十一の夢 公爵夫人の屋敷
スペードの13の塔の地下を通りハートの12の城に向かう黒のアリス。
一方、ダイヤの10の森へ白のチェシャ猫、白兎と共に向かった白のアリスは……。
「まったく。何でこんなことになるのかしら……」
鬱蒼と茂る草を掻き分ける手と足を止め、深い溜息と共に肩を落とす。今、あたしは森の中で一人だ。近くにチェシャ猫も白兎も居ない。何故か、その答えはすごく簡単。
あたしはチェシャ猫の上から移動中に落下した。ただ、それだけ。
それから、チェシャ猫も白兎もあたしが落ちたことに気がつかなかった。ほんと、それだけよ。
何でもっとしっかり掴まっておかなかったんだろう。とか、何でチェシャ猫も白兎も気がついてくんないのよ! とか、今考えてたって仕方ない。
起こったことは戻せないんだし、考えたところでイライラするだけ。落ちた時に怪我をしなかっただけマシと思うしかない。
「あれー? ちっさいアリスだぁ」
頭を振り、さあ! いざ、二人が去った方向へ進みなおそう! と意気込んだ瞬間、幼い子供特有の甲高い声と共にふわりと体が空中に浮いた。背中のリボンの辺りを摘み上げられたようで、あたしの体はだらりと二つ折りになる。そして、あたしの視界を大きな薄い灰色が埋めた。
あたしは初め、それが豚か何かの動物だと思った。けど、そうじゃない。相手はでっぷり太った幼い子供だった。今まで会った誰よりも幼い。しかし、今まで会った誰よりも肥えている。
「親の顔が見てみたいわ」
思ったことがついポロッと口から小さな音となり零れた。相手は無いとしか思えない首を小さく捻る。
「アリス、お母様に会いにきたの?」
「い、いいえ。そういうわけじゃないのよ。それより、貴方、誰? あたしを知ってるみたいだけど」
相手の勘違いを柔らかく否定して、でも詳しくは述べず話を別の方向へ逸らす。相手にわざわざさっきのは悪態です、何て告げられるわけないし。
そうこう考えている間、相手は灰色の大きな目であたしをじっと覗き込んでいる。黙って返答を待った。
「ぼくは、アリス。ぼくはコウシャクフジンノムスコ。アリス、きみのことはだれだか知ってるよ。ぼく、お母様に写真を見せてもらったことがあるんだ」
にこにこと人懐っこい無邪気な笑顔を浮かべて相手は言う。今度はあたしの方が相手をじっと眺める番だった。白い短く丁寧に切りそろえられた髪が笑い揺れる体に合わせ動く。着ている服はどっかヨーロッパの貴族あたりが着てそうなちょっと派手な模様が入った物だ。
「そう、なの。公爵夫人の息子さんなのね」
確認するように反復して、ふと、引っかかるものを感じる。公爵夫人、って何処かで聞いたような……。
「ね、ね、アリス。アリスはぼくを食べにきたって本当?」
あたしが何処でその名前を聞いたのか思い出そうとしてると、子供は弾んだ声で無邪気に問い掛けてきた。しかし、その内容に度肝を抜かれ唖然とする。何か、自分の耳がおかしいのかと思った。
「お母様がね、いつも言っていたんだ。アリスが来たらぼくは丸焼きにされてお皿の上に乗せられちゃうんだって」
相手は顰めっ面したあたしなど無視して心底嬉しそうに続ける。どうやらさっきのは聞き間違えなんかじゃなかったようだ。頭痛がしてふつふつと、そんな物騒なことを吹き込んでいる母親に怒りが沸いてきた。
「貴方のお母さん、おかしいわ! あたし、人間なんて食べないわよ!」
勢い余って当り散らすように目の前の子供めがけ叫ぶ。相手の笑顔は一瞬にして引きつったものに変わった。そして突如襲う浮遊感。幼子は驚いた拍子にあたしを掴んでいた手を離してしまったらしい。
小さく悲鳴を上げる。すぐ上に引き上げられる衝撃が加わった。相手が地面に着く前に掴みなおしたのだ。
「アリス、ごめんなさい。大丈夫?」
「え、えぇ。まぁね」
摘んだ手と逆の手の上にあたしを下ろして、おろおろとしながら小さい声で問い掛けてくる相手。あたしは一度だけ頷き、言葉を返した。
「それより! 変なこと言ってる貴方のお母さんはどこ?」
相手の手の上ですくっと立ち上がり、拳を握って身を乗り出す。子供は目を何回も瞬かせながら、その厚い唇を開いた。
「お屋敷に居るよ。お母様はアリス。アリスが来るのをずっと待っているんだもん」
もごもごと言いながら体を丸めるように縮こまらせる。あたしの剣幕に怯えているようだった。
「あたしを待つ? 貴方、だって、自分の息子を食べると思っている人間を待つなんて……。どう考えてもおかしいわ」
「おかしくないよ。お母様は早くアリスと一緒にぼくを食べたいんだもの」
理解が出来なくて、ついついキツイ口調になった。相手は身をあたしから引き離すようにしながら目をぐりぐりと回し、でも素直に答える。
「なにそれ? 信じられない!」
今まで出した中で一番大きな声を上げた。びくり、と相手の体全体が震える。しかし、そんなことに構ってなんて居られない。この世界全部が全部おかしくて狂ってるとは思ってたけど、自分の子供を食べたがるなんて一番どうかしてるわ!
