表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/23

七の夢 歌う骨踊る骨

 帽と別れ6の森の奥へと進むアリス。

 しかし、今までの森とは何処か違う……。

 薄暗い森の中を妹の手を引いてゆっくり歩く。6の森は今までのどの森とも違っていた。木々には黒い蔦が巻きつき、光は鬱蒼とした草木に遮られている。そして気味の悪い雰囲気が絶えず直ぐ傍に横たわっているのだ。

「何か魔女の森みたいね」

 クロはぎゅっと握った手に力を込めて呟いた。あたしは黙ったまま歩みを進める。なんて返していいか分からないからだ。魔女の森っていうイメージがあたしには上手く想像できない。だって、そういうのに興味なかったから。

 まぁ、薄気味悪いってことは何となく伝わってきたけど。

「ん?」

 キラリ、と木々の間に何かが光った。気になってそちらへ向かう。徐々に何かが見えてきた。

「……お墓?」

 妹がごくりと唾を飲み込んで呟く。そう、やや開けた場所に蔦が絡み合って廃れたような墓場があったのだ。不気味さが肥大していく。

「待ってたよ、アリス」

 澄んだ声が辺りに響いた。驚いてあたしも妹もビクッと体を震わす。

 声の主は古びた墓の一つに腰掛けていた。ぐるりと大きすぎる目が少し細められる。幼い少年だ。けど、纏っている雰囲気はどこか異様。

 先の尖った長い捻られた帽子を被り、服は半袖に短パン。短い髪は幾つかの三つ編みが垂れていた。

「あなた、だあれ?」

 あたしの後ろから妹が問いかける。少年は両の口端を吊り上げた。

「ボクは歌骨。この森から先へ通すか通さないか判断を下すのが役目」

 何処か歌うような弾んだ口調。でも、それ以上は喋らずに墓の上から垂らした足をぶらぶらと揺らしている。あたし達が何か言うのを待っているようだった。

「ふぅん、じゃあ、貴方に許可を取ればこの森の向こうへ行かせてくれるのね?」

「うん。けど、アリス。今の君達を通してはあげない」

 問えばすぐに返ってくる答え。より一層、少年の口端は釣りあがる。あたしは眉を顰め相手を睨み付けた。

「ねぇ、どうして通してくれないの?」

「ボク等は君が来るのをずっとずっとずっと待っていたから」

 妹があたしの後ろから不思議そうに問い掛ける。と、少年は細めていた目を見開いた。気持ち悪いくらい大きな目はあたし達を凝視している。

「ただボク等は君を待つために踊り続けたんだよ」

「’ボク等’って、貴方一人しか居ないじゃない」

 辺りをぐるりと確認してから、警戒を含んだ声色で矛盾を指摘する。

遮らないとそのままわけのわからないことを言い続けそうだった。

「まだ、皆眠ってるのさ。でも、アリス。君の為にいつもより早く起こしてあげる」

 また再度、彼は目を細める。そこで少年の手に白い何かが握られていることに気がついた。彼は口元にそれを近づける。

 笛だ。白く長い横笛。

 音が奏でられた。高い音だけど耳障りでなく、むしろ心地いい。

 この笛の音で何が起こるのか、あたしには想像できなかった。

「きゃっ!」

 妹が小さく悲鳴を上げる。その理由は訊かなくても判った。

 だって、あたしの足に冷たい感触が纏わりついているんだから!

 ゴツゴツとしたその感触の主を確認する。背筋に冷たいものがすごいスピードで駆け上がった。

 だって、骨よ!? 人の手の骨があたしの足首掴んでるのよ!

