香!」
「すみません、お騒がせしました。急に暴れられてしまいまして……」
うつ伏せで組み伏せられているのは三枝麻衣子、狐憑きの少女だ。未だ足をバタつかせている。
組み伏せているのは言わずと知れた妖姫お千香。少女の下にクッションを敷く優しさを見せる。
「憑きものが急になくなって、ちょっとした反動がでたんだろう。ごめん、言っとけば良かった」
「この程度、なんてことありません」
「頼りになるな」
言われたお千香が破顔一笑とはこうですよ、という顔を向けてきた。舜治の目が細くなる。
「これを手首にでも巻いておけば落ち着くから」
白いハンカチ――品物之比礼を渡すと、お千香は少女を抑えながら器用に巻きつけた。途端に鎮まるところが格別な霊具だと物語る。
他者にはどう見えているのやら。
「凄い……」
舜治の見知らぬ女性が呟いた。
軽く虚を突かれ顔が向いてしまう。それまでいることに気づきもしなかった。
「この子のお母さんです」
戸惑い加減の舜治に、求める解が出てくるのは流石の伴侶。
「ああ、そうなんだ。初めまして、東浦と申します」
「娘を、麻衣子を助けてくれたんですね」
「まだ安心しないでください。原因を潰していないので……」
一瞬、母親の目つきが鋭くなったように見えたが、子供の異常事態だからと舜治はそれ以上考えなかった。鏡こそが大きく関わってくるだろうと思っているため、この時は認識と考察を鈍らせてしまうのだった。
「麻衣子が暴れた時は、主人でも抑えられなかったんです。まだお若い女性なのに、凄いですね。あなたも霊能者なんですか?」
どうも母親の関心はお千香にあるようだ。
「いえ、私は終のパートナーです。全てはこちらの東浦舜治という最高の霊媒師が差配した結果です」
「力持ちなんですね」
話の通りがあまり良くないと見える。心労で状況整理が追いつかないのかもしれない。
「……それでお千香、その子に痣かなんかはあったかい?」
これは重要なことだ。あれば人為的なものと確定する。
問われた麗人は表情なく応えた。
「はい、残念ながら。背中の……肩甲骨の辺りに」
「そっか……祓ってあげよう。それで、もう取り憑かれることはなくなるだろうから」
そして母親に向き直る。
「背中捲るけど、いいですよね?」
「え? ああ、何かするんですか?」
聞いていなかったようだ。娘の心身と今後に関わることなのに、心ここにあらずと言った感じを受ける。
それに部屋を見渡すと、今度は父親の姿がない。
――どうなってんだ?
「もう一度お祓いをします。二度と呪いや悪霊を取り憑かせないためにです。背中に印があるようなので、服をめくります。よろしいですか?」
「……はい、お願いします」
この部屋に一緒に突入した佐和子は最前から押し黙り、じっと母親を凝視していた。
何かを確かめるように。何かを探るように。
「暴れないとは思うけど、軽く抑えてて……そう、それくらい」
舜治の簡単な指示でお千香がテキパキと動く。微に入り細に渡り言う必要がなくなったのはいつからのことだったろうか。お互いに気づいたらそうなっていた。
シャツを捲られた少女の背中は肌にくすみもなくキレイなものだった。それ故に左の肩甲骨に浮かぶ暗い紫色の紋様が際立つ。異様さ、奇っ怪さという意味で。
大きさは五センチほどで、小判形の縁取りをしていた。その内側には梵字と言われれば文字に見えるかな、という模様が描かれている。
この紋様を見てもどの流儀で行われた呪詛なのかまではわからなかった。さりとて舜治にはお構いなしで祓うことができる。
左手を悍ましい紋様にそっと載せる。続いて右手にある橙色の玉で左手の甲を二度叩く。ドアノックほどの軽さ。
「天地の清浄これに」
日頃何があっても涼やかな顔をしている男の額に汗が浮かぶ。眉間もやや狭くなっているようだった。
それを見てお千香が目を剥いた。
この巫覡が苦悶の表情を見せることはそうそうない。ただ事ではない証だ。しかし術を邪魔することはできない。もしそれが必要なら合図があるはず。
奥歯を鳴らして耐え忍ぶ。
お千香にはやたらと長く感じられた時間だが、実際にはほんの数秒して舜治は手を離した。
「嘘……?」
母親の口から出た言葉。驚愕に目と口が丸くなる。それも無理からぬと思えるほど、少女の背中はきれいになっていた。最前まであった薄気味悪い紋様が一欠片も残っていないのだ。
代わりに舜治の手のひらにその紋様があった。呪詛の刻印をその身で吸い取ることで少女を祓い清めたのだった。
「ふるべ……ゆらゆら……」
言霊を謳いきる前に紋様は水蒸気が散るように消えていった。
手の具合を確かめるように、舜治は二度三度握ったり開いたりしてみる。その手をお千香の両手が優しく包む。
「問題ない。吸い上げる時、ちょっと痛かっただけだ」
「私も嫌な汗が出ました」
「いつも心配かけるな……今は俺よりも、この子の服を直してあげて」
未だにフリーズ状態から回復しない母親を見ながら訝しむ。こんな時、母親は子供に駆け寄るものではないのだろうか、と。
衣服を整えられ、仰向けに直された狐憑きの少女。目覚めてはいないが、お千香に頭を撫でられて嬉しそうに見える。これで再び取り憑かれることはない。
残るは呪詛をかけてきた相手だ。それにあの大きな鏡のこともある。
「お千香、上に行くぞ」
先ずは鏡に当たる――
くっついてくると思われた佐和子があに図らんや付いてこなかった。その視線はやっと娘に近づき始めた母親に突き刺さったまま。
■ ■
「この鏡、どう思う?」
「どう、と言われても……ただの鏡ですよね?」
「ん? 何も感じないのか?」
お千香は頷くばかり。
怪しさ満点の大鏡を前にして、麗しの大妖怪がまさかの無反応である。これには舜治のほうが驚く。
「ちょっと触ってみ」
躊躇なく手を伸ばし鏡面に触れるも、お千香はこの後どうします、といった目を向けてくるだけ。
そう、お千香の手は中に沈み込むことなくそこにあったのだ。
「実はな――」
頭上にハテナをたくさん浮かべる愛らしい妖姫に、舜治は異次元とも言えるこの鏡の特異性を語った。もちろん己が手を鏡面に突っ込んで見せながら。
案の定、危機意識が足りないとお千香に怒られる。
「わかった、わかったから。今度から気をつけます。それよりこの鏡だ。普通じゃないってわかってくれたな」
普通じゃない男が普通じゃない女に確認を求める。
「そこでだ、お千香。これを殴れ。壊すつもりで思いっきりいけ」
「少し下がってください」
お千香がフルストロークパンチを放つために片足を引く。これは本気だ。思いっきりいけと言った舜治の血の気が引く。
「あ、ちょっとはてかげ――」
時既に遅し。寺院の釣り鐘の如く鳴り響く重低音。その振動が建物を揺るがせる。舜治が咄嗟に目と耳を塞ぐほどだった。
鳴動が収まり、そっと開けた目に映るは――未だに揺れる黒髪とスカートのフリル。そして鉄槌を撃ち放った姿の魔女。
「え?」
その魔女からは愕然とした表情と声が零れる。
大鏡はヒビひとつ入らずにそこにあるのだからさもありなん。お千香に割ることのできない鏡があろうとは思えなかった。
「お千香の馬鹿力で壊せない物があったのか……」
「馬鹿力は酷いです」
そんな折、階下から舜治を呼ぶ声が聞こえてきた。
次回本編最終話です。
お楽しみに。




