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三の夢 二人のアリス

白と黒のアリスが出会い、そしてやっと始まる。

小さな物語が……。

「お姉ちゃんっ!」

 後ろから聞き覚えのある声が飛んできた。振り返ると黒いものが走ってくる。短い髪が風に揺れ、頬は赤く染まり、顔は嬉しそうに笑みを浮かべて。

 あたしは彼女を知っていた。

 抱きついてくる相手を受け止めて名を呼ぼうとする。

 また……空白。

 彼女の名前があたしの名前と同様にぽっかりと消えていた。彼女があたしの妹だということは間違いない。けど、やはり名前だけが出てこないのだ。

 妹とあたしは一つ違い。でも四月と三月生まれだから同じ学年だったりする。仲はもちろん良くて妹はしょっちゅうあたしの後を付いてくるのだ。

 今日だって学校の帰り道を一緒に歩いてたのよ。それでウサギがマンホールに落ちそうになってるのを見つけて……。

「お姉ちゃん、どうかした?」

 そこではっと気が付く。彼女は不思議そうに腕の中で首をかしげていた。

 首を横に振り「なんでもない」と付け加える。妹はどこかほっとしたような笑みを浮かべた。

「よかった、お姉ちゃん。マンホールに落ちてからどうしたのかと思った。だって全然見つからないんだもの」

 弾んだ声。肩は呼吸を助長するように上下している。あたしは彼女の頭をぐりぐりと撫でた。そこで違和感を感じる。

「アンタ、落ちた直後の記憶あるの?」

「うん、あるわ。ウサギを捕まえたはいいけど真っ暗でなーんにも見えなくてお姉ちゃんを呼んだけど返事はなくて……」

 どんどんと声が小さくなっている。一人になってしまった時のことを思い出したのだろう。彼女はとても怖がりだ。

「でも、チェシャ猫さんに会ったのよ!」

 すぐに戻った弾んだ声。でも、あたしはそれより出てきた名前が気になった。

 チェシャ猫?

 それはさっき、あたしが出会った白いカッパの子供。

 この子もアレにあったというの?

「ねぇ、それって真っ白な服を着た子供よね?」

 確認するように問う。でも予想外に彼女は首を捻った。そして言う。

「さあ? 暗い中でおっきな目だけが光っていたの。チェシャ猫って言ってたから大きな動物だと思ったけど人間だったのね? 見上げる程大きな猫なんていないかぁ」

 はしゃぐように話す彼女。でも彼女の話すチェシャ猫の容姿はあたしが出会った子供のそれと違っていた。

 きっと妹が目だと言ってるのはあのフードについた大きな飾り。でも、あの子供はあたしより……ううん、妹より全然小さかった。

 別人?

 でも、早々同じ名前の人間に関係ある二人が出会うかしら?

「でね、彼、ワタシのことをアリスって言うのよ」

 ぴくり、と自分でもわかるくらい眉が跳ね上がった。

 ―― アリス……。 ――

 チェシャ猫の声が頭の中で反復される。

 振り払うようにあたしは二、三度首を振った。

「不思議よね。あたしも言われたわ。あたし達はアリスなんかじゃないのに」

 その言葉に俯いて視線を泳がせる妹。こんな時の彼女は何か言いたいのだ。でも、迷っている。

「何? 言いたいことでもあるの?」

 誰かが促さないとずっと黙ったままになるのは経験済み。彼女は更に戸惑いを見せた後、ゆっくり口を開いた。

「お姉ちゃん、変なこと訊くけど……ワタシの名前覚えてる?」

 ドクン――ッ

 鼓動が大きく鳴った。あたしは今、一度も妹の名前を呼んでいない。判らないのが変に申し訳なくて誤魔化していた。でも、こう質問されたら答えるしかない。

 あたしは遠慮がちに首を左右へ振った。

「やっぱり! お姉ちゃん、ワタシもお姉ちゃんの名前忘れちゃったの。ううん、お姉ちゃんのだけじゃない。自分のも他の人も誰の名前も思い出せないの!」

 一気に彼女は捲くし立てる。その瞳は好奇心に輝いていた。妹は昔から現実離れしたことが好きなのだ。あたしと違ってよく本の世界に憧れていた。

「お姉ちゃんもそうなんでしょう?」

「え、えぇ。そうね、信じられないけど」

 弾んだ声で問われて戸惑いながらも頷き返す。そう、まったくその通りなのだ。考えてみたら誰の名前も思い出せない。父さん、母さん、学校の先生、友達……誰も。名前だけが空白の思い出は妙に気持ち悪かった。