 流石のあたしでもこれは正直怖い。体が強張って動けなくなった。

 笛の音は楽しそうに絶えず響いている。

「――――――っ!」

 声にならない悲鳴を上げた。足首を強く引っ張られ転倒する。妹の震える手があたしの服から外れた。あたしをその場に止めるものも無く、すごい勢いで引きずられる。クロも同じように足を掴まれ引きずられているのが見えた。

 少年が座る墓石の正面で骨の手は離れ動きも止まる。妹はすぐ隣に居た。

 上体を起こし妹を庇うように手を広げてから視線を巡らせる。辺りには無数の骸骨が土から這い上がってきていた。

 叫ぼうとしても引き攣った喉からは何も発せられない。

 奏でられていた音が止んだ。

「アリス、そんなに怖がらなくても平気だよ。皆君を歓迎している」

「怖がってないわ。 ただ驚いただけよ」

 くっと歯を食いしばって声が震えないようにしながら低い声で言い返す。周りの骸骨達がカタカタと歯を鳴らした。

「あの、この骸骨さん達、良い骸骨さんなの?」

 妹があたしの後ろから恐る恐る口を開いた。相変わらずこの子の思考は何処かおかしい。骸骨に良いも悪いもない気がする。でも、その抜けた台詞のおかげで震えが止まった。

「もちろん、アリス。ボク等は君が大好きだから、君にとっては良い骸骨だよ」

 にっこり笑う歌骨。妹が後ろで安堵の息を吐いた。あたしは黙ったまま彼を睨み付ける。

「さあ、アリス。君にまた出会えたことを祝って宴を開こう! 夜通し踊り歌い続ける、宴をね」

「ちょっと、待って! あたし達急いでるの!」

 墓石の上に立って両手を広げ骸骨達を見下ろして少年はよく通る声を張り上げた。骸骨達は一斉にカタカタと音を立て、慌てて止めようと叫んだあたしの言葉はその騒音にかき消される。

 少年が笛に口を当てた。音が零れる。その音色に合わせるように骸骨達が各々に動き出した。

 歯をカタカタ鳴らしたり、くるくると回転したり、左右に激しく揺れていたり、統一感はほぼ皆無。好きなように踊っている、そんな感じだ。

「ねぇ、お姉ちゃん。何だか楽しそうね」

 後ろから妹の弾んだ声。視線を向ければ案の定、彼女の瞳は輝いていた。

 とても理解できない。あたしにはただ不気味な光景にしか見えないわ。

 眉を寄せ毒吐きたい気持ちを抑えてたら、耳に奇妙な音が届いた。

 ……歌?

 そう、いつの間にか誰かが笛の音に合わせ歌っている。誰なのか、それは判らない。

 声は段々とはっきりしてきた。


 ――君が来るのをボク等はずっとずっとずっと待ってたんだ。


 幾つもの夜を踊り続けた。

 でも誰一人、満足できない。


 灰色の火じゃ虚しくて

 鳴る音さえも渇き切り

 闇は色褪せ、光は消え去り


 ただボク等は君を待つため踊り続けた――


 何処か切ないような響き。声のトーンはやや低く、でも透明感のあるとても綺麗な歌声だった。声の主が気になって視線を巡らす。例の少年と目が合った。

 あたしは立ち上がり、スカートについた汚れを払うと少年へ向かって一歩踏み出す。明らかに歌声は彼の笛から流れていた。音色とともにまた歌が繰り返されているから聞き違えてるわけじゃないことが確認できる。

