十の夢 地底を泳ぐ者
新たな事実を知り、順調に12の城へ向かう白のアリス。
しかし、水の中に引き込まれてしまった黒のアリスはというと……。
冷たい水滴が頬に当たる。頭が痛い。何も分からない。ただ、ぼんやりしながらうっすらと目を開けた。
ワタシはどうしてたのかな?
意識が混濁から抜け出してきて、自分自身に問い掛ける。薄暗い石造りの天井を眺めながら考えた。
そうだ、ワタシは13の塔に行こうとして……川に……。
そこまで思い出して、がばっと上体を起こす。
「ここ……どこ?」
不安げな自分の声が小さく開いた口から漏れた。
ぴちょん、ぴちょん、と水の滴る音。天井の石と石の間を伝い、同じく石でできた地面へ落ちていく。今まで見たことのない場所だった。硬い灰色の石の壁で四角い部屋のようになっている。小説とかで出てくる牢屋を連想させられた。
背筋がぞくりとして、寒い。ワタシの服が濡れている事に気がついた。
「チェシャ猫さん? 月さん?」
ワタシは急に怖くなって、さっきまで一緒だった二人の名前を呼ぶ。けど、ワタシの声はただ響くだけで、どこからも応答は返ってこなかった。
心細さが恐怖を増幅させる。
「どこ……行っちゃったの?」
ぎゅっと濡れた服のスカートを握り締め、震える声を絞り出す。泣き出せば助けがくるかな、と漠然と思った。その時、ふと、水の滴る以外の音を耳が捉えた。何か濡れた布みたいなものを引きずる音。
ワタシは不安で身を硬くする。その音の正体が分からないから。その音を出している相手が、よく知った人物であることを願った。
音が近づいてくる。
四角く区切られた壁の向こう側まできたのが分かった。影が見える。そして、白い……足。人間の、だけれど子供のもののように小さい。
「誰?」
その足のサイズに見覚えがなくて、ずりながら後退し、掠れた声でようやくそれだけ問えた。ぴくり、とその足が震える。
「アリス……目が覚めた」
そのまま相手は動かないで喋った。聞いたことのない声だ。何か口の中に入ってるのかもごもごとはっきりしない感がある。
「貴方、誰なの?」
それ以上何も言わないし、動かない相手に、ワタシはもう一度同じ質問を投げかける。すっ、と足が引っ込んだ。そしてまた、あの引きずるような音。今度は離れていく。程なくして、また水の滴る音しか聞こえなくなった。
何が何だか分からなかったけど、どっと体の力が抜ける。
今のは誰だったのかしら?
ただ、ワタシが目覚めたことを確認してから何処かへ行ってしまった。
それは、何故?
自問自答する。でも、何かを呼びに行ったか、取りに行ったか……ワタシの頭じゃそれぐらいしか想像できなかった。
ここで待ってれば戻ってきてその何かが分かる。けど、怖かった。話に出てくるこういう場面じゃ大抵良い事はない。人を食べる怪物が出てきたり、変な拷問器具で痛い目に合わされたりするのが大半だ。
じんわりと手に冷たい汗が滲む。ワタシはよろつく足で立ち上がった。怖くてこんなところには居られない。
チェシャ猫さんや月さんを見つけなくっちゃ。
そう、心の中で呟いて壁伝いに歩き出す。服がすごく重かった。濡れたままだからだ。水を吸っていつもの倍ぐらいの重さになってる。
神経を尖らせて耳を澄ませながら歩いた。いつ、あの誰かが戻ってくるかもわからない。
四角い部屋みたいなところ抜け出してやたらに入り組んだ通路を進む。怖くて泣き出したいのを堪えていた。泣き出してしまったらあの誰かに居場所が分かっちゃうから。