「本当、信じられないくらい不思議。本の世界に来たみたいよ! そうだ、お姉ちゃん! お姉ちゃんはチェシャ猫さんに何て呼ばれたの?」

「あ、アリス。白のアリスって……」

 好奇心に満ちた瞳と口調に押され、深く考えず反射的に答える。すると、彼女は数回瞬きしより大きく黒い瞳を見開いた。

「お姉ちゃんだったのね!? チェシャ猫さんが言っていた白のアリスって。ワタシね、白兎を追って白のアリスを探すように言われたのよ!」

 ぐっと拳を握り締め熱の入った様子で言う妹。その熱の篭り様にあたしは半分以上彼女の話を聞き流していた。

 ―― アリス、白兎を追って。まずは黒のアリスを見つけて。 ――

 ぽんっと、脳内にあの声が思い出される。確かそんなことを言っていたっけ。

 黒のアリス。

「あたしも……あたしも言われたわ。黒のアリスを探せ、って」

 ぽつりと自分に向けて呟くように言った。そして気が付く。妹の表情がより一層輝いたことに。もしかして、もしかしなくても多分……。

「アンタ(ワタシ)が黒のアリス! 」

 綺麗にはもった声が虚空に吸い込まれて消えていく。暫く互いに何も話さなかった。でも、妹はにっこりと嬉しそうに笑っている。

「まぁ、いいわ。ところで、あんたこれからどうするの? あたしは黒のアリスを探せ、としか言われてないわ」

「呼び方がなくて不便ならクロって呼んで、お姉ちゃん。ワタシも白のアリスを探した後のことは聞いてないの。ごめんなさい」

 しょんぼりと妹――クロ(仕方がないので仮でそう呼ぶことにした。)は頭を下げる。謝る必要は無いんだけど……困ったわね。

 腕を組んで黙ったまま考える。ふと視線を下げたら自分の足元が目に入った。小さな違和感。足元に散っている黒い葉っぱが動いている。

 風もないのに?

 ぞわりと肌が泡立った。そして気が付く。ざわざわと囁くような声に。クロの腕を掴み引き寄せて辺りを見回す。人影は無い。でも、囁きはどんどんと大きくなっていく。

 ―― アリスだ。アリスが揃った。

 帰ってきたんだ、アリス達が。 ――

 ―― 色が、色が戻るぞ! ――

 同じような囁きがそこかしこで聞こえる。でも、誰の姿も見えない。

 ぎゅっと妹があたしの腕にしがみ付いた。

「アンタ達誰よ!!」

 あたしは沸きあがる恐怖を抑え、叫ぶ。妹に格好悪いところは見せられないから体全体を駆け上ろうとする震えを必死に堪えた。ざわめきはぴたりと止まる。

 暫くの沈黙。

 その後に、またさっきよりも静かに囁きは戻ってきた。

 ―― アリスは私達のことを忘れているわ。

それは困った。 ――

 ―― 色が戻ればきっと思い出すさ! ――

 ざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわざわ

 聞き取れないくらいざわめきが大きくなる。背筋を一瞬にして何かが這い上がってきたような感覚に襲われた。木々が大きく揺れて葉が擦れ合う音。それが人の声のように聞こえているのだと気が付いたせいだ。

 そして葉は一様に同じ言葉を繰り返す。

 ―― アリス、私達に触れて。

 さあ、早く ――

 ―― アリス、色をちょうだい ――

「きゃぁぁあああっ!」

 直ぐ近くで耳を劈くような悲鳴が上がった。妹だ!

 あたしの腕を掴む彼女の力が一層強くなったから間違いない。振り返れば妹の体中に木の根が巻きついていた。

「クロっ!!」

 木の根を掴んで引っ張り妹から引き剥がす。もちろん怖かった。でも、妹をそのままにさせたくなかったし、何より妹を襲った木々に対しての怒りが先行していた。怒り任せに頭より体を動かす。木の根は案外あっさり剥がれたが直ぐまた巻きついてきた。

「おねえちゃあぁあんっ!」

「大丈夫! すぐ助けてあげるわ!!」

 妹は耐え切れずわんわん泣きながらあたしを呼ぶ。それに答え、慰めながらあたしは必死に戦った。でも、木の根は妹だけでなくあたしにまで巻きついてくる。段々身動きが取れなくなってきた。

 このままじゃ――っ

「こらこら迷いの森の木々達よ。あんまり手荒なことはしちゃいけないよ?」

 目を瞑って諦めかけた瞬間、よく通る声がこだました。

 今度こそ、人間の声だ。しかも何処かで聞いたことがある……。

 何処だったっけ?