「もういい、わかった! あたしを貴方のお母さんのところへ連れて行きなさい! 説教の一つも言ってやるわ」
もうあたしの剣幕に何も言えなくなった相手に対し、あたしは更に捲くし立てた。
だって、黙ってなんかいられない。例え相手が狂った食人鬼だって、自分の子供くらい大切にするべきよ。生まれてくることを望まれても生まれてこれない子供だって居るんだから。
そう、あたしの……。
「あたしの?」
途中で自分で考えが分からなくなって一個前の台詞を声を出して繰り返す。あたしの何がそうだったのか、思い出せない。
「どうしたの? アリス」
子供が顎に手を当て考え込んでいるあたしに、恐る恐る声をかける。はっとして顔を上げ、誤魔化すように苦笑いを浮かべて見せた。
「いいえ、なんでもないわ。それより! 早く連れてって頂戴! 貴方を食べないよう説得してあげるわ」
腰に手を当てビシッと言い切る。相手は眉尻を下げ、よく分からないと言いたげに首を横へ傾けた。
「さ、行きましょう」
しかし、あたしは説明を続けることはせず、先に進むことを促す。多分、幼いこの子は母親がいかに間違っているかをわからないに違いない。むしろ、母親が正しいとさえ信じているんだと思う。じゃなきゃ、自分の母親が自分を食べようとしてることなんて笑顔で話せるわけがないわ。
子供はあたしの言葉に素直に従って動き出した。のろのろと小さく弾むボールのような動き。相手はあたしになにか言う気もなくしてしまったようだ。黙々と草を掻き分け何処かへ向かう。
「……ねぇ、ところで貴方、名前はなんていうの?」
ただ黙っているのが息苦しくて、ふと思ったことを口にし訊いてみる。相手は目指す先を見据えていた視線をあたしへ向けた。
「なまえ? ……ぼくはコウシャクフジンノムスコだよ、アリス」
「そうじゃないわ。名前もわからないの? そうね……お母さんは貴方を何て呼ぶのよ?」
見当違いの答えを返してくる子供に、あたしは困って溜息を吐いた。そして、彼にも分かるように質問を代える。
「お母様はぼくをブタって言うよ」
思わず額を押さえた。確かに彼はぷっくりと肥えに肥えていて動物に例えるならブタを連想しやすい。けど、それを母親が言っていいことじゃない。
全くどうしようもない母親ね!