「お願い、あたしの話を聞いて。今すぐ踊りも笛も歌も止めて頂戴」

 墓石に手を突いて背伸びをしながら、なるべく少年に近づいて言った。あたしの声が届いたらしく彼は口から笛を外す。音も歌も止んだ。骸骨達もぴたりと動くのをやめる。

「アリス、ボク等の歌も踊りも気に食わなかったの? せっかく骨笛もはりきっていたのに」

 すとんっ、とその場に腰を下ろし、また足をぶらりと墓石の上から垂れさせて、彼はあたしの顔を覗き込んできた。

「骨笛? あ、別に気に入らないとかそうじゃないの」

 思わず先に気になった言葉が口に出た。慌てて左右に首を振る。少年はにんまりと笑って笛をあたしの目の前に両手で差し出した。

「骨笛はこの子だよ。骨達の中で一番歌が上手いのさ」

「その笛、骨でできてるのね。でも、骨って歌うものなの?」

 急に真横で声がする。びっくりして振り返るといつの間にか妹がそこに居た。墓石に両肘を付きその上に顎を乗せ、歌骨を見上げている。

「もちろん! なんだ、アリスは骨が歌うことも知らなかったの?」

 少年はくすくすとおかしそうに肩を揺らしながら笑う。妹が考えるように首を捻った。

「なんかの昔話にあった気がするんだけど……。どうだったかなぁ?」

 妹は呟くが、あたしにはそんな話の思い当たりもない。肩を竦めて見せると妹は考えるのを止めて歌骨に視線を戻した。

「ねぇ、でも、何で周りの骸骨さんたちは骨笛さんと違って歌わないの?」

「ふふ、不思議に思う? 骨はね、楽器にすると歌うことができるのさ。音が出るとそれが生者に声として伝わる。ねぇ、そうだよね。皆!」

 問われて彼は楽しそうに説明する。そして、歌骨の問い掛けに今まで黙っていた骸骨たちがカタカタと音を鳴らした。肯定しているみたいだ。

「そうなの。ところで、話は変わるけど……どうしたらあたし達、この森を通り抜けられるのか教えて欲しいわ」

 当初の目的を思い出し、会話に脈絡が無いのは承知の上で訊いてみた。歌骨は妹から視線をあたしに移して、笑んだままの顔を傾ける。

「骨笛が歌っていたじゃないか。ボク達の願いをずっとずっと骨笛は歌い続ける。骨笛の歌はいつもボク等の思い」

 彼の言葉に彼とは反対の方向へ首を傾ける。あの歌の内容はとても抽象的だった。それに全部聞こえてたわけじゃない。でも、何となく察しはついた。

「色を、返せばいいの?」

「その通り!」

 大きく頷き声を張り上げる少年。骸骨達が一斉にカタカタと鳴り始めた。今までで一番騒がしい。思わず手で耳を塞いだ。

「でも、待って。女王様はそれを望んでいないんじゃないのかしら?」

 騒音が止むのを待ってから妹が問い掛ける。歌骨は「あぁ」と忘れてたことを思い出したような呟きを漏らした。

「うん、確かにそうだね。でも、ボク等は女王様に’アリスへ記憶を返しちゃいけない’なんて言われてない。ボク等が女王様から受けた命令はこの森の審判だけ。それ以外は好きにしていいのさ」

 笛をくりくりと回し、半分笑いが混じった口調で彼は言う。

 完全な屁理屈だと思った。でも、都合がいい。色を返せば通してくれるわけだから、ね。

「えぇ、わかったわ。それじゃあ、色を返してあげる。その代わりちゃんと通してよね?」

 右の手を相手に向かい差し出しながら念を押すように言う。歌骨はこっくりと頷いてあたしの手をとった。妹が遅れて左手を出す。その手も彼は掴んだ。

 例の眩い光。その後には頬を紅葉させた歌骨の姿。そしてその周り、いや墓場全体に赤と青の炎が舞うように揺ら揺らと浮かんでいた。

「わぁ……やっと戻ってきたんだね。ボク等の明かり」

 歌骨が頬を緩ませて呟く。骸骨達がまたカタカタと鳴った。でも、あたしにはそれがとても遠く聞こえる。

 手にはじっとりと……汗。

 胸の鼓動はどくどくと何処までも早くなっていく。

 頭が痛い。

「いやぁぁああああっ!」

 妹の声が、全ての音を遮った。緩慢な動きでクロの方を振り返る。倒れて意識を失っていた。

 何故だかは分かっている。


 記憶のせいだ。


 ぎゅっと、あたしは強く拳を作った。カタカタと体全体が震える。あたしも今すぐ妹のように気を失ってしまいたかった。


 お墓。

 幼い自分。

 手を引く母。


 今までの記憶と違う、気持ち悪いものを伴ったそれは確実に脳裏に甦ってくる。


 思い出したくない。

 おもいだしたくない。

 オモイダシタクナイ。


 体全体が拒否してる。必死に思い出すことを食い止めようとしてる。


 ――アリス。


 声がすぐ傍で聞こえた気がした。

「アリスっ!」

 気のせいかと思って目を瞑りかけた瞬間、今度ははっきりと聞こえた。それが誰だか直感的に分かった。

 チェシャ猫。

 あの、白い服を着た少年。

「アリス、忘れるんだ。色をまた封印してしまえばいい。今思い出すには、その記憶は早すぎる」

 声に懸命さが感じられた。声のするほうへゆっくりと視線を向ける。あの、白い服から垣間見える無表情が居た。

 色を封印って……どうやって?

