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短編

花咲く野原で待っていて

作者: 外宮あくと

 懐かしい道のり。この道をゆくのは、一体何年ぶりだろうか。


 町を抜けて森へと続く一本道は緩やかな坂道だ。ここをまっすぐに進めば、いつだったかあの人とピクニックに出かけた野原に着くはずだ。

 森の手前に開けたその野原は、小さな白い花が一面に咲き乱れていたことを思い出す。葉はハート型で花は丸く愛らしい。その素朴な可憐さが私はとても好きだった。


 一歩一歩、ゆっくりと坂を登ってゆく。

 きっとこの先で、あの人が私を待っていてくれる――。

 はやる気持ちを押さえて登っていった。雨上がりの道はぬかるんでいて、足が重く歩きにくかった。でも、道の脇に茂る草の上で日の光を跳ね返す雨粒が、まるで宝石のようにキラキラと輝いていて、私の心を一層弾ませる。

 こんなに歩いたのは久しぶりで少し息が上がっているが、あの花畑が近づくにつれてどんどんと体が軽くなってゆくような気がする。一足ごとに背負っていた重しが外れて落ちていくようだ。背中が自然に伸び、軽やかに足も弾んでくる。

 するとますます私の心は高揚し、懐かしい思い出が溢れて出してきた。

 あのピクニックの日のことが、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇る。


 そう、あの人ったらお弁当のサンドイッチを花畑に着く前に一人で食べてしまったんだっけ。もう少し我慢してちょうだいって言ったのに、腹が減りすぎて無理だってムシャムシャ食べちゃって……。ホント、子どもみたいな顔して美味しそうに食べるの。呆れちゃったわ。


 私は微笑みながら進んでゆく。気がつけば小走りになっていた。あの人の事を思うと胸が高鳴って、もう歩いてなんていられない。羽が生えたように体が軽くなって、両手を広げれば今にも飛び立てるような気さえするのだ。草の匂いのする風が髪をさやさやと撫でてゆくと、結い髪が解けてパサリと背に落ちてきた。指で髪をすき風になびかせると、私を縛っていたものが少しづつ解けてゆくように感じた。