心の中で毒吐き、ぐっと拳を握る。言い知れない怒りが沸々と大きくなっていく。
前に同じような怒りを感じたことがある。けど、それが何のときだったかは全く思い出せない。それが妙に引っかかった。けど、思い出せないものを考えてもしょうがない。
そこでふと、相手の動きが止まっていることに気がついた。
「アリス、着いたよ」
あたしが不思議に思って仰ぎ見ると、彼は一言そう告げる。言われて辺りを見回した。
今居るのは大きな屋敷の扉の前。ゴテゴテとした葉っぱ等を模したような装飾を厳つく纏っている。屋敷はあたしが小さいことを差し引いてもかなり大きかった。
「すごいわね。貴方の家」
あたしは屋敷を呆け眺めながら呟くように言う。
「そうなの? ぼくはこの家しか見たことないから全然分からない。アリス、中へ入るよ」
相手は意味を解していないらしく流すような言い方をして、またゆったり歩み始めた。 そして、扉の横にある薄汚れた紐を引っ張る。その紐の先には鈴のようなものがあった。チリン、と小さな音を立て、それは揺れる。すると数分もしないうちにギギギ、という重い音がして目の前の扉が動いた。
あたしは緊張して手を強く握り、徐々に現れる屋敷の内部を凝視した。
「お帰りなさいませ。坊ちゃま」
扉が開ききった先、まず一番初めに目に飛び込んだのが、黒い執事服を纏った蛙。それが、あたしを持っている子供に頭を下げた。
「ねぇ、お母様はどこ?」
子供は頷くように微かに頭を動かしてから問うた言葉に蛙がぴょこっ! と飛び上がる。天井まで届くかと思えるぐらい勢いよく。
「坊ちゃま! なりませぬぞ! 奥様にはアリスが来るまでお会いにはなれないといつもいつも口を酸っぱくして忠告しておりますのに、またそうのような」
でも、天井にはぶつからず降ってきて、凄い剣幕で叫びだした。その声は甲高く煩わしく感じる。
「違うよ。ぼく、アリスを連れてきたんだ」
未だに喚き続けてる蛙に向けて子供があたしを差し出す。蛙は一瞬で口を閉じた。そして、顔を乗り出しあたしをまじまじと眺める。
流石にぬめった灰色の肌が間近にくると何だか嫌だ。
頬を引きつらせ、一歩下がる。
「あ、りす?」
そう問われてあたしは慎重に一度だけこっくりと頷く。蛙はまたぴょんっ! と跳ね上がった。
「アリスだっ! アリスがきたっ! 奥様はお喜びになるぞ!」
何回も何回も叫びながらぴょこぴょこ跳ねる。そして、ついに、ガツンッ! という嫌な音が玄関ホールへ響いた。蛙が何回目かの跳躍の後、勢い余って天井に頭をぶつけたのだ。パラパラと破片が落ちてくる。それから少し遅れてドスン、という鈍い音。蛙は床に伸びたままぴくりとも動かなくなった。あたしは子供と顔を見合わせる。
「どうしよう?」
「そんなこと訊かれても……」
子供が困ったように問いを口にしたので肩を竦めながら答えた。でも、子供はあたしと蛙を忙しなく見比べ続ける。一向にやめる気配は無い。
「とりあえず、揺すってみたらどうかしら?」
仕方がないので適当な助言をする。すると彼は嬉しそうににっこり笑った。そんな表情を浮かべられると小さな罪悪感を感じる。だって、口にしたそれは何の考えも確証もないんだもの。
子供はそんなあたしの内心に気づくことなく蛙の元に走り寄った。そして、あたしを下ろし両手でそれを揺する。しかし、彼は手加減と限度を知らないらしい。蛙が少しして小さく唸り始めても揺するのをやめなかった。むしろ更に激しく揺する。
「ちょ、ちょっと! もういいわよ」
急いであたしが歯止めをかけると子供はすぐ揺するのをやめた。蛙が逃げるように這いずってからよろよろと立ち上がる。
「うぅむ、気持ち悪い……」
蛙の小さな呟き。まぁ、確かにアレだけ揺さぶられれば気持ち悪くもなるわよね。しかし、天井に当たって落ちてきた割にはピンピンしている。
「ねぇ、お母様はどこ?」
子供が相手の様子など気にもしないで最初と同じ言葉を口にする。蛙は頭をふりふりこちらへと振り返った。
「坊ちゃま、今奥様はお客様とお話中にございます。残念ながら話が終わるまでは幾らアリスがいらっしゃろうともお会いになることは出来ません」
淡々と決まり文句のように言う蛙。その言葉に表情を曇らせ子供は俯いた。
「坊ちゃま。そう気を落とさずに。そうです! 奥様と面会なさる前に、料理長のところへ行ってはいかがですか?」
慰めるように視線を落とした蛙だったが、すぐに良いことを思いついたと言わんばかりの明るい声を上げ跳ね上がった。
子供も瞳を輝かせて顔を上げる。
「そうだね。料理長にも教えてあげないと。アリスがきたよ、って」
「そうですとも! アリスの、客人の急なお越しです。料理長も腕によりを掛けたいでしょう。それには時間が必要ですから喜ぶはずです!」