「ねぇ、チェシャ猫。ボク等の邪魔をする気なの?」

 チェシャ猫が口を開きかけて歌骨の声に振り返る。彼の声は酷く低く怒気を孕んでるように思えた。

「そういうことになる。俺達はアリスを守る義務があるからな」

 知らない声がチェシャ猫の代わりに答える。倒れているクロのすぐ横に真っ黒い何かが立っていた。成人男性ぐらいの背の高さ。ただチェシャ猫と同じく耳と目の付いたフードを目深に被っている。

「そう言うと思ったけど……。せっかく戻った色をまた失うなんてごめんだね! ボク等はキミ達の邪魔をする」

 目を大きく見開いて、不敵な笑みを浮かべる。彼は骨笛を口に押し当てた。

 甲高い笛の音が響く。痛い頭に一層激痛が走った。足が折れ、膝が地面と触れ合う。

 骸骨達が一斉に此方へ迫ってきていた。

「アリス。強く願って。忘れたい、と。そうすれば記憶は君から離れる」

 耳障りな笛の音と早い鼓動の音の中でチェシャ猫の声がはっきりと頭に響く。深くは考えず声の言うとおり強く願った。


 忘れたい。

 オモイダシタクナイ。

 わすれたい。

 おもいだしたくない。

 ワスレタイ。

 思い出したく……ないっ!


 何回も何回も同じ言葉を心の中で唱える。すると徐々に体から力が抜けていった。鼓動は少しずつ正常な刻みに近づき、頭痛は和らいでいった。

 それとともに奇妙な光景を目にする。歌骨の肌が石のような灰色に侵食されていっているのだ。

 驚いたように笛の音がぴたりと止まる。既に灰色は体の八割を染めていた。骨達は静止し、辺りには沈黙が下りる。

 不気味だった。ただ全員が立ち尽くし黙っている。

 暫くして歌骨がこちらを振り返った。彼の目は今までのどれよりも見開かれ血走っている。

 チェシャ猫があたしの手を強く握った。次の瞬間――

「走って、アリスっ!」

 チェシャ猫が大きく叫ぶ。強い力で手を引っ張られた。この小さな体の何処にこんな力があるんだろう、と不思議に感じる程に。

 あたしは、そのまま引っ張られて一緒に走る。音がまた奏でられ始めた。

 足が何かに引っかかりその場に倒れこむ。足元に目をやると、そこにあるのは手。骨の手だ。またそれがしっかりとあたしの足首を掴んでいる。それをすぐさまチェシャ猫が尻尾で叩いた。手は外れ、するすると地中に戻っていく。

「……仕方ない。地面を歩いたら捕まってしまうよ。アリス、しっかり僕に捕まっていて!」

 チェシャ猫の声に焦りを感じられた。そして、急に体が浮く。チェシャ猫があたしを持ち上げ抱えた。正直頭が混乱する。

 こんな小さい子に普通どう考えたってあたしは持ち上げられないわ。

 でも、そんなあたしをよそにチェシャ猫は軽やかにあたしを持ったまま跳躍した。着いた先は太い木の枝。帽程じゃないけどチェシャ猫もすごいジャンプ力である。改めて常識でモノを考えちゃいけないことを思い知らされた。