できることならお姉ちゃんに迎えに来て欲しかった。でも、それは無理。お姉ちゃんはきっと、今ワタシがこんなところに居るなんて知らない。
お姉ちゃんから絶対に離れちゃいけなかったんだ。
そう強く思う。そして、その言葉が何故か何度も頭の中で繰り返された。
ワタシは足を止める。不思議な気持ちになっていた。お姉ちゃんと離れてしまった今、お姉ちゃんがこのまま何処か遠くへ行ってしまいそうな、そんな感じ。
そう思ったら心臓の鼓動がトクトクと早くなった。そして、ぼんやり何かを思い出してくる。
引き止めることが出来ないワタシ。
ずっと一緒に居たのに。
ずっと離さなかったのに。
離れていった。
お姉ちゃんが手の届かないところへ。
それは戻らない。
取り戻せない。
取り戻したい。
「アリスっ!」
急に聞き覚えのあるワタシを呼ぶ声が耳に届いた。はっとなって顔を上げる。ワタシは知らぬうちにへたり込んでいた。胸元の服を強く掴んでいた手の力が緩む。心臓の音も徐々に落ち着いていった。
「アリス、捜したんだよ! やっとみつけた!」
「月……さん」
駆け寄ってくる相手の姿を見て、安堵の溜息とともに彼の名を口にした。彼はワタシの目の前で立ち止まり、ワタシの顔を覗き込んでくる。ワタシは力なくだけれども笑ってみせた。
「疲れているみたいだね。大丈夫?」
そう言って月さんはワタシの頬についた短い髪を横へ退ける。ワタシは口を開かず小さく頷いた。さっき思い出しかけていた何かは、もう奥へ引っ込んでしまっている。とても気になった。すごく突っかかるものを感じたから。でも、思い出してはいけないと、ワタシの何かが警告を鳴らす。
その時、あの布を引きずるような音が耳に届いた。体が強張る。ワタシは座り込んだまま月さんの服を強く握った。
「アリス?」
月さんは不思議そうに首を傾ける。ワタシは近づいてくる音の方を黙って凝視していた。月さんがワタシの視線を辿り遠くを見やる。彼の長い灰色の兎の耳がぴくぴくと動いた。
「あぁ、アリス。あれは……」
――っ!
途中から月さんの言葉が聞こえなくなった。代わりに自分の息を呑む音が頭に響く。
布を引きずるような音とともに通路から姿を現した異様なイキモノに思考回路は真っ白になった。
それは魚。まさしくそのもの。ずんぐりと人並みに大きくて、胸ヒレの部分から腕が、腹ヒレと尻ヒレの中間辺りの両脇に足が生えていた。その足は小さく子供のもののよう。あの四角いところで見かけたのはこれだと確信できた。体の色は灰色で鱗が光っている。
そして、ソレは人間の服を着ていた。月さんが着ているものと同じような黒い服。でも、ズボンはなくて上着だけ。しかも、サイズが合っていないのかズリズリと引きずっていて、その擦れた部分はほつれ、ボロボロになっていた。
月さんが魚に向かい何か言っている。でも、何を言っているのか全く分からない。パニックになっているのか外の音が一切聞こえなくなっていた。
魚が止まることなく近づいてくる。多分、ワタシは叫んだんだと思う。怖かったから。
近づかないでって。
月さんがワタシの肩を掴む。口が動いてるのが見えた。でも、何を言ってるのか分からなくて、夢中で彼の手を払い退ける。月さんは驚いた様子でまじまじとワタシを眺めた。
その様子が、胸の奥の何かを呼び覚ます。
ワタシを見ないで!
ワタシじゃないの、お姉ちゃんを見て!
ワタシはいいの!