ぴょこんぴょこんとさっきのに全然懲りてないのか何度も跳ねながら言う蛙。子供はこくこくと跳ねるのに合わせてるみたく頷いている。そんな中あたしは腕を組んで二人? を見ていた。
しかし、料理長ねぇ? 何だかちょっと胡散臭い。
「では、坊ちゃま。早速料理長の下へ参りましょう。アリスも居られますし、ご案内させて頂きます」
蛙があたしを水掻きのついたぬるぬると光る手で持ち上げようとする。別に普通に蛙は平気なのだけど、今は小さい分、やっぱり流石に気持ち悪い。一歩後退ると、蛙より一歩早く子供があたしを掴みあげた。
「アリスはぼくが連れて行くの」
そう言って、あたしを掴んだまま両手を自分の胸の前に添える。何だか自分が人形になったかのような気分だ。
「坊ちゃまがそうおっしゃるのであれば構いません。では、ご案内いたしましょう」
蛙は子供に抗うことなくこっくりと頷いて、そそくさと背を向けた。どうやらかなり気持ちが逸っているようだ。ひょこひょこと小さく跳ねながら歩き出す。子供の速度に合わせたような遅さだ。その後ろを先程と変わらないマイペースな歩きで子供は付いていった。あたしは掴まれたまま身動きできず連れて行かれる。
「ねぇ、ちょっと訊きたいんだけど」
「何用でございますか? アリス」
そんな中、あたしは前を行く蛙に問い掛けた。蛙は少し振り返り答える。
「その公爵夫人に来ているお客って誰かしら?」
そう質問を続けると、蛙は目を細め眉を寄せた。何やらあまり訊いて欲しくなかったようだ。けれど、あたしは相手が答えるまで黙って待つことにする。だって、そのお客とやらがもしかしたらチェシャ猫達かもしれないから。
白兎は公爵夫人に用があると言っていた。その公爵夫人は多分間違いなくこの屋敷の奥様なのだろう。彼等の移動スピードを考えればもう着いていたってなんらおかしくないわ。だから、今来ている客がチェシャ猫達とイコールで結ばれる確率はかなり高いのだ。なるべくなら早く彼等と合流したい。
「それはお話できません。奥様が内密に、とおっしゃられておりました。それが例え我等がアリスでありましても、お教えすることは叶いません」
如何にも残念そうにそう告げて蛙はまた飛び跳ね歩き出す。しつこく問いただしたところで答えてはくれないだろう。確認したいのは山々だが、今は子供に掴まれていて自由に動けもしないし諦めるしかないか。
コツコツと子供の石の床を歩く音が響く。ちなみに、蛙は靴を履いていないのでペタペタと石に張り付いては剥がす、そんな特有の音がした。
廊下はとても埃っぽい。端には蜘蛛の巣が張り、電気は切れていて、ボロボロのカーテンはおざなりに窓辺でぶら下がっている。掃除なんてかけらもしてないんじゃないかと思えるほど汚かった。しかも、どこもかしこもモノトーンで暖かい色味が全く感じられない。そんな中を黙って進んでいく。正直、不気味だ。
蛙が蜘蛛の巣の掛かっている開きっ放しの戸の前で止まった。中は薄暗くよく見えない。
「料理長、坊ちゃまがお帰りになりましたよ!」
そう蛙が奥へ声を掛けると、暗闇でもっそり何かが動いた。そして戸をくぐる様にして現れる顔。その顔は皮膚が異常なくらい垂れ下がっていた。目なんてどこにあるかも分からない。鼻は辛うじて分かるもののそこから出ている髭は半分以上皮膚に覆い隠されていた。
あたしはこくりと喉を鳴らして唾を飲む。相手の顔がこちらに向いたからだ。
「それに坊ちゃまは、素晴らしいお客を連れてきて下さいました。アリスですよ、料理長!」
蛙が料理長の顔の高さぐらいまで飛び上がり、興奮した口調で付け加える。ぴくり、と眉の辺りだと思われる場所が微かに動いた。白く長いコック帽を片手で直しつつ全身を部屋から乗り出す。
部屋から出てきた料理長はとても大きかった。あたしが小さいからかもしれない。けど、あたしを持っている子供の三倍ぐらいはありそうだ。それに彼は白いコック服の上からも分かるほど筋肉が逞しい。リンゴ一個くらい握り潰せそうだ。
「アリス、だとぉ?」
低くしわがれた声が辺りの空気を震わせる。相手に顔を覗き込まれ、緊張し手が汗ばんできた。
「アリスだよ。これでお母様も喜んでくれるよね」
子供が無邪気にあたしを前へ突き出す。彼の鼻が手を伸ばせば着く位の距離になっていた。しかし、急にあたしの体が強く揺さぶられる。
「アリスだとぉぉおおおっ!」
料理長の激怒したような叫び声。目に映るものが急激に変化して眩暈がしそうになった。料理長があたしを子供から乱暴に取り上げたのだ。強く握られキシキシと体が音をたてる。
「な、何をするんですか、料理長! アリスは奥様の大事な客人ですぞ!」
「うるせぇっ!」
蛙が悲鳴に近い金切り声で料理長を非難する。しかし、料理長はそれよりも大きな声で蛙の言葉を遮った。子供は怯えて泣き出している。
怒鳴る大人二人。ひたすらに泣きじゃくる子供。
頭の中に一瞬何かが思い浮かんだ。
泣いてる子供。それは……あ、た、し?