 少し、落ち着いてきたあたしはチェシャ猫にしがみ付きながら木の下を見る。

 笛を吹くのをやめた歌骨がこちらを見ていた。骸骨達はその場に倒れぴくりとも動かない。そして最後に、妹が倒れていた場所に目をやる。誰も何も居なかった。

 忽然と其処から彼女は消えていたのだ。もっとよく見ようと身を乗り出そうとした。

「駄目だよ、アリス。落ちてしまうよ」

 けど、チェシャ猫に注意される。あたしは彼を振り返った。くりくりとした飾りの目と、視線が合う。妙な気分だ。

「妹は、クロはどうしたのよ? どこに行っちゃったの? 捕まったの?」

 けど、それを気にしてる余裕はない。あたしは早口で質問を捲くし立てた。チェシャ猫は訊いているのかいないのか視線を地面へ下ろす。

「心配しなくても大丈夫。黒のチェシャ猫がついてるから。詳しくは後で話すよ。それより此処を離れよう」

 またこちらを向いて一通り告げると、こちらの返事も待たず別の木の枝へ飛び移った。それをすごい速さで繰り返す。ぐんぐんとあの墓場が離れていく。

 けど、微かにあの骨笛の音が耳に届いた。

 急にチェシャ猫が動きを止める。そして、いきなりあたしを放り投げた。びっくりして瞬きを繰り返し彼を凝視する。チェシャ猫に何か黒いものが巻きついていることに気がついた。

 蔦? そうだ、木々に絡み付いていたあの蔦だ!

 それが、木の幹を這いチェシャ猫に絡みつく。その数は増えていくばかり。

 チェシャ猫が蔦を払うように手を振るった。蔦はざっくりと幾つもに裂け、だらりと力なく木の枝に垂れ下がる。どうやったのかあたしには今一分からなかった。

 自分に絡みつく蔦を全て裂いてからチェシャ猫はスッと姿を消す。

 ちょ、あたし放り投げっぱなし!?

 慌てて後ろを振り返ると地面はすぐ其処だった。叫んでやろうと思ったが頬が引きつり声が出ない。

 目を瞑った瞬間、かくん、と何かにつかまれる衝撃。落下がとまった。うっすら目を開けるとチェシャ猫の顔。彼はあたしを残して何処かに行ってしまったわけじゃなかったらしい。

「アリス、まだ、彼等は諦めてないみたいだ。急いで森を抜けよう」

 ぴくぴくと耳を動かしながら今来た方角を見据えるチェシャ猫。あたしも同じ方角へ視線をやり耳を澄ませた。やはり笛の音が微かに届いてくる。それに合わせ蔦がにじり寄ってきていることも確認できた。

「それがいいみたいね」

 あたしが小さく頷いて答えると、チェシャ猫はあたしを一度地面に立たせた。そして背を向ける。

「乗って。僕の首にしっかり手を回して、絶対に離したらいけないよ」

 背を向けたまま振り返らずに彼は言う。言われるままあたしはチェシャ猫の首に手を回した。

 途端、ぐっと前のめりになる。強い風が顔に当たり横へ避けていく。

 チェシャ猫は腰を曲げ四本足で走り出していた。本物の猫のようなしなやかさで木々の間をすり抜けていく。時折、蔦が幾つにも纏まって四方八方から迫ってきたが、チェシャ猫はいとも簡単にそれらをかわして見せた。

 森の中を風と同化して走る。正直、チェシャ猫の首に捕まっているのが辛かった。首を絞めてしまっていないかと不安になって彼の顔を覗き込むが、相変わらずの無表情。全然大丈夫なようだ。