お姉ちゃんが、お姉ちゃんがっ
「アリス、落ち着け。大丈夫だ」
ふと、頭の中に届く聞き慣れた声。安堵感で全身の力が抜ける。恐怖も一緒に何処かへ行ってしまった。気がつけば両肩に黒い手袋。後ろからワタシを支えるようにして彼が居た。
「チェシャ猫! アリスは、どうしちゃったんだ? まるでオレの言ってることを理解してくれないんだよ!」
月さんが、ワタシの後の彼に困った様子で問い掛ける。その声が水のようにすっと体に滲みこんだ。そこでやっと音まで戻っていることに気づく。徐々に意識が落ち着いて、冷静に思考回路を巡らせることができるようになってきた。
「チェシャ猫さん、月さん……。良かった。無事だったのね」
チェシャ猫さんが月さんに答えを返すより早く、ワタシは小さな呟きを漏らした。二人の視線がワタシに集まる。
「アリス……。落ち着いたみたいだな。来たことのない場所に一人で混乱したんだろう」
彼のフードの方の口端がニヤニヤと大幅に釣りあがる。喜んでいるようだ。彼は後半を月さんに向かって告げた。月さんも一息吐き出し胸を撫で下ろす。
「みたいだね。アリス、心配要らないよ。ここは危険なとこじゃない。ちょっと陰気で暗いけど、ね」
「そうなの? ワタシ、無理やり水の中に引き込まれたから怖くて……。ねぇ、ワタシを川から引っ張ったのって何なの? それはどうしたの?」
話しているうちに段々あの時の恐怖が甦って早口になる。それに対し、チェシャ猫さんが「大丈夫だ」と囁いて、優しくワタシの頭をポンポンと叩いた。月さんがとある方を指差す。
「ちょっと、せっかちな彼等がね。アリスを早くお迎えしたくてオレが説明する前に君を無理やり招待したんだ」
月さんの指の先には例の魚。魚人、と表現する方が正しいかもしれない。それはワタシから隠れるように壁に半身を埋めていた。伺うように大きく丸い瞳はずっとこちらを向いている。
「でも、大丈夫! オレが言い聞かせておいたからさ! 怖がらなくたって大丈夫だよ」
胸を逸らしながら月さんは、とん、と胸を叩く。その姿が妙に頼もしく、そしてちょっと可愛く思えた。ワタシは頷き、ゆっくりと立ち上がる。いつまでも、チェシャ猫さんに寄りかかっているわけにもいかないから。
「ありがとう、月さん。でも、何であの人達はワタシを此処へ招待したがったの?」
「それは……」
「アリス、ここ通って、12の城、行く」
魚人さんを眺めながら問うと、月さんはもったいぶるようにそこで言葉を止めた。しかし、魚人さんがゴボゴボと月さんの言葉の続きと思われる内容を口にする。
「ちょっと! オレが言おうと思ったのにっ!」
「アリス、不安、除く。早く、私達の、長、会う」
月さんが憤慨して、ひょんっと一跳ね魚人さんの前に立ち唇をひん曲げる。しかし、魚人さんは抑揚のない片言言葉でそれに答えた。それはどうにもかみ合っていないように聞こえる。
「ちぇ、これだから誰かしらに仕えてる生き物は融通が効かない上に、話が通じなくて困るよ」
月さんは呆れた様子で溜息とともに肩を竦めた。チェシャ猫さんがワタシの横に立ち、魚人さんの方を見据える。
「いや、奴の言うことは尤もだ。アリスの不安を取り除いて、早く執事達の長に会わせる必要がある」
チェシャ猫さんのその言葉に月さんは口を尖らせながら振り返った。それでも、特に文句を言うでもなく、頷き同意の意を示す。そんな二人を魚人さんは交互に一瞥すると急にワタシに向かって無造作にドスドスと近寄ってきた。思わず身を引いてしまう。
「アリス、行く。早く」
そういって胸の辺りにぴったり押し付けていたワタシの手首をサッ、と掴んだ。
ぬるり、とした感触。全身が一瞬にして総毛立つ。釣り上げたばかりの魚を無用心に鷲掴みしたような、そんな感覚。いや、掴んでる方がまだマシ。だって、自分の意思で掴んでるならすぐにでも手を離せるもの。その感触からすぐ逃げ出せるんだから。けど、今はその感触に手首を掴まれている。逃げ出したいのに逃げさせない。
ワタシは無意識のうちに腕を大きく振っていた。しかし、思った以上に相手は力が強い。全然抜け出せる気配はない。
「アリス、暴れる、いけない」
片言の言葉が耳に届く。どこか嗜めるような雰囲気がかもし出されていた。しかし、ワタシはそれどころじゃない。
ただ、気持ち悪い。という思いだけが先走っていた。
「放してやってくれないか。アリスは俺が連れて行く」
チェシャ猫さんの声。それと同時に手首から悪寒が剥がれた。チェシャ猫さんが魚人さんの白い小さな手首を持っている。ワタシはほっとして小さく息を吐き出した。
「なら、いい。アリス、ついて来る」
すっと、チェシャ猫さんの手から自分の手を引いて魚人さんは踵を返した。月さんがワタシの隣までやってくる。
「アリス、どうしちゃったのさ? たかだか腕を引っ張られたぐらいで、すごい怯えた表情しちゃってさ」
「月さん……。ごめんなさい。ワタシ、あまり魚が好きじゃないの」
「あんまり?」
不思議そうにワタシの顔を覗き込んで問う月さん。ワタシは歯切れの悪い口調で答えた。チェシャ猫さんが隣で小さく呟く。しかし、彼の言うとおり「あんまり」というレベルではなかった。芋虫よりは平気だけどあんまり見たくなし、ましてや触れるのなんか絶対に嫌。あの人間の子供みたいな白い手が何で魚のヌメヌメした感触と同じだったのか不思議だけど、考えると感触を思い出して気持ち悪いので深く考えるのはやめた。
けど、何故、チェシャ猫さんはワタシが魚を嫌いなこと、知ってるんだろう?