けれど、そこまでで浮かんだものは抹消される。後にはもやもやと言い知れぬもの。
あたしが何故大泣きしていると言うのか。よく分からない。それがいつの何の記憶か全く検討が付かなかった。けれど、胸のもやもやは不安を掻き立てる。
思い出さなければいけない。
思い出してはいけない。
そんな矛盾したことが交互に頭の中を巡る。その事を考えるのをやめたかった。でも、やめられなかった。
そう追い詰められるような感覚の中、急に体が軽くなった。そして、ふっと思考が現実に戻される。
「分かっていないのはオマエだ! アリスが来たら坊はあのキチガイ女に食べられちまうんだぞ!」
あたしの体は大きな声で喚く料理長の手から離れていた。そう、勢い余って投げ出されていたのだ。そんなあたしには誰も気づいていない。
「公爵様の残した財産を食いつぶし、しまいにゃアリスを利用して子供まで食べようとする! そのうちあいつぁ、女王様に首を切られちまうさ! そんな奴にオレは仕える気はないんだ!」
「口を慎め! 奥様はこの家の主人であるぞ!」
蛙と料理長は口論に夢中。子供はその口論に負けないくらいの声で泣いていた。あたしは飛ばされていく方向を見た。容赦なく壁が迫ってきている。
本能的に体を縮めて目を瞑った。しかし、すぐに無意味なことに気づく。ぶつかるっ! そう高を括った瞬間、いきなりくいっ、と飛んでる方向と逆に引っ張られた。そして、その引っ張られる感覚もすぐに消える。
そっと目を開けた。やや離れたところに例の三人。あたしの視界は釣られているようにふらふら揺れる。いや、現に釣られているのだ。振り返ればそこに、よく知っている顔があった。白いフードはにんまり笑い、その中に見えるピクリとも動かない無表情な口。チェシャ猫だ。
「アリス、こんなところに居たんだね」
相手はあたしを指で摘みながら自分のフードに付いた目線に合わせ持ち上げる。その目をあたしは不機嫌に睨み付けた。
「そうよ、どっかの誰かさんが落としていくからね」
「……ごめん、アリス。兎を追うのに夢中になってたんだ」
怒ったキツイ口調で言い放つと、相手の白いフードの耳が少しばかり垂れる。目はくりくりと忙しなく動いていた。しかし、フードの口はひくひくと動くものの笑んだ形のまま変らない。何だか苦笑いをしているみたいだ。
「何事ですの! 騒々しいっ!」
あたしがチェシャ猫にもう一度声を掛けようとした瞬間、後方からとても大きな甲高い声が飛んできた。思わず振り返る。そこにはずんぐりとした女性が一人。派手な装飾の施されたドレスを着ている。けれど色が無いせいかとても不恰好だ。彼女はとても大きいのもそのように見えた要因かもしれない。
「奥様!」
蛙がピシッと垂直な棒になったように背筋を伸ばす。と、すると、この女性が公爵夫人か。確かにそれはとても納得がいった。だって、自分の息子とまるっきり同じ体型なんだから。服のしたから覗く腕は、はちきれんばかりに太く、首なんてほんと何処にあるのかわからない。しかも、彼女は料理長よりも一回り以上大きかった。
「お客様が入らしているんですのよ! 騒ぐなら外でなさい!」
声が廊下の空気を震わせる。鼓膜が痛くなってきた。何て大きな声なんだろう。
「お母様!」
その金切り声の後に子供の嬉々とした声。息子が母親に駆け寄っていた。泣いていた痕跡は欠片も見られない。公爵夫人はごくりと喉を鳴らした。彼女の口端に涎が垂れているのに気づく。
「おぉ、可愛い可愛いワタクシの子! 今日もとっても美味しそうね。いつになったら食べられるのかしら? ワタクシの可愛い子豚ちゃん」
歌うような弾む口調。しかし、甘い声色とは裏腹に彼女の目は血走っていた。本当に自分の息子を食べることしか考えていないらしい。寒気と吐き気、それがあたしの全身を襲う。公爵夫人の肥えすぎた顔面をぶん殴りたい、そうも思った。
「お母様、聞いてきいて! ぼく、アリスを――ふえっくしょんっ」
