一の夢 白のアリス
迷い込んだのは一人の少女。
彼女は……。
迷い込んだのは一人の少女。
彼女は……。
閉じられた瞼の上から眩しいくらいの光を感じる。ゆっくりと目を開けても光の強さに目が眩んだ。
ここはどこ?
目頭を押さえ、差し込む光を抑えながら回復しつつある視力で辺りを……
!?
なに、これ?
思わず眩暈がした。生い茂った木々。そこまではいい。
あまりに現実離れしているのは――色。その一点のみ。
漫画の世界に迷い込んだような白と黒のモノトーン。
夢……そうよ、夢だわ。
色を持たない夢を見ることもあるんだと聞いたことがある。今まで経験したことはなかったけれど、これがきっとそうなんだわ。
「本当にそう思う?」
「うわきゃぁぁあああ!?」
声と同時に突如ひょっこりと白い顔が現れた!
いきなり目の前に!
思わず悲鳴を上げるほど驚いてしまったわけだけど……。
よく見ればそこまで驚く相手じゃなかった。
白いフード、というより白い雨がっぱを羽織った小さな子供。ただその雨がっぱには猫の耳と尻尾、まして全体にふさふさと毛が生えている。そして頭の部分には大きな瞳が並んでいて少々不気味だ。
子供の顔はフードに半分以上覆い隠されてまったく見えない。
「本当にそう思う?」
子供はもごもごと小さく口を動かしながらさっきの言葉を繰り返した。けれど声ははっきりと聞こえる。ただ、問われている意味がわからなかった。
「本当にそう思う?」
「何が?」
三度目の同じ問いに眉を顰めて問い返した。すると子供は黙ったまま二、三度尻尾をくゆらせた。フードが少し歪んだ気がしたけど気のせいだろうか?
「夢だって、本当にそう思う?」
「え?」
思わず反射的に声が漏れる。けど、夢なんだから不思議はないわよね。何を考えてたかわかることぐらい。
「駄目だよ、アリス。君は信じなくちゃならない。君が信じなくちゃこの世界は泡沫に帰す……」
「きゃっ!」
その子の言葉が終わらないうちに地面が大きく揺れた。そして視界に映っていた全てが消える。不愉快な浮遊感だけが残って……。
悲鳴を上げてるはずなのに風を切る音だけが頭に響く。
「アリス。このまま落ちていくの?」
さっきの子の声が聞こえる。風の音さえ切り裂くような澄んだ声が。
近くにいる?
ううん、どちらかというと直接頭の中に声をかけられたような不思議な感覚。
「アリス。このままずっと落ちていくの?」
「――――――っ!」
あたしは叫んだ。
でも、自分でさえ何ていったのか聞こえない。でも、落ち続けるのは嫌だった。浮遊感と一緒に恐怖が背中を駆け上がってきている。
「それならアリス。信じるんだ。地面はあるんだって。存在してるんだって。信じて、アリス」
もう! 信じるってなんなのよ!?
半ばやけくそ気味に心の中で悪態を付くものの、それじゃあ、何も変わらない。結構落ちてるはずなのに真っ暗で底なんて見えないんだもの。
いいわよ、どうとなったって!
あたしは地面の上にいる。落ちてるなんてなんかの間違い!
目を閉じて強く念じた。それ以外考えないようにした。
すると足が硬いものに触れ、そして浮遊感も止まる。髪がぱさりと頬に触れた。
目を開けると元の場所に戻っていた。
あの白と黒だけが支配する森の中に。
そして、一際白いあの子供はあたしの正面に立っていた。
「ようこそ、アリス。世界は君が来るのを待ってたんだ」
「あのねぇ……さっきからアリス、アリスってあたしは物語の登場人物じゃないんだから。人違いよ」
手を差し伸べてくる相手に思わずため息交じりに言い返す。あたしはアリスなんて名前じゃないもの。
「人違いじゃないよ。君はアリスだ。白のアリス。君を待ってた」
「違うったら! だいたいあたしの名前は……あれ?」
あたしは……誰だっけ?
名前、自分の名前がわからないってどういうこと?
色んな出来事は覚えてる。でも、出てくる名前の部分は空白。
思い出せない。あたしは、あたしなのに……。
「アリス。無駄だよ。ここで君はアリスなんだ。アリス以外の誰でもない。誰にもなれない。誰にも戻れない」
頭を抱えてるあたしを見ながら淡々と表情も変えず猫がっぱの子は言う。それが妙に怖かった。
「あたしは、あたしよ。アリスじゃないわ」
声は震えていた。全力で否定したかった。名前がわからないだけで記憶の中の自分が他人のように思えた。
「何も違うことなんてないよ。白兎を追ってこの世界へ来た時から君はアリス。君は白兎に導かれやってきた。この世界を元に戻すために。だから、アリス。他の誰でもない、君がアリスなんだよ。白のアリス」
白兎? その一言にふっと、引っかかるものを感じた。最近見たような? ううん、最近なんてもんじゃない。
そう、ついさっきよ。
学校帰りで確かマンホールに落ちそうになってたうさぎを助けようとして……。
「穴に落ちた」
あたしの思考と子供の声が被った。
「その穴はこの世界の入り口。アリス、その白兎を追って。まずは黒のアリスを見つけて」
「ちょ、ちょっと待ってよ! アンタ、誰なの? 言ってること全然意味判んないわ。黒のアリスって誰?」
かなり頭は混乱してた。冷静に考えてれば夢ってことで全部片付けられたはずなのに。あたしは途中からコレが夢なんだってことを忘れていた。だから問いかけてしまった。
相手はやはり無表情で。
「僕はチェシャ猫。白のアリス、君のもう一つの道しるべ。でも、猫は気まぐれ。ずっとそばにいるとは限らない」
ザァァアアア
強い風の音がした。あたしが見てるその場所でチェシャ猫と名乗った子供は水に映った影のように揺れて、そうして何処からともなく消えていく。
風がおさまったときには、ただ森が静かに佇んでいた。