訊いて見たくなって彼を見上げた。それと同時に腕を引かれる。
「行こう、アリス。見えなくなる」
その声に質問を飲み込んで、チェシャ猫さんの視線の先を見た。魚人さんが既に角を曲がろうとしている。
「本当だ! 行くとなったら早いんだからさ。見失ったら、迷ってしまうよ。アリス! 此処はすごく入り組んでるんだ」
慌てて月さんはそう捲くし立てると飛ぶように駆け出した。ワタシも釣られるように足を一歩出す。けど、すぐにチェシャ猫さんがワタシを片手で持ち上げた。そのまま背中に乗せて駆け出す。
「ちょ、チェシャ猫さんっ!」
「アリスの足では追いつけない」
ワタシが叫ぶように相手の名を呼ぶと、彼は淡々とそう返してきた。でも、魚人さんはすぐ其処に迫っている。月さん既に追いついて、隣を歩いていた。どうみたって魚人さんの動作はワタシと同じくらいかそれ以下にしか見えない。
急に魚人さんが跳ね上がった。通路の脇に横たわる黒い水の中へ飛び込むための動作だったみたい。
ポチャン、と小さな音。水は通路に沿うようにどこまでも入り組んで広がっている。まるで用水路のようだと思った。
ふっ、と水面に魚の頭のヒレだけが露出する。それがすごいスピードで動き始めた。月さんもチェシャ猫さんも迷わずそれを追いかける。
確かにこのスピードじゃいくら頑張って走っても追いつけないわ。
それから、しばらく入り組んだ通路を右へ左へ魚人さんを追いかけ進んだ。
その間に、チェシャ猫さんは他の誰にも聞こえないぐらいの声で、呟くようにワタシへ告げた。
「アリス。ここは、アリス。あんたの記憶の根底にとても近い場所だ。ちょっとした刺激が記憶を震えさす。だけど、アリス。まだ思い出すには早い。長の話をちゃんと聞いてやってくれ」
それに「どういうこと?」と問い返しても彼はそれ以上何も話してくれなかった。
辿り着いたのは四角い部屋のような開けた場所。部屋の中央あたりに四角く水が流れ込んでいる窪みがある。そこで、水の通路は終わっていた。
魚人さんが濡れた体を黒い水の中から引き上げる。ぴちゃぴちゃと水が垂れ、肌はヌラリと輝いていた。魚人さんはそのまま振り返りもせずに歩き出す。その先には上に登るための階段。
チェシャ猫さんはワタシを下ろす気配もなく、そのまま魚人さんの後に続く。そしてワタシ達の後ろへは月さんが回った。
階段は暗く、どこまでも続くような気がする。でも、そんなにしない内にやや灰色の柔らかい明かりが見えてきた。そんなにと言ってもワタシが歩いて登っていたら疾うにばてていたと思う程の距離。
全員黙ってただひたすらに登る。光は太陽のように階段の一番上から降り注いでいた。
明かりが放たれている場所の正面に立つ。光が強すぎて近づくまで分からなかったけれど大きな扉があり、それが左右に開いていた。
その先は光に満ちた四角い部屋。その部屋の中は水路に囲まれ壁に掛けられた無数の何かが煌々と輝いている。
魚人さんが急に両手両足を揃え、背筋を伸ばした。
「長! アリス、きた!」
そう高らかと宣言するように叫ぶ。それから何故かこくりと頷くような動作をして、水路の中へ飛び込んでしまった。
チェシャ猫さんがワタシを背中から下ろす。月さんは前へ進み出た。光の中、目を凝らすと、奥の方に誰かが居る。大きな椅子に座っているように見えた。