 木々が一瞬にして姿を消す。チェシャ猫が止まった。あたしは首を曲げて後方を見やる。蔦が一定の場所で行進を止めていた。木々が無くなる森と草原の境目で。

 あたしはゆっくりとチェシャ猫の背中から降りた。辺りは森を抜けたというのに薄暗い。空には太陽でなく月が顔を出していた。日がいつの間にか暮れていたのだ。

「アリス、もう大丈夫だよ。6の森から歌骨達は出られない」

「そう、みたいね」

 チェシャ猫が立ち上がり服を叩きながら淡々と言った。あたしは蔦から目を離して彼に視線を向け緩く頷く。

「アリス、ここからあっちの方角に行くとクローバーの7の森がある」

「ちょっと待ちなさい」

 遠くを指差すチェシャ猫の言葉をあたしはすぐさま制止する。そして不機嫌そうな表情を作り彼の顔を覗き込んだ。何故か一歩後退するチェシャ猫。

「何?」

「アンタ、またテキトーに説明して居なくなるつもり?」

 しっかりと逃げないように相手の腕を掴んで問う。ぐるりとフードの飾り目が回った。そして、チェシャ猫は黙って答えない。

「アンタ、こんな飾りで感情表現してないで顔でしなさいよね」

「いたいっ!」

 あたしがその飾り目を突っつくとチェシャ猫は服の毛を逆立てて飛び上がった。ちなみに触った第一感想は、ぐにゃりとして気持ち悪い、だ。なんかグミのちょっと硬いものを触った感じ。

「アリス、目を突くのはやめてよ。すごく痛い」

「目ぇ?」

 あたしに片手を掴まれたまましゃがみ込んでぐったりしたように首を振る彼。よく分からなくて呆れ返りながら相手の言葉の一部を反復した。

「言おう言おうと思ってたけどアリス。これは飾りじゃない。僕の本物の目なんだよ」

 立ち上がり真っ直ぐとこちらに視線を向け彼は言う。

 そう言われて良く見ると何か引っかかるものがある。フードの開いたとこがにやけたような口、大きな目、耳、フード全体が大きな猫の顔のようだった。更に観察していると例の飾り目に白いものが被る。

 ま、瞬き?

 思わず一歩後退した。相手の腕から手を離しかけたけど、そこは何とか堪える。

 しかし、何か気持ち悪いし納得いかない。どういう構造になってるのか中を見てみたい気分になったが、無意味なような気もして考えるのを止めた。

「まぁ、いいわ。それより……あたし、アンタに沢山訊きたい事があるの。まず、黒のチェシャ猫って何? クロは何処へ行ったの?」

 きゅっ、と相手の腕を掴む力が自然と強くなった。チェシャ猫は尻尾をくゆらせ真っ直ぐと大きな瞳をあたしの目に合わせる。

「黒のアリスには黒のチェシャ猫が居るんだよ。チェシャ猫はアリスと一対一の関係だから」

「なんで?」

「それは言えない」

 相手の台詞に疑問を問い掛ければ、ぴしゃり、っと即効で答えが返ってきた。正直意味が分からない。けど、追求したところでチェシャ猫はあたしが理解できる答え方をしてくれないだろう。

「じゃあ、それはいいわ。クロはどこ?」

「黒のアリスは黒のチェシャ猫が連れて行ったよ。もし、彼女に会いたいならハートの12の城を目指すのが一番早い」

肩を竦めてから一番聞きたいことを問う。チェシャ猫は後ろを振り返り眺めながら淡々と言った。

 ハートの12の城って確か、この国を治める女王が住んでいるところよね?

 でも、何で其処に行くのが一番手っ取り早いかしら。

「チェシャ猫はアリスを女王の元に連れて行く」

 顔をこちらへ向けなおして、ぽつり、と呟くチェシャ猫。なんで、とか問うのは愚問な気がした。

「なら、アンタもあたしを其処へ連れてくことを望むのね? 上等だわ。案内して頂戴」

「アリス、僕は……」

 にやりと口端を吊り上げて勝気な笑みを浮かべてみせる。チェシャ猫は耳を垂らし困ったようにもごもごと何かしら言った。最後のほうは聞き取れやしない。

「案内、してくれるわよね?」

 いつもはしないような満面の笑顔を形作ると、彼は大きな目を回してだらりと肩を垂れた。そして出るため息。

「……分かったよ、アリス。君の望みに僕は逆らえない」

 その言葉を聞いて、あたしは相手の腕を離す。もう逃げる心配はなさそうだからだ。

「まず、7の森に入ろう。城には全ての森を通過しなくちゃ辿り着けない」

 チェシャ猫は背を向けて次の森を指し示す。

 よし、行ってやろうじゃないの!

 自分に気合を入れるため、拳を握り心の中で叫んでから足を一歩踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