頬が高揚した子供は輝かんばかりの瞳で誇らしげに母親へ何かを告げようとした。しかし、それはくしゃみで中断される。料理長が公爵夫人めがけ、何かの瓶を投げたのだ。瓶から零れる灰色の砂が宙を舞う。その香りは鼻をくすぐり砂の正体を教えている。コショウだった。
「また貴方なのねっ! 誰のおかげで置いてもらってると思ってるの!」
公爵夫人が激怒して悲鳴に近い金切り声を上げる。そして、飛んできたコショウの瓶を鷲掴み、投げ返した。またコショウの瓶が中身を振りまきながら宙を踊る。チェシャ猫もあたしも耐えられずくしゃみを連発する。感染するように全員がくしゃみの渦に飲み込まれた。
「へっくちっ! こ、これじゃ、くしゅんっ! まともに会話も、ふぇっくしゅ! できないわ」
喋る度にコショウが鼻腔をくすぐるもんだからまともに言葉も繋がらない。チェシャ猫はフードに付いた小さい白い鼻を擦りながら連続でくしゃみをしている。あたしの言葉を聞いてる暇などないようだ。彼のその鼻から何か垂れているような気がしたけど、見なかった事にしよう。
仕方なく口と鼻を両手で覆って周りに意識を巡らす。蛙はぴょっこんぴょこん飛び跳ねながらくしゃみしていた。子供は泣き出し、泣き声の合間合間にくしゃみが入る。公爵夫人と料理長は互いに罵詈雑言を浴びせながらコショウのキャッチボールをしていた。いつの間にかコショウの瓶以外のモノも二人の間を行き来している。黒い大きなフライパン。灰色の鍋。白いお皿。ありとあらゆるものを料理長が台所から持ち出したらしい。調味料の粉が視界を霞ますほど舞っている。
「公爵夫人、何時になれば私との会話が再開できるのでしょうか?」
ふと、騒然とした雑音の入り混じる中、澄んだ声が何よりもはっきりと耳に届いた。全員がぴたりと動きを止める。宙を舞っていたモノの落ちる音が後れたように空間へ響いた。
「白兎。まだ終わってなかったんだ」
袖で鼻を拭き終えたチェシャ猫が声の主の名を呼ぶ。彼女はこちらを振り返ってにっこり笑った。
「えぇ、まだ返事を頂いていないのよ。それよりチェシャ猫。アリスが見つかって良かったわね。アリスがチェシャ猫から落ちてしまったと知った時はとても心配したのよ。本当に何処へ行ってしまったのかと思っていたわ、アリス。でも、無事でよかった」
白兎はチェシャ猫に、それからあたしに言葉を掛けた。「アリス」その名が出る度に公爵夫人がぴくり、と体を震わす。そして、徐々にぎこちなく此方を振り返るのが見えた。その目は大きく見開かれ、眼球には無数の灰色に近い線が刻まれている。
ぞくり、と背中に氷を入れたような感覚に襲われた。公爵夫人のその粘りつくような視線はあたしを捕らえて離さない。
そしてドンッ! という急な衝撃音! 気がつけばその瞳はあたしの目の前にあった。横目にチェシャ猫が壁からずり落ちている様が映る。その位置はあたしから少し離れていた。多分、公爵夫人に吹っ飛ばされたのだろう。彼はそのまま床に平伏し、ぴくりとも動かない。
「チェシャ猫っ!」
大きく相手の名を呼ぶ。出来ることなら駆け寄って彼の具合を確認したかった。けれどあたしは今、公爵夫人の右手で握られている。身動きが出来ない。だから責めて顔を向けて叫ぶしか出来ないのだ。
だがそれも束の間、公爵夫人は余った左手であたしの顔を自分へ無理やり向けさす。太い大きな親指と人差し指があたしの顎を捉えた。
「アリス、あぁ、アリス! 貴方がアリスなのね! 待ち望んでいたわ、アリス!」
興奮し鼻息も荒く捲くし立てる。その勢いであたしの髪はたなびいた。
「あぁ、アリス! ワタクシ、貴方に最高の料理を召し上がっていただくことを夢見ていたのよ」
「最高の……料理?」
うっとりと目を細め、太い指であたしの頬を撫でる公爵夫人。あたしは眉を寄せ不快さを前面に出しつつ彼女の言葉を反復した。
「もちろんですとも! さあ、料理長! アリスがお待ちかねよっ! すぐに料理に取り掛かりなさい!」