 あの人に出会った頃の私が、今ここにいる。

 会いたい。あの人に会いたい。

 もうすぐだ。もうすぐ、あの人に会える。





 坂の上の野原は、記憶の通り小さな可憐な花が咲き乱れ甘い香りを漂わせていた。少しも変わらない景色に、ふっと唇が緩む。

 爽やかな風が吹いて、サワサワと草が鳴った。

 胸いっぱいに大きく息を吸い、あの人の名を呼んだ。


「――――。私よ、会いに来たわ!」


 声を限りに叫んだ。

 すると、遠くの草陰からのっそりと起き上がる人影が見えた。ガリガリと頭を掻いてそれから伸びをする。ゆっくりと立ち上がったのは、すらりと背の高い青年。

 胸がドキドキと信じられない程の早さで脈打ち始めた。ああ、あの人だ。やっぱりちゃんと待っていてくれた。

 彼は大きなあくびを一つして、私を見つけるとニッと微笑んだ。笑うと少し垂れ目になる、私の愛しい人。


 いやだあの人ったら、待ちくたびれてあんなところで寝てたのね。そうね、随分待たせちゃったもの。ごめんね、あなた。


 花畑の中で佇む彼が、じっと私を優しく見つめている。この顔が見たかった。

 私は駆けだした。早く彼の胸に飛び込みたくて懸命に走った。頬が紅潮しているのが自分でも分る。目も熱くてたまらない。この瞬間を幾度夢見たことか。

 夢中で彼の名を繰り返し、花咲く野原を走っていった。

 ああ、あと少しで……。


「はい、ストップ、ストーーップ! 足元よく見て!」


 突然、彼が素っ頓狂な声を上げブンブンと手を振っている。そして、困ったなあと首をかしげて笑うのだ。

 言われて急停止した私はつんのめり、転びそうになるのを必死で堪えた。感動の再会を果たすはずだったのに、その相手から待ったをかけられて、なんなのよと眉をしかめる。


 どうしたのかと足元を見ると、幅一メートル程の小さな川が流れていた。もう少しで水にはまるところだったのだ。

 こんな所に川なんてあったかしらと、記憶をたぐったけれど思い出せない。だが、そんなことはどうでもいい。小川なんて飛び越えてしまえばいいのだ。

 これくらい簡単だ。私は木登りもできるし、馬にだって乗れるのだ。子どものころはお転婆娘とよく言われたものだ。


「平気よ!」


 私はロングスカートを思いきりたくし上げて、勢いをつけようと少し後ろにさがった。

 彼は川の向こう側、水に足が入るギリギリの所まで歩いてきてクスクスと笑う。


「ダメダメ。そんなんじゃ飛び越えられないよ」


 大げさに肩をすくめ、視線をぐっと下げた彼の笑いがニタニタと下品なものに変わる。そのスケベったらしい顔にも懐かしさを感じるのだけど、更にしゃがんで私の足を鑑賞し始めたので、パッとスカートを離した。


「ああ、残念。もっと見たかった」

「もう……バカ!」


 口を尖らせて膨れてみせたけど、私は内心可笑しくて楽しくて嬉しくてたまらなかった。以前と変わらない軽口を言う彼が、愛おしくてたまらない。

 濡れたって構うものか、深さはせいぜい十センチか二十センチくらいだろう。歩いて渡ってしまおう。

 一歩、水の中に足を踏み込んだ。


「ひゃ?!」


 想像以上に冷たい水だった。そして踏み込んだ瞬間、川幅がスッと倍ほどに広がった。彼も川と一緒に遠ざかる。


「え?」


 慌ててもう一歩踏み出すと、更に川幅が広がり水深も増し膝のすぐ下までが水に浸かっていた。目の前にいたはずの彼が遠くなってゆく。

 一体これはどういうことなのか。

 急に不安がこみ上げてきた。喜びに高鳴っていた胸に、冷たい予感が針のようにチクリと刺さる。助けを求めるように視線を送ると、彼はゆっくりと首を振った。


「君は、早すぎたんだよ。せっかちだね……」


 目を細め少し寂しそうにそう言った。

 ドキンと一つ心臓が鳴り、私は恐ろしさに震えた。ブンブンと頭を振って叫んでいた。


「早くなんて無いわ! 私、あなたに会えるのをずっとずっと長いこと待っていたのよ! やっとここへ来れたのに!」

「それでもまだ早いんだ。……戻るんだ、君を待っている家族のところへ」

「いや! いやよ! 帰らないわ、あなたと一緒にいるの、もう離れたくないの!」


 晴れ渡っていた空が暗転した。陽の光は途絶え闇の中に放り出されてしまったようだ。激しく吹き付ける風が髪をバサバサをなぶってゆく。

 私はザブザブと水をかき分ける。夢中で川の中を進んでゆく。この川を渡りたい。あの人のところへ行きたい。もう彼に置いて行かれるのは嫌なのだ。


 しかし、無情にも進めば進むほど川は広く深くなって、私と彼とを遠ざけるのだった。流れは激く私を押し戻し行く手を阻み、決して向こう岸に渡してはくれない。

 どんなに必死に手を伸ばしても、彼に届かない。私はわあわあと泣き出していた。


「いやよぉ! どうしてよ! どうしてそっちに行けないのよぉ!」


 向こう岸の彼も泣きそうな顔で私の名を呼び、手を差し出してはいやダメだと引っ込める。そして見ていられないと頭を掻きむしって、岸に戻るんだと何度も叫ぶのだった。

 それでも、戻ろうとしない私に業を煮やしたのか、彼も川に入ろうとする。しかし見えない壁のようなものにドンと跳ね返されて尻もちをついていた。立ち上がった彼はオロオロと足踏みし切なげな声を上げた。


「……そんなに泣かないでくれ」

「連れてって……お願い、連れてって。私を一人にしないで!」


 私の哀願に彼は首を振った。そして静かな声で答える。


「ダメなんだ……今は、おかえり。…………それに君は一人じゃないだろ?」


 私は嫌だ嫌だと泣きながら、川の中途で立ち尽くしていた。

 冷たい川の水に晒されて体は冷えきり、ガツンガツンと頭が痛んできた。今にも倒れそうだった。さっきまで軽く感じていた体が、また石のように重くなってゆく。頭に肩に腰に重しが張り付いて、背中が曲がり力が抜けてゆく。体中が軋んで動くのも辛い。