「さあ、執事長。アリスを連れてきたよ。これで、12の城まで案内をしてもらえるかな?」
月さんが両手を広げ大げさな口調で言う。影が動いた。立ち上がったみたい。そしてこちらへ近づいてくる。徐々に見えてくる姿に小さく息を呑んだ。
相手は黒の燕尾服を着ている。月さんや帽さんとはほんの少しデザインが違うけれどほぼ同じもの。
影の相手もまた魚だった。でも、さっきの魚人さんとは明らかに違う。すらりとした手足、体。燕尾服も見事に着こなし、白い手袋までつけている。人間により近い姿。しかし、顔の皮膚はのっぺりと魚の鱗で出来ていて、耳や、頭のてっぺんにヒレが生えている。
相手は月さんを通り越してワタシの目の前までやってきた。怖くなってチェシャ猫さんの服を強く掴む。
相手はゆっくりと礼儀正しく頭を下げた。ワタシは固まったままそれを凝視し動かない。誰かが何かしら喋ってくれるのを待った。
「よくきたな、アリス」
低い男性の声がこだまする。それは目の前の執事長と呼ばれた魚人さんの声だった。初めの魚人さんの喋り方とは違いゴボゴボとくぐもった様な響きはない。
「だかしかし、アリス。お前はまだ此処に来るには早すぎたようだ」
彼はそのまま言葉を続けた。しかし、何故、彼がそう言ったのかワタシには分からない。
此処が何なのかワタシは殆ど知らないわけで。だから、何故、早すぎるのかも想像すらできない。
反応に困って黙っていると彼はワタシからチェシャ猫さんへ顔を向けた。
「チェシャ猫殿。何も話してはいないのか?」
「少し。だけれど、俺はもとより、多くを語れない」
チェシャ猫さんが淡々と答えると執事長さんは月さんの方を振り返る。月さんは暇そうに両手を頭の後ろで組んで口を曲げ、こちらを眺めていた。執事長さんが問う前に月さんは口を開く。
「オレは説明ってあんまり得意じゃないんだ。それに、君達ほど詳しいわけじゃない」
後ろで組んでいた手を解き、わざとらしいぐらいに肩を竦めて見せる。そんな月さんの言動に気分を悪くした様子もなく、執事長さんはまたワタシに向き直った。それから一歩ワタシに近づく。
「なれば仕方ない。アリス、私が説明しよう」
ワタシは少々後退りながら激しく首を縦に振った。あんまり近づいてきて欲しくないからだ。
「いいか? アリス。此処は世界の中心、スペードの13の塔の真下なのだ」
ワタシの気持ちを察してか否か、彼は、一歩下がり腕を組んで気難しそうな声色で話を始めた。その言葉にワタシは最初の目的に地着いていたことを知る。
「此処は水の溜まり場で、全ての森、城を囲う川はここから繋がっている。川の出発点であり終点であり交わる場所なのだ。そして、此処から……と、その話の前に、私達、執事の種族の話をしなければなるまいな」
「執事、の種族?」
ワタシはあまりの違和感に思わず小さく呟く。執事長さんが口を閉じワタシをじっと鋭い瞳で凝視してきた。慌てて左右に頭を振る。話の腰を折ったことで怒っていないか、すごく不安になった。
でも、執事って確か、役職名のはずよね? 種族ってどういうことかしら?
「話を続けるぞ? 我々はこの世界の主に仕える者だ。そして、全てのモノの監視を担う。川はその為に世界の中心である塔から全ての森や城に延びているのだ。そう、此処から私達は川を移動する」
世界の、主ってハートの女王様かしら?