それに答えてすぐ、叫ぶように料理長へ命令を下す。料理長の垂れた皮膚がぷるぷると小刻みに震え、命令を拒否するようにだんまりを決め込んでいた。しかし、そんなことはお構いなしに料理長から視線を外してあたしを掴んだまま子供のもとへ駆け寄る夫人。
「ワタクシの可愛いカワイイ子豚ちゃん。ついにこの日が来たわよ。貴方が最高の料理の食材になるの。ワタクシとアリスの空腹を満たす糧になるのよ」
「お待ちになって、公爵夫人」
うっとりと夢見るように子供の顔を覗き込みながら喋り続ける公爵夫人。その言葉を遮ったのは、意外なことに白兎だった。あたしは今にも叫びだしそうだったし、料理長の拳にはすごく力が込められている。けれど、そんなあたし達二人より早く、白兎が口を挟んだのだ。
「公爵夫人? 差し出がましくも申し上げますが、その子供は食用の豚ではありませんわ」
「いいえっ! この子はワタクシの可愛い子豚よ!アリスの為に育てた可愛いカワイイ子!」
ゆっくりと温和に抜けた感覚さえ与えるような口調で言う白兎を、公爵夫人は凄い形相で睨んだ。声も相手を脅すような濁声に近い。
「駄目よ、公爵夫人。先程も申し上げたとおり、その子を豚扱いするのはやめなさい。出ないと世界の規律を乱すことになるわ」
「お黙りっ!!」
公爵夫人の態度に柔和な笑みを湛えつつ、更に言葉を続ける白兎。しかし、それを遮り公爵夫人の怒号が響いた。あたしは思わず公爵夫人の手の中で跳ね上がる。
「この子は子豚! 可愛いカワイイ、ワタクシが食す為に育てた豚なのよ!」
大きく今までのどの声より大きく公爵夫人は宣言する。その勢いで風が巻き起こり皆の髪が、服がはためいた。そんな中、どうしたことか子供がぶるぶると震えだし母親の服にしがみ付く。一斉に全員の視線が彼に集まった。
「あ、お母様……。お母様、ぼく……」
怯えた表情で縋るような掠れた声を上げながら、ずるずると服からずれ落ち、床にしゃがみ込む。そして、子供の髪の間からひょこり、と何かが生えた。更にお尻に細い何かも出てくる。皆、呆然とその様を見つめるのみ。深い沈黙の中、彼の姿は徐々に変わっていった。
髪は無くなり、四つん這いになった手足は短く揃えられ動物の足と化す。ぷっくりとした体は更に丸くなり、小さかった鼻は前へ突き出て大きく広がった。
その姿は正しく――豚。子供はもう鼻を引くつかせただブーブーと鳴くのみ。
「だから申し上げましたのに。残念ですわ、公爵夫人」
白兎が溜息混じりに口を開き、頭を振った。あたしはまだ、目の前の現状を頭で上手く理解できない。
だって、子供が本物の豚になったのよ? 信じられる?
ただ、そう心の中で自分に問い掛けた時、ここなら有り得なくない。と、思う自分もいる。矛盾した感覚が同居してるのが気持ち悪かった。
「ご主人! こんなところに! この屋敷広くて探したヨ!」
そこへ今の重い空気と全く逆な明るい声が飛んできた。全員が振り返る。知っているトカゲ顔。彼は、全員の視線を感じると恥ずかしそうに白い帽子の端をいじる。
「あら、ビル。貴方、とっても丁度いいタイミングだわ」
白兎がビルの隣へ並び、嬉しそうに笑いながら彼の肩を軽く叩く。白いつなぎを着たトカゲ――ビルは白兎の言葉にほっ、と安心し頬を緩ませた。
「さあ、公爵夫人。貴方をハートの女王様の下へお連れする準備が整いましたわ。フシ・ギノ国、第13条、アリスから頂いた形を故意に変えることを禁ず。この条約に違反した罪で、強制的に12の城まで連行します!」
「何を言っているの! 白兎、この子は元から豚だったのよ!」
白兎がビルから公爵夫人へ向き直る。そして淡々と言い放った。しかし、公爵夫人は未だ服を着たままのブーブー泣き続ける小さな豚を強く抱きしめる。まるで誰にも渡さないと言わんばかりに。
「いいえ、その子は貴方の子供よ。人間型から食用の豚は生まれないわ。けれど、貴方自身も食用の豚だと言うのなら話は別」
ゆっくりと諭すような口調で一句一句告げる白兎。すると、公爵夫人の鼻が急に豚のそれへと変化した。驚いて公爵夫人はあたしを放り出し、鼻を押さえる。ほっぽり出されたあたしはと言うと、まだ倒れていたチェシャ猫の上に落ちた。少し打ったけれどさほど痛くない。