 思い出せない。

「アリスは怖がってるじゃないか。そんなことしてると色を戻してもらえないかもしれないよ?」

 更にその声は話を続ける。すると木の根がゆっくり引いていった。体の自由を確かめ、直ぐに妹を引き寄せ抱きしめた。そして、声の主のほうを振り返る。

 黒いシルクハットに同じく黒の燕尾服をぴっしり着こなしている男。帽子の横にちょこんとはみ出した灰色の長い獣の耳が妙に不釣合いだ。

 口元に笑みを浮かべているが肌は灰色。黒と白と灰色のコントラストで古い写真を見ているようだった。

 黒い森、灰色の空、モノクロの人間。あたしは自分の肌を見た。ちゃんと見慣れた色だ。あたし達二人以外に色は無い。彼等の色は何処へ行ってしまったのだろう?

「それにアリスはまだ、何も知らない。説明役が必要なのさ。僕みたいな」

 木々のざわめきは既に止んでいた。燕尾服の男は言葉を続ける。その言い様はまるで歌っているようだった。

 ―― お前は誰だ? 何を知っている?

 わかった、いかれ帽子屋だ! ――

 ―― そうだ! その帽子は間違いないっ ――

 木々がざらりと揺れて囁きあい、人間に近い声を作り出す。彼は笑った。

「正解。でも、よく見てよ? この耳は何だろう?」

 くるりと手にした黒い傘を回して楽しそうに喉を鳴らし帽子からはみ出た耳を指差す。

 ―― いかれ帽子屋の耳は人間の耳のはずだ。

 じゃあ、いかれ帽子屋じゃないのか? ――

 ―― あの灰色の長い耳は三月ウサギよ ――

「それも正解」

 満足そうに笑みを満面に広げ、小さく一度頷いた。彼はいかれ帽子屋で三月ウサギらしい。木々が一斉にざわつく。そんなはずはない。と言う意味のどれもこれも似たような言葉が繰り返された。

 ―― 怪しいやつだ!

 きっとアリスを狙う危険なやつだ! ――

 一際大きな声が辺りの空気を震わせた。二重三重に沢山の人の声が重なっているように聞こえ、耳が痛くなる。そして、声は消えた。けれど葉の擦れ合う音自体が消えたわけじゃない。

 ざわざわざわ、と、言葉にならない音が周りを支配する。

 シュッと風の切るような音が耳の直ぐそばを掠めた。ぎこちなく振り返ればそこには太い根。さっ、と血の気が引いていくのがわかった。あと少しずれていたら……考えるのはよそう。

「まったく、困ったものだね。すぐに周りが見えなくなるのだから」

 やや遠めにあったはずの声が直ぐ後ろで聞こえた。根が降ってきた方だ。いつの間にやらあのいかれ帽子屋三月ウサギがとても近くに居る。そして、傘で根を弾き飛ばしていた。それでも絶えず根は襲ってくる。いや、根はここら一帯に見境無く降り注いでいた。

 それをあたし達の付近だけ全て彼がなぎ払っているのである。

 状況をうまく頭が受け付けなくて暫く呆然と彼の背中を見てた。

「アリス、ぼんやりとしてたらいけないよ。そろそろ抜け出さないと僕達全員、風穴だらけになってしまう」

 彼が振り返らずに言う。その言葉は軽く、歌うような口調だった。緊迫感はゼロ。

 でも、それが冗談でないことはすぐわかった。彼の足が少しずつ後ろにずれてきているからだ。後ろ足の付近にこんもり小さな山が出来ている。押されて、いるのだ。木に。

「わかったわ。けど……何をすればいいの?」

 あたしは背中に問いかける。妹は腕の中で目を瞑って震えているのだ。あたしが何かやるしかない。

「僕に掴まってごらん」

 彼は答えた。そして、片足を後退させ体半分ほどこちらに向ける。手が目の前にきた。白い手袋に覆われたその手をあたしは迷わず掴む。彼の口端がつりあがったように見えた。

彼はぐっと手を握り返してきて、一言。

「跳ぶよ?」

 その言葉が終わるか終わらないかのうちに足が地面から離れていた。ぐいぐいと森の葉の塊の中に引っ張られていく。でも直ぐに抜けて灰色の空が見えた。頬を掠める風が気持ちいい。髪がたなびいてはたはたと音を立てた。