そう訊いてみたかったけれど、また顔を近づけられたら嫌だからワタシは口を硬く閉ざしていた。
彼が言いたいのは要するに、この塔から流れる川は森と城全てに繋がっているということだと思う。けど、それじゃあ、何でワタシが此処にくるのが早すぎたのか、と言う説明にはならない。
「さて、先程までの話で分かるように此処は世界の中心だ。アリス、実は此処で全ての記憶を取り戻せる。何故かと言えば、全てが繋がっているからだ」
「えぇ!」
執事長さんから告げられた言葉に思わず大きな叫びに似た声をあげる。それを知るにはあまりに唐突過ぎた。
「だがしかし、その為にはもう一人のアリスの力が必要であり、また、この世界の理を知っていなければならない」
ワタシがあまりの驚きに放心して何も言えないことを察してか彼は話を続ける。たくさん質問したいが、それは口をついてくれない。黙って、そのまま聞くことになった。
「理とはすなわち真実。それはまだ、アリス、お前が取り戻していないもの。そしてアリス、お前の決断に不可欠なもの。アリス、お前は全てを知らぬうちに、全てを決めぬうちに、この塔へ来てはならなかったのだ」
真剣な語り方。しかし、どこか怒気を含んでいるような強い口調。そして、視線はいつの間にか天井に向けられている。ワタシは怖くなってチェシャ猫さんの後ろに隠れるように身を引いた。
「執事長、そう熱くなるな。アリスが、驚いて怯えている」
チェシャ猫さんの言葉に、はっとした様子でこちらに視線を下ろす執事長さん。口元に拳を添え、咳払い一つした。
「すまない。しかし、アリス。それは本当なのだ。アリス、お前は城へ行く必要がある」
「大丈夫さ、執事長。先に言ったろ? オレ達はアリスと12の城に行くために此処に来たって」
何処か懸念するように言う執事長さん。それに月さんは陽気な口調で横槍をいれた。チェシャ猫さんも月さんの言葉に同意を示し、こっくりと頷く。その二人の反応に執事長さんは小さく息を吐いた。
「そうであったな」
「あはは、忘れてたの? 執事長てば、もう歳なんじゃない?」
溜息と共に漏れた静かな呟き。そこへ月さんはふざけた口調で失礼な茶々を入れる。でも、執事長さんは怒る様子もなく、むしろ緩かな笑みを口元に刻んだ。
「そういうことを言っているならばお前だけ此処に置いていくぞ?」
「ちょっ! 待ってよ、冗談だって!」
さらりと、執事長さんの口をついた言葉に月さんは大慌てで跳ね上がる。それを横目で見ながら執事長さんは口元押さえ笑いを堪えてるような様子で「冗談だ」と返した。ワタシも釣られて微かに吹き出す。肩の力が抜けて気が楽になった。チェシャ猫さんは尻尾を燻らせ黙っている。けれど、フードの端がヒクヒクと伸びたり縮んだりしてた。多分、彼も笑ってるんだと思う。
「アリス。もう何か訊きたいことはないか?」
笑いが一段落つき収まると、チェシャ猫さんがにんまりフードをワタシに向け問いを口にした。急に訊かれても何も思いつかない。さっきまで聞き手一方だったしね。それに、ハートの12の城へ行くっていう目的は何も変わっていないもの。それだけ分かってれば今は十分だった。
首を横に振り意思を伝えると、チェシャ猫さんは視線を執事長さんへ移動する。
「私は……そうだな。最後に一つ、忠告をしておこう。アリス」
少し考えるように視線を落としたけど、執事長さんはすぐワタシを真っ直ぐと見据えた。ワタシは小さく首を縦に振る。
「いいか? アリス。私達全てのものはお前の幸せを望む。それを覚えておいて欲しい。しかし、アリス。唯一人だけそうではない者が存在するのだ。それが何者かは私達は誰一人言えない。だが、アリス。気をつけろ。唯一人のその者は既に動き出している」
「それは、言い過ぎだ」
段々と口調が勢いづいてくる執事長さん。そこにチェシャ猫さんの冷たい声が割って入った。その声色は威嚇している猫を想像させる。執事長さんは髪もないのに掻き揚げるような仕草をして、ゆっくりとため息を吐き出した。
「すまない。アリス、今の言葉は深く考えないでくれ。とにも気をつけて欲しい。それが言いたかっただけなのだ」
落ち着かないような様子で執事長さんは告げ、ワタシの答えを聞かず背を向ける。それから、彼は服の袖から小さな鈴を取り出し左右に揺らした。軽いチリン、チリンという音が部屋に木霊する。
次の瞬間、静かだった部屋を囲う水に波紋が立つ。そして、四隅から初めに見た魚人さんと全く同じ姿の生き物が現れた。身を硬くしてチェシャ猫さんに引っ付く。
「彼等に案内させよう。乗り心地は悪くないはずだ」
乗り?