「わ、ワタクシは! ワタクシは豚ではないわ! ワタクシは公爵夫人よ!」
体を反らせ、顔を抑えながら激しく頭を左右に振る。今まで以上に取り乱している公爵夫人。白兎はそんな彼女に怯えも無く近づいて、片手を差し出した。その手に気がつき何故か公爵夫人はすぐに暴れるのをやめる。彼女の鼻は既に元へ戻っていた。
「大丈夫ですわ、公爵夫人。ハートの女王様は寛大ですもの。裁判くらいは開いてくれるわ。さあ、行きましょう」
言葉に促され、公爵夫人は白兎の手を取る。彼女の手は震えていた。表情も怯えたように引きつっている。
今の合間の何処に、公爵夫人を怯えさせるようなものがあったというのだろうか? さっぱり分からない。
「そう、良い子ね。ビル、扉を開けて頂戴。12の城へ行きましょう」
「合点ダ、ご主人!」
公爵夫人の大きな手を引きながら、白兎はビルに向けて告げた。彼は手をピッと額にあて元気よく返事をする。それから何を考えたか床に這いつくばった。すると、ビルの体が徐々に平たくなっていく。全身白いトカゲは段々と別のモノへ変化を遂げた。それは、人一人がやっと通れるくらいの大きさの真っ白い扉。
驚いてる間に、それは自分で身を起こす。
そんな扉と公爵夫人を見比べながら白兎は考えるように手を頬へ添えた。
「ねぇ、ビル、公爵夫人が通るのよ。もう少し大きくしてくれないかしら?」
白兎が扉に向かい頼むように呼びかける。すると扉はぐにぐにと柔らかいゴムのような動きをして、上は天井まで、横は両壁につくぐいまで広がった。確かにこの大きさなら公爵夫人でも余裕ね。
「ありがとう、ビル。では、いざ12の城へ」
公爵夫人の手を離し、一人一歩扉の前へと出る白兎。彼女は懐から懐中時計を取り出した。それを扉の中央にある窪みに当てはめる。そして手を離し、一歩下がって元の場所へ戻った。
扉が向こう側へ重い音をたてて開いていく。最初に目に映ったのは大きな薔薇だった。真っ黒な花を携えて、それはアーチ状に奥へ奥へと続いている。とても大きく、ビルの白い扉よりも上をいっていた。
「公爵夫人、どうぞお通りになって」
白兎はまず、公爵夫人を扉の向こう側に手を引いて通す。公爵夫人は怯えながらも素直に従った。公爵夫人の体が全て向こう側に渡ると、白兎は急いで戻ってきてあたしの目の前まで駆けてくる。
「さあ、アリスも行きましょう」
そして白兎はあたしを掬い上げるように拾い扉の方へ踵を返した。
「ちょっと待って」
あたしは慌ててそれを止める。
「ねぇ、白兎。チェシャ猫は連れて行かないの?」
「えぇ、そうね。下手に動かさないほうがいいと思うわ。でも、大丈夫よ。気がつけば追いかけてくるもの」
白兎は心配要らない、とにっこり笑みを浮かべて見せてくれた。それにあたしは少し考えて小さく頷く。無理やり引きずっていくのは大変だし、チェシャ猫のあの足のスピードならすぐ追いついてくるだろう。
「じゃあ、行きましょう。アリス。貴方達、チェシャ猫とその子豚ちゃんをよろしくお願いしたいの。構わないかしら?」
最後に料理長と蛙に向かい確認するような口調で白兎は問う。
「わかった」
「もちろんでございます! 白兎様もどうぞ奥様をよろしく頼みますよ!」
二人がそれぞれ同時に答える。料理長は誰にも渡さないとでも言うように子豚を抱えていた。蛙はピッと敬礼し家の主人を心配する言葉を述べる。
「ね、ついでにあたしが先に行ったことチェシャ猫が気がついたら伝えて欲しいんだけど!」
そんな二人にあたしも声を掛けた。二人は同時に頷く。これで安心していけるわね。
ほっと息を吐いてから、白兎に目で合図を送る。彼女はにっこり笑顔を浮かべた。それから扉へあたしを連れ近づく。
この扉をくぐったらもうそこは12の城なのだ。6の森からずっと目指してきたけれど、心の中で何かがざわめいている。それが期待なのか不安なのかはわからない。
ただ、行かなくちゃいけない。
何故かその気持ちが強まっていた。