「アリス、もし恐怖はもう去ったなら下を見てごらん」

 いかれ帽子屋三月ウサギが振り返り笑う。彼は、顎で地面のほうを指した。その言葉と仕草に誘われて視線を落とす。

「……すごい……」

 ため息とともに言葉が出た。

 今まで見たこと無いような光景。黒い鬱蒼とした森が真下にスペードの模様を描き、その周りを川が囲んでいる。その川は、どこか遠くへ一本だけずーっと伸びていた。森から旅立つようにずっとずっと。川の終わりはまったく見えない。

 そのスペード型の森の他にあるのは草原と他の森。他の森の形はわからなかった。そこまであたしは高い場所にいない。でも、他の森の周りにも川が流れているのは見えた。

「面白い形だろう? この間女王様が模様替えをなさったばかりなのさ」

「えぇ、こんなのはじめて見たわ」

 上から声が降ってくる。あたしは風景に見惚れて半分上の空で返事を返した。

「お姉ちゃん?」

 腕の中であたしを呼ぶ声にはっとする。妹が目を瞑ったまま不安そうにしていた。未だに怖くて目が開けられないらしい。

「大丈夫よ、目を開けてみたらいいわ。すごいんだから」

 自分の声はとても弾んでいた。頬が緩んでいるのもわかる。あたしの胸は大きく鼓動を鳴らしていた。

 隣でごくり、と唾を飲む音が聞こえる。

「……すごい……」

 あたしと同じ言葉がクロの口から漏れた。彼女を見やれば瞳が煌々と輝いている。どうやら彼女もこの景色を気に入ったようだ。

「アリス、景色は十分堪能したかい?」

 いかれ帽子屋三月ウサギが問いかけてきた。あたしは迷わず大きく頷く。

「えぇ、すごく素敵だわ」

「じゃあ、落ちるよ?」

 え?

 思わず振り返って彼の顔を凝視する。柔和に微笑んだままの表情に不安になった。

 落ちるってどういうこと?

 訊こうとした瞬間、がくんっ! と、彼の急上昇が止まった。

 そして……。

「跳んだら落ちる。常識だよ?」

 くすくすと楽しそうに目を細めて笑いながらも、いかれ帽子屋三月ウサギは落下していく。もちろんあたし達も一緒に。

 落ちるスピードは徐々に加速し、地面は嘲笑うかのように迫ってくる。

 あたしの隣から悲鳴が上がった。妹だ。

 そりゃ、怖いわよね。どんな絶叫マシーンも顔負けの落下スピードだもの。

 しかし、あたしはいたって落ち着いていた。チェシャ猫の時の落下の浮遊感の方が数倍怖かったからだ。だから、叫んでもいない。

「ちょっと! もっとスピード落とせないの!?」

 むしろあたしはいかれ帽子屋三月ウサギを睨み付け食って掛かる。

「う~ん、そいつがねぇ。いつもスピード調整に使ってるこいつが、困ったことにさっきの木々達のおかげでボロボロになってしまってるんだよ」

 困った雰囲気は一切感じさせない口調で、彼は傘をくるりと回しながら言った。そういえば、あの傘で木の根を弾き飛ばしていたわ。

「ボロボロでも使えるんじゃないの? ちょっと一回使ってみてよ。少しはマシになるかもしれないわ」

 黒い傘はそんなにボロボロになってるように見えなかった。まぁ、いかれ帽子屋三月ウサギが間に挟まってよく見えないんだけど。

「別にいいけれど……あんまり変わらないと思うね」

 言いつつ彼は片手で傘を開いた。黒い傘に穴がボコボコ開いている。本当にボロボロになっていたのだ。

「あー、ひどいな。気に入っていたのに」

 傘を上に向け、残念そうに眉を寄せ彼は呟く。

 でも、いったいこの傘をどうつかうのだろう? まさか、差すだけなんてことはないわよね。そんなんじゃ、落下スピードを調整できる筈無いもの。

「ほらごらん、アリス。僕等を助けようとする風は穴から殆ど抜けていく」

「へ?」

 思わず絶句する。

 確かに風はひゅーひゅーと傘の穴から抜けてるけど……。

「アリス、そんな顔してても仕方ないよ。地面はすぐそこさ」

 言われてはっ、と下を見る。もうすぐそこだった。手を伸ばせばきっと届く。そんな近さ。思わず目を瞑った。

 ボスッ!

 ……あれ?

 予想と反した音。ゴッ、とかグチャとか、そんな音がすると思ってた。何か柔らかいマットの上に落ちたような?

