--- おわり ---
近づくと、やっぱり紫の瞳は少し遠かった。
それでも今はピンヒールの靴だったから思ったよりも近づいていた。
「アレイさん」
半年振りに会う漆黒の剣士は、ぜんぜん変わっていなかった。
端正な顔も切れ長の眼に納まる紫水晶の瞳に灯る光も、記憶の中にあるままだった。
「やっと、追いついたよ」
戦地に旅立つアレイさんが、行かないでと言ってしまった自分に言った言葉――待っている。お前が自分で俺と同じ位置に立てるようになるまで。
それを頼りにここまできた。
「遅かったな」
「仕方ないじゃん。おれは未熟者だったんだから」
「違いない」
「もう!」
久しぶりに会ったっていうのにやっぱりアレイさんはイジワルだった。
でもいいや。目の前にこのヒトがいるだけでとても嬉しいから。
そう思うと自然に笑みがこぼれた。
「阿呆面で笑うな。気が抜ける」
「いいじゃん、アレイさんに会えて嬉しいんだ」
正直にそう言うと、アレイさんは大きなため息をついた。
こんなに素直に話すのは久しぶりかもしれない。自分は考えた事がすぐ口に出てしまうほうだけれど、漆黒星騎士団ではやはりそれなりに気を使っていたようだ。
「レラージュと戦闘したそうだな」
「うん、強かった。勝てないかと思ったよ」
「ひどい怪我をしたんじゃないのか」
「おれは平気だ。でも新しくレメゲトンになったライディーンにひどい怪我させちゃった」
フラウロスさんの炎で手を焼いてしまったのだ。
「でも、ちゃんとそいつを救ったんだろう?」
「うん、ちゃんと生きてた」
「なら何故そんな顔をする。お前は……よくやった」
ぽん、と頭に手を置いてくれた。
温かくて大きな手はじんわりと優しさを運んできた。
「ほんと?」
アレイさんが褒めてくれるなんて珍しかったから思わず聞き返してしまった。
「ガキにしてはな」
「ガキって言うな!」
むっとして唇を尖らせると、アレイさんは少し唇の端をあげた。
予想していなかった微笑みに思わず心臓が跳ね上がった。おかしいな、何でこんなにドキドキするんだろう。紫の瞳から目が離せない。
久しぶりに会ったから緊張しているんだろうか。
いや、そんなことない。
まるで吸い込まれるようにアレイさんを見上げていた。
「何だ、ぼんやりして」
バリトンの声にはっとした。
不思議そうな顔が覗き込んでいる。
みるみる頬が熱くなるのを感じた。
「変な奴だな」
答えられない。何でだろう。心臓がすごく早くなっている。
アレイさんに聞こえちゃうんじゃないだろうか。
「どうした」
「な、何でもないよ」
思わず後ずさってしまう。いま近づいたら心臓が壊れるかもしれない。
伸べられた手を避けるように一歩飛び退った。
「あ……」
傷ついたような顔をしたアレイさんに、慌てて弁解しようとする。
「違うんだ! 嫌なわけじゃないんだ! でも、なんだかすごく……」
触れられたい、触れられたくない。
見ていたい、でも見ていると恥ずかしくなってくる。
矛盾する気持ちが心の中で渦巻いた。
あんなに傍にいたいと思っていたのに、いざ目の前に現れたら心臓が壊れそうに拍動していた。
「すごく……」
初めて持った感情に名前をつける術を自分は持たない。
触れていいだろうか。
ドキドキしながら欲望のままに手を伸ばしてアレイさんの胸にそっと触れると、心臓の音が伝わってきた。
アレイさんの手が頬に触れた。
一瞬びくりとしたけれど、今度は逃げなかった。
「何でいままで平気だったんだろうね」
とても不思議だった。あれだけ近くにいて、あれだけ触れていてどうしてこれまで何も思わなかったんだろう
でもそれでも今も――触れて欲しいと思う心は一体何なんだろう。
「不思議だな。すごく……幸せなんだ」
温かい気持ちが全身を満たしている。
昔のヒトはこれになんていう名前をつけたんだろう。
心が導くままに一歩近づいた。
じっと見つめた紫の瞳には戸惑いが映っていた。
それを払拭するためにぎゅっと抱きついた。その瞬間に、泣きそうなくらいに何かがこみ上げてきた。その全部をぶつけるようにますます強く額を押し当てた。
「いったいどうしたんだ」
困った声が響いていた。
それでも、アレイさんはぜんぜん嫌そうじゃなかったからすごく嬉しかった。
背と頭に当てられた手が優しかった。
温かい腕に包まれて確信した。
――アレイさんだけは特別だ
ライディーンに抱きしめられたときはすごく怖かった。抵抗できないと思った瞬間に凄まじい恐怖が襲った。
でも、アレイさんの腕の中ではそんな事はない。
だってここは世界で一番安心できる場所なんだ。
「もうどこにも行かないで」
すごくワガママな言葉を言ってみた。
自分がそうするのはアレイさんにだけだから。
ねえちゃんにすら見せないすごくワガママな自分を受け止めてくれるのはアレイさんだけだから。
「仕方ないな」
あきれたようなバリトンを聞きながら、ほんの少しだけアレイさんに向ける気持ちとねえちゃんに向ける気持ちが違うことに気づき始めていた。
自分にはそれが何なのか分からなかったけれど、今は自分の中に芽生えた気持ちと、大切なヒトと再会できた安心感でいっぱいだった。
目の前に迫っているのは戦争という現実――自分はこれからどうしていくのか。
未来は全く見えなかった。
この先に待っている最悪の結末をもしリュシフェルが知っていたと分かっていたなら、この時自分はもっと真剣にその気持ちと向き合えていたかもしれない。
でもこのときの自分は幸せに包まれていて、何も考えていなかったんだ。
永遠なんて幻想だって、昔誰かが言っていたのに――




