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霊異譚イチャつき絵巻  作者: ヘルニアス洋
とおりゃんせの悲劇編
32/101

04 湯煙旅情

 温泉街の中心から少し離れ、小川に架かる橋を渡った先が温泉楼蔵水羽(くらみずは)。今日の二人の宿である。純和風数寄屋造りの二階建てを見上げる。


「また意味有りげな名前だよなぁ」


「どんな意味があるんですか?」


「漢字は違うけど、水の神様のことさ。まあ、温泉も湧き水の一種ってことじゃないか?」


 大正の頃に建てられたままの風格漂う宿だ。一枚板に浮き彫りされたその名も存在感を放つ。朱塗りの欄干、周りの樹木も併せての一流芸術と言えた。この温泉街の中にあって一線を画し、それでいて文化財の指定を拒んでいるという。


「そんなことは気にしないで、大正浪漫を満喫しよう」


「楽しみです!」


 お千香が全身で喜んでいるのがわかる。長い髪から黒いスカートから全てが揺れているのだから。



 三指ついた女将の出迎えに舜治は一瞬たじろぐ。所詮一般家庭育ちの二十の若造だから、こんな扱いには慣れていない。かたやお千香は大物ぶりを見せ、ニコニコと歓待を受けている。

 ロビーと思しきところに上がる。経た歳月は目に見えているのに、古臭さは微塵も感じさせない内装や調度品の数々。二人の心は期待に踊る。

 離れに案内されて、更なる衝撃を受ける。増築したてのはずなのに母屋と変わらない趣きだ。材木にどんな処理をすれば経年の艶を出せるのか。

 圧巻は欄間や障子の組子(くみこ)細工だった。木片の組み合わせがまるでレースのように緻密で繊細な模様を創る。


「現代でこれほどの建築技術が……細工も見事です」


「一生の思い出になりますね」


「何を言う、お千香。機会があれば何度でも来るぞ」


 年若い二人が古き良きを堪能している姿に女将も慈愛の笑みを浮かべる。顔立ち、佇まいが品という文字を表しているような女将だ。丁寧な所作でお茶を煎れてくれる。


「お若いカップルなので、失礼ながら最初は驚いていました。ですが、これほど蔵水羽をお気に召されて、大変ありがたく存じます。母屋のほうも是非ご覧になってください」


 夕食まで邪魔しない旨を残して、女将は退室していった。

 お千香念願の露天風呂はいつでも入れるとのこと。母屋の大浴場も自慢の造りらしいが、混浴ではないため彼女が許してくれないだろう。


 二十畳はあろう和室で両足を投げ出し、寛ぐことにした。開け放たれた窓辺の広縁(ひろえん)からは庭園が臨む。室内にテレビがないことがこの宿の有り様を語っていた。


「いいな……何かが満たされる気がする」


「何もしないって、贅沢ですね」


 露天風呂を確認していたお千香が隣に寄り添う。


「風呂はどう? ネットの写真通り?」


「はい。もう、入る前から間違いないことがわかります」


「そっか……晩飯前に、一回入ろうか」


 お千香は返事の代わりに舜治の胸に顔を埋めてきた。


 愛しいお千香の頭を撫でて思う――自分はこのまま何となく過ごしていってもいいものなのだろうか、と。物部のことはさておき、自分自身がひどくあやふやな生き物のような感覚に囚われることがある。何かの答えを探しているつもりはない。

 そういえば物部のジジイが言っていた。今だけは好き勝手すればいい、と。

 そう振舞っているという自覚は否定しないし、何かを求めていることもしない。だから、あやふやと感じるのだろうか。

 自分を妄愛するこの美しい化生をいつまでも愛でていたい、とだけは強く思った。



 明るい間に風呂に入り、浴衣姿で夕食まで館内や庭を散策する。女将の奨めに偽りなく、どこを取っても風情という真綿にくるまれる心境に浸ることができた。

 街中で覚えた微かな引っ掛かりなど忘れてしまうほどに。されど――


「お主、何故ここへ来た?」


 庭園を眺めていた二人に鋭い声がかけられた。声の主は高齢の女性だった。品のある着物姿であるから、宿の人間だろうか。


「誰?」


「呼ばれたわけではあるまい?」


 こちらの問いには応えない。


「え~と、ここに泊まってみたかったからだけど?」


 舜治は質問の意図がわからず素で返す。


「そうかい……必然なのやもしれん」


 そう言って老女は木立の影に消えていった。首をひねるばかりだが、お千香が思いつく。


「女将さんに似てましたね」


 暗影の兆しに今は気付かない。



 夕食は地場の食材を使った郷土料理を懐石風にアレンジした品々。ビールでは趣きを損なうかと苦手な日本酒を頼んでみたが、これがすいすいと飲めてしまい、二人は上機嫌となっていた。

 この巫覡と妖姫、酔っても酔い潰れることがないが、庭園で会った老女について聞くことを忘れている。


 御膳も下げ寝床をしつらえられたので、広縁に移りどちらもしゃべることなく差しつ差されつを繰り返していた。

 初々しいカップルでもあるまいし、黙って呑み合うのもまた過ごし方だった。

 やがて、どちらともなく手を取り合って露天風呂に向かっていった。



 石組みの湯船に腰掛ける舜治は空を見上げていた。あいにくと星は見えない。湯口から落ちる音だけが響く。


「……隣に行ってもよろしいでありんすか?」


 振り返ると一糸まとわぬお千香が顔を背け気味に立っていた。髪を結い上げ首筋を露わにすることで妖麗さが増している。

 目にしていない肌はどこもないはずなのに――


「魂が抜かれていくのがわかるよ」


 組子行灯が散らす光によって蠱惑的な空間が生み出されていた。

 差し出された手を取り、水音を立てず舜治の傍らに滑り込む。

 二人は揃って深く嘆息し、お湯に溶け込むに任せた。



 翌朝、舜治は一人先に目を覚ました。しかし体は満足に動かない。静かな寝息を立てるお千香にガッチリとホールドされているからだ。解いてくれるまでこちらから外せたことがない。


「お千香、起きてくれ。トイレに行きたい」


 かろうじて動かせる左手で頭を撫でる。


「んー……は、い」


 開放されて布団から這い出る。お千香の腕を布団に戻して、トイレに向かう。昨夜の酒量から我慢はできない。

 戻る頃には上体を起こして、お千香は着崩れを直していた。


「おはよう」


「おはようございます」


 あられもない姿を見られたことを恥じているか、やや顔が赤い。透けるような白い肌とのコントラストが色っぽい。昨夜は唇を重ねただけで寝付いたため、舜治は湧き上がる劣情を必死で押さえ込むのだった。


 朝から湯を浴び、ほっこりしたまま朝食をいただく。既製品ではない漬物がご飯をお代わりさせる。

 大正の建築美を目に焼き付けようと二人で館内をぶらついている時、ロビーの方が賑やかになっていた。チェックアウトにはまだ早い。それに慌てた調子が聞こえて来る。


「一昨日から車が動いてないんだ。ここにも泊まってないんだろう?」


「学生みたいなのが四人連れらしい……」


「やはり、香山病院に行ったのでしょうか」


 女将と中年の男二人が深刻な空気で話している。聞きかじったところは、誰かが行方不明といった感じか。

 関わり合う気がなくとも素通りするには気が引ける気がして、舜治が問いかける。


「どうかしたんですか?」


「あ、東浦様。お騒がせして申し訳ございません。観光客の方だと思われるのですが、行方が知れないようなのです。今、町の若衆が探し回ってくれているのですが……ただ土地の者が足を踏み入れない場所がありまして……」


 宿泊客の名前を憶えているのは流石女将。しかし後半は歯切れが悪い。


「ひょっとして、トンネルと病院ですか?」


「ご存知でしたか」


「いえ。昨日、街中で噂を聞いただけですよ。その時、初めて知りました」


 な、と舜治はお千香に目配せした。目配せされた方も頷きで返す。


「そうですか。くれぐれも興味本位で近づかないようお願いします」


 女将が深く頭を下げ、中年二人も真剣な面持ちで見つめてくる。詳細まで教えてはくれなさそうだ。

 舜治もその気はない。昨日会った謎の老女が現れるまでは――


「お主には行ってもらいたい。いや、お主は行かねばならぬ!」


「大女将!」


 舜治が母志摩子へ宣ったでまかせが真実へと昇華していこうとしていた。

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