 そういえば、体も全然痛くない。目を開けた。正面ににっこり笑ったいかれ帽子屋三月ウサギが立っていた。あたしの腕の中の妹は気を失っている。

「良かったね、アリス。優しい草の上に落ちて」

 言われて下を見た。灰色の草が沢山折り重なって山になっている。その上にあたし達はいた。落ちていく瞬間に見た地面にはこんなもの無かったはずなのに。

「アリス達の為に集まってきたんだよ。さあ、立って」

 手を差し出された。妹をそっとその場に寝かせて、その手を取り立ち上がる。

 草の山の周りは黒い土が見えていた。さっきは満遍なく草が広がっていたはずなのに。

「不思議……」

「しまった! もうこんな時間だ!!」

 小さく呟いた時、隣のいかれ帽子屋三月ウサギが慌てた様に大きな声を出した。

「ど、どうかしたの?」

 振り返り問う。彼は銀の懐中時計を片手に持って首の後ろを世話無く擦っていた。

「見てごらん、アリス。もう三時だよ! お茶の時間だ。戻らなければ!」

 銀の時計をあたしの真ん前に勢いよく突き出す。危うく、顔面に当たりそうになった。

 この人……そんなに三時のおやつが大事なのかしら?

 あれ?

「でも待って、この時計」

「僕はもう行くよ! もし良ければ僕のお茶会に寄ってくれ。アリス。準備をして待っているから」

 彼はそそくさと時計をしまい、早口に捲くし立てた。あたしが何か言おうとしたことにも気づいてないようだ。そして、こちらの反応を待たず踵を返し駆けて行く。

 時折飛び跳ねながら走っていく彼の背中はあっという間に見えなくなった。

 取り残されたあたしは暫く呆然と虚空を眺めていた。

「……寄れったって何処でやるかなんて知らないのにどーしろっつーのよ?」

 あたしが呟いた疑問もさらりと風が流していく。

 なんか、すごく虚しい。

 でも、いつまでもぼんやり突っ立てるわけにもいかない。あたしはまず足元の妹を見た。意識は戻っていないようだ。しゃがんで抱き起こし頬を軽く叩く。

「クロ、クロっ!」

「う、う~~ん……」

 微かに唸りゆっくりと彼女は瞼を上げる。数回瞬きを繰り返して、自分の力で起き上がり首を傾げた。

「えっと……う~ん」

「クロっ! 大丈夫?」

 まだ意識がはっきりしてないんだろう。ぼんやりとしている妹の肩をしっかり掴んで揺さぶる。

「お、お姉ちゃん、だいじょぶ! だいじょぶだから!」

「よかった……」

 彼女の意識は、はっきり覚醒したようだ。安堵の息を吐く。手を離して彼女の正面に座った。

「えっと……お姉ちゃん。帽子屋ウサギさんは何処に行ったの?」

 キョロキョロと辺りを見回してクロは不思議そうに首を捻る。多分、彼女が言っているのはいかれ帽子屋三月ウサギのことだろう。

 あたしは左右に軽く首を振った。

「どっか行っちゃったわ。動いてない時計を見て、ね。三時だからお茶会するとか言ってたわよ?」

 そう、あたしに見せられたあの時計は動いてなかったのだ。秒針さえぴくりとも。教えてあげようと思ったけど、そんな暇なくいかれ帽子屋三月ウサギは去ってちゃったし。

「そうね、いかれ帽子屋に三月ウサギだもの。終わらないお茶会をするんだわ」

 何故か妹は一人納得したように、うんうんと頷いた。彼女の言っていることが何のことかあたしにはさっぱり判らない。

「ま、いいわ。それよりこれからどうするの?」

「これから?」

 立ち上がって何処か遠くを見やりあたしは言った。妹も釣られたように立ち上がる。そして困ったように眉を寄せていた。あたしも特に案があるわけじゃないのでそのまま黙る。

「……あっ! お姉ちゃん、アレ見て!」

 いきなり沈黙を破り妹が叫んだ。あたしの腕を引っ張っりながら、ある一箇所を指差している。

 白い兎が一匹。

 森に駆けていくのが見えた。妹がよりあたしの腕を引っ張る。

「お姉ちゃん、白兎よ! 追いかけなきゃ!!」

「え、えぇ、でも……」

 ここで止めても無駄だった。はしゃいでる時の妹は周りが見えないのだ。あたしの腕を引き走り出そうとする。仕方ないから一緒に駆け出した。

 白兎はもう森の茂みの中に消えている。

 追いかけてあたし達はさっきとは別の森へ入っていった。

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