 私は彼を見ていたくて戻りたくなくて、必死に顔を上げていた。涙が止まらない。


 すると、何かを決意したような顔で彼がうなずいた。少し上の方を見上げて、何かつぶやいている。私には何も見えなかったが、そこに誰かがいて話をしているようだった。

 そして彼がふわりと浮かび上がったのだ。ふわふわと漂うように私に近づいてくる。

 ああ、連れて行ってくれるのねと私は安堵した。


 それなのに……。

 私の髪に触れるか触れないかの所まで近づいた彼はそっと囁やいたのだ。


「大丈夫……必ずまた会えるから」


 そのつぶやきと同時に、見えない力がそっと私を後ろに押しやった。

 たった一歩、後ろに。

 それだけで私は川岸に戻されていた。





 空はまた青く澄み、頭上に丸い虹がかかっていた。穏やかな風が吹いて、遠くに小鳥のさえずりが聞こえてきた。

 川幅も狭まり、すっかり元の小川に戻っていた。そしてまた、向こう岸に彼が佇んでいる。

 私はヘナヘナとその場にしゃがみこんでしまった。


「……どうしてもダメなのね……」


 どうやら、私はまだ生きていなければならないらしい。私は痛む頭を押さえながらつぶやき、年輪を重ね掠れてしまった自分の声にドキリとした。

 こんなにも胸が張り裂けそうなのに、十分長い時間生きてきたというのに、私は彼のいない世界にまた戻らなければいけないなんて……。

 流れる涙を、皺の刻まれた指で拭う。


「こんなおばあさんになってしまったから……嫌になったの?」


 川を越えられないのは彼のせいではないと分かっているのに、私は卑屈につぶやいてしまった。そうじゃないと言って欲しかったのだ。

 そして彼は満面の笑みを浮かべて、私の願い以上の答えをくれた。


「オレにとって君は永遠に可愛子ちゃんだよ。次に来た時はもう絶対に離さないから」


 後から後から涙が溢れてくる。

 あまり愛していると言われたことはなかったけれど、彼は歯が浮くような台詞を平気でよく口にしていた。そして今も、懐かしい愛称で私を何度も呼び「大丈夫、離さない」と繰り返す。

 胸がいっぱいで、私の涙は止まりそうになかった。

 でも、少しだけ笑みを浮かべることはできた。


「…………相変わらずクサイこと言うのね」

「あのなぁ……」


 まったく君は、と私の強がりに呆れて彼も笑う。

 サワサワと風が流れて、心が少しずつ凪いでくる。彼とまた離れ離れになる寂しさと悲しみが徐々に覚悟に変わってきた。彼の笑顔が私に勇気をくれる。この人に出会えて本当に良かったと、今更ながらに思った。


「ほら……聞こえるだろう、君を呼んでる。待っている人がいる」


 その声のことは、彼に言われる前から気づいていた。遠くから聞こえてくる声は、始めは気のせいかと思う程かすかなものだったけど。


『…………さん……』


 ずっと何度も呼びかけてくるその声に気づきながら、私は聞こえないフリをしていた。でも今はもう、無視できないくらいその声は大きくなって……


『……か……ん』


「さあ、もう行くんだ。オレはずっと持っているから、心配しなくていい」

「……あなた」


 空を指差して、彼がニッコリと微笑む。

 そうね、戻らないといけないわね。ああ、でもあともう少しだけ、あなたを見ていたい……。


 天頂の丸い虹の中から、声が聴こえる。

 

『……母さん!』







「母さん、しっかりしてくれよ……」


 息子の声に、私は目を覚ました。

 ぼんやりと霞んだ目に映った人影が徐々にはっきりとしてると、息子が目を赤くして私を見下ろしているのが分かった。

 私は見慣れた自分の部屋にいた。ベッドに横たわり、息子とその妻と孫娘に囲まれているのだ。


「ああ! 母さん、良かった!」


 息子が大きな声を上げるものだから、頭がズキンと痛んで思わず顔をしかめた。手を当てると包帯が巻かれていた。

 そういえばと思い出す。久しぶりに散歩に出かけて、雨にぬかるんだ道で転んだのだった。その後のことは分からないが、恐らく頭を強く打ったのだろう。


「……本当に良かった。もう目を開けてくれないかと思った」

「やあねえ、大げさだね、お前は……」


 若くして逝った夫にそっくりの息子が、安堵に力が抜けたのか情けない顔で微笑む。とっくに父の年を越え、生まれた子どもも成人したというのに、なんだが迷子になった幼子のような顔で私を見るものだから、堪らなく愛おしくなる。