思わず頬を引きつらせて問いかけようとした。けど、それより早くワタシの身体は持ち上げられる。手の平にぬるっとした感触。
「いやぁあああっ!!」
そこでワタシはほぼ無意識に触れたものを突き飛ばしていた。壁に何か柔らかいものがあたったような鈍い音。恐る恐る確認すると、魚人さんが一匹、水の中に沈んでいくところだった。更に、全員の驚きを隠していない視線がワタシに四方から突き刺さる。
「ご、ご、ごめんなさい! ワタシ、ぬ、ヌルヌルしてるもの苦手なのっ!」
居た堪れなくたって、両の手を頬に当てながら賢明に弁護する。恥ずかしくて、途中から口はもごもごとあまり動かなくなっていた。もう、自分でも何を言ってるか良くわからない。
「分かっていたことだ、アリス。あんたは俺が運ぶ。心配は要らないし、気に病むこともない」
チェシャ猫さんがワタシの肩にポン、と手を置いた。そして、冷静な一言。他の全員がその言葉に同意するように頭を縦に振る。
「あ、ありがとう」
「さ、んじゃ、話もまとまったことだし、さっさと行こうぜ!」
ワタシが小さな声で礼を述べると、それを掻き消すように月さんの声。彼は既に一匹の魚人さんに跨り始めていた。チェシャ猫さんがワタシを持ち上げて背中に乗せる。それから、空いている魚人さん一匹の上へ軽やかに飛び乗った。
「じゃあ、執事長。行って来るよ!」
「世話になった」
月さんとチェシャ猫さんが二人合わせて執事長さんに声を掛ける。彼は緩やかな笑みを称えたまま静かにこっくり頷いた。
「あぁ、すべき事をしっかりとな」
そう、執事長さんから答えが返ってくると同時に、乗り物となっている魚人さんたちが動き出す。水の中へ勢いよく飛び込んだ。ワタシは執事長さんに声を掛けようと思って口を開いてたから水を思いっきり飲み込む。苦しくてチェシャ猫さんの肩に掴まっている力が緩んだ。
このままずっと水の中を進むの?
そんな不安が頭を過ぎった瞬間、空気が肺へ飛び込んできた。急過ぎて思わず咽返る。
「アリス、大丈夫?」
「え、えぇ。……大丈夫、落ち着いたわ。それより、水に潜る時は言ってくれないとワタシ水飲み込んじゃうんだけど」
月さんの声が前方から飛んできた。ワタシは深呼吸し落ち着いてからゆっくりと答える。そうすると彼は自分が乗っている魚人さんに顔を寄せ、なにやらごにょごにょと話し出した。そして、暫くしてからこちらを振り返る。
「大丈夫だって、アリス! もう、潜る必要のないところを通るってさ!」
その言葉にほっ、と息を吐いた。潜らないならそっちのほうがいい。水の中は息も出来ないし、服もびしょ濡れになるもの。
スカートを片手で何とか絞りながら月さんに「ありがとう」とお礼の言葉を述べた。彼はウィンクを一つ投げて寄越す。そしてまた前方に顔を戻すと、そのまま乗っている魚人さんとの会話に興じ始めた。チェシャ猫さんはワタシを背中に乗せたまま振り向きもせずだんまり。
12の城に着くまでちょっと退屈そうね。でも、ちょうど良いから少し休んじゃおうかな。
そう思いながら重い瞼を擦り、欠伸を噛み殺す。睡魔は静かに歩み寄ってきていた。