SECT.13 ヴィクトリア=クラーク
「ヴィッキー!」
慌てて叫んだ瞬間に気づいた。
ヴィッキーの手に握られているのは自分の篭手だ――裏に悪魔の羽根を縫いつけた。
縫い付けた後体調を崩してしまった、と言ったアイリスを思い出した。
「篭手、離して! おれにちょうだい!」
「あ、ああ……」
篭手をひったくるように奪ってぎゅっと握り締めた。
「この篭手には悪魔の加護が入ってる。ヴィッキーは悪魔に対する耐性がないから少し気分が悪くなったんだ」
コインを盗ったのはヴィッキーじゃない。悪魔の耐性が全く無い彼女がそんな事をすれば今朝稽古など出来るはずが無い。
つらそうな様子のヴィッキーを自分の代わりにソファに座らせた。
「すまないな、私の方がこの体たらくだ」
「違うよ、おれのせいだよ」
左手でヴィッキーの肩に触れそうになってはっと手を引く。
これを彼女に近づけるわけにはいかない。
右手を埋め込まれたコインにかぶせるよう押し当てて、唇を噛んだ。
悪魔の気が人間にいい影響を与えない事を忘れてはいけない。アイリスが体調を崩したと聞いて戒めとなっていたはずだったのになぜ忘れていたんだろう。
コインが体に埋め込まれてしまった自分自身はすでに耐性を持たないヒトたちにとって毒でしかないのに――
「どうした、ラック。泣きそうな顔をしているぞ?」
それこそ蒼白な顔をしたヴィッキーの姿に胸が裂かれる様に痛む。
「それは私には話せない事なのか。もしよかったら相談してくれないか」
ヴィッキーの優しい心が裂かれた胸の傷にしみた。
「あのね、ヴィッキー。実はね、昨日の晩……おれのコインが盗まれたんだ」
「コインというと悪魔のコインか?!」
「うん。だから慌ててクラウドさんに報告に来たんだ」
「何と言うことだ……!」
ヴィッキーは額に手を当てた。
「一体誰がそんな事を」
「おれも信じられないけど、たぶん鴉部隊の中にいると思うんだ。夜中は天使を召還できないからセフィラの仕業じゃないし、一般のヒトがあの宿舎に忍び込んでまで盗る理由は無い」
ヴィッキーの深緑の瞳が大きく見開かれた。
「……信じられない。鴉の中に盗人がいるなど!」
答えられなくて口をつぐんだ。
しかも自分がコインを持っている事を知るのはヴィッキーとライディーンのみだ。
となると最も疑わしいのはただ一人。
「少しだけおれに任せてくれる?心当たりがあるんだ」
ほんの少しだけれどクロウリー家の血を引いていて、あの日の晩おれを部屋まで送ってくれた――これ以上の理由は無い。
しかし一番疑いたくなかった。
いつも千里眼の練習に付き合ってくれる。夜遅くまで一緒に屋上に残ってくれて茶化したりもするけど励ましてくれる。
この訓練所に来て一番仲良くなったのがライディーンだったから。
加護のある羽根が縫いつけられて篭手を握って、唇をかみ締めた。
しばらくしてクラウドさんが戻ってきた。
「待たせたね。ああヴィッキー、ありがとう」
ソファに身を預けていたヴィッキーはさっと立ち上がった。
一瞬足元がふらついたがすぐに姿勢を正した。
「どうしたんだい、あまり体調がすぐれないようだが」
「いえ、何でもありません」
「悪魔さんの気に当てられちゃったんだ。ヴィッキーはすごく弱いみたい」
隠す事ではない。
むしろヴィッキーの無実を主張しておかなくてはいけない。
「コインも普通のヒトには毒だって聞いたよ。盗ったとすればそれなりに耐性のあるヒトじゃないと無理だ。だから……」
「ヴィッキーには無理だ、と言いたいんだね」
こくりと頷くと、クラウドさんは優しく微笑んだ。
「ラック、君はとても優しい子だ。そして、非常に賢い子だ。もうだいたい何か見えてきているのだろう?」
「心当たりがあるんだ。少しだけ待って欲しい。何とかしてみるから」
「仕方のない子だね」
クラウドさんは金髪をさらりと揺らして極上の笑みを湛えた。
「大丈夫、王には既に報告した。事件解決と加害者への罰則権限を君に一任されるそうだ。セフィロト国の干渉、及び国内反レメゲトン組織の介入はないものとする」
「うん、たぶんそうだよ。きっと深い理由なんて無いと思う、それにあれは……盗んだからって悪用できるものじゃないよ。それはおれが一番よく知ってる」
既に自分のものでなくなってしまった左手を包帯の上からぎゅっと掴んだ。
「期限は一週間だ。その間に犯人と証拠を挙げコインを奪還せよ、というのが王からのご命令だ」
「分かった。」
唇を結んで、真摯に頷いた。
ヴィッキーと二人朝日の中すぐに宿舎へ向かった。
すでにいくらか訓練に参加する一般志願兵が集まり始めている。そんなヒトたちに軽く礼をしながら舗装されていない道を急いだ。
「まさかこんな事態になろうとは。すまない、ラック」
「何でヴィッキーが謝るの?」
「部下の不始末は上司の責任だ。私は鴉のリーダーだからな、その全ての責を負っている」
時にヴィッキーは難しい言葉を使う。
それはアガレスさんの複雑な組み合わせの言葉とは少し違う分かりにくさで、自分はまだ知らない常識を当たり前に下敷きにしたような、そんな感覚だった。
その常識は知りたいと思う事もあるが、知ってしまうと自分の中の価値観とか信条とか、そんなものが崩れてしまいそうで怖かった。
「それよりも……謝るのはおれのほうだよ」
「なぜだ?」
「おれが持つものにはヴィッキーにとってよくないものが多いから。おれの傍にいたらまたきっと体調を崩すよ」
コインのペンダントは外せばいい。篭手は身につけなければいい。
でも、左手に埋め込まれたコインは消せない。
生きている限り自分は悪魔の気を発し続ける。耐性がない普通のヒトに長く触れている事はできないのだ。
負わされた枷に初めて気がついた。
この呪われた左手がある限り自分は悪気を発し続けるのだ。
「ごめんね、ヴィッキー」
存在自体が毒だから。
もう何も考えずヒトに触れる事はできなくなるだろう。この先ずっとこの左手の悪魔を抱えて苦悩しながら生きていくのだろう。
その瞬間に例えようの無い寂寥感に襲われた。
星の数ほどいるヒトの中で自分だけが孤独なんじゃないか、今隣を歩いているヴィッキーですらとても遠い世界にいるんじゃないか――
「何を謝る事がある。お前は堂々としていればいい」
「でも」
反論しようとすると、情の深い濃い緑の瞳が見下ろしていた。
慈愛の色に言葉を失った。
「私には妹がいる。年が離れていて、今年で10歳になるんだが、私と違っていかんせん体が弱いのだ。この国は、今は夏だから暖かいが冬が来れば寒くなる」
ヴィッキーが一体何を言いたいのかわからず