「父さんをずっと呼んでたよ……だから、連れていかれてしまうんじゃないかと思ったんだ」

「そうなの、やった会えたのよ。でも、帰りなさいって言われちゃってねぇ」

「えっ……父さんと、話したってこと?」


 驚きに眉を寄せて息子は妻と顔を見合わせる。

 私はホッホと笑った。後であの野原のことを詳しく話してあげよう。きっと、もっと驚いて渋い顔をするに違いない。お前の呼びかけを聞いて、戻ってきたと言ったら安心するかしら。

 息子を泣かせずにすんで良かった。頭は痛むし体もギシギシと悲鳴を上げているけれど、戻ってきて良かった。息子の泣き顔はあまり見たくないから。置いていかれる者の悲しさや苦しさを、私には身にしみて解っているから。

 しかし、私は必ず息子より先に逝くのだ。その時は泣いてもいいから、またねと見送って欲しいと伝えておかなくちゃ。


「お祖母ちゃん……お祖父ちゃんに会うのはまだ先にしてちょうだいね。ほら、この子を見て」


 孫娘がそっと大切な宝物を私の前に差し出してくれた。

 生まれたばかりの赤ん坊。私の初めてのひ孫だ。

 遠い町に嫁いだ彼女は、私にこの赤ん坊を見せる為にわざわざ来てくれたのだ。


「まあ、可愛い……お前が生まれた時の事を思い出すわ」


 じんと目が熱くなる。

 私は、愛しい命の繋がりに幸せを噛みしめた。眠る赤ん坊に、あの人の面影を見ていた。




 夫を亡くした時は、苦しく辛くて生きていたくないと何度も思ったものだった。幼い子どもたちや夫との約束がなければ、本当に自ら命を絶っていたかもしれない。

 平坦な人生ではなかった。寡婦になってからは、一日一日を過ごすのに精一杯でお金も心も余裕なんてなかった。世間知らずな私はよく騙されて酷い目にもあった。しかし、その度に周囲の愛情に支えられ助けられてきた。

 そして今は穏やかな時間を生きている。年老いても、私を見守ってくれる家族が側にいる。忘れずに訪ねてきてくれる友人もいる。あの川辺で彼が言ったように、私はいつだって一人ではなかった。


 大きくなった子どもたちは、それぞれ家庭を持ち何人もの孫も産まれ、そしてひ孫まで誕生した。

 夫が望んで得られなかった幸せを、私は手に入れていたのだ。

 彼にたくさんのみやげ話をしてあげるためにも、私は精一杯自分の人生を全うしよう。生きられる限り、前を向いて生き続けよう。それが彼との約束だったのだから。


 必ずまた、彼と会う日がやって来る。だから、寂しく思うことはないのだ。

 それはもう遠い日ではないのだし。

 彼に何から話そうか。やはり子どもたちのことからだろうか。


 息子はあなたにそっくりな顔だけど、性格は真逆で生真面目よって。でも娘はあなた似で自由奔放すぎて、小さころは手を焼いたのよって。末の息子はまだお腹の中だったから、あなたは顔を見ることもできなかったけど…………みんな良い子よ、立派な大人になったわ。

 いっぱいいっぱい話したいことがある。だって五十年分もあるんだもの。ゆっくり話しましょうね。


 だから、あともう少しだけ……。

 花咲く野原で待っていて。




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― 新着の感想 ―
[一言] 読んでいてこそばゆい内容でしたが、それでも読み進めてしまう作品だと思います。 ここの文章が好きでしたね。 >そのスケベったらしい顔にも懐かしさを感じるのだけど、更にしゃがんで私の足を鑑賞し…
[一言]  外宮さん、花咲く野原で待っていて、作品読ませてもらいました。  花畑、小川。  これは、臨死体験、その最中の再会だったんですね。  最も楽しかった思い出のなかへ帰ってゆく。 (想像ですが)…
2016/06/25 18:11 退会済み
管理
[良い点] まずはタイトルですね。一言で、美しくも優しいタイトルに引かれます。 続いては全体の流れでしょうか。 文章がスムーズに流れ、終わりまで一気に読み進める事ができます。 しかしながら決して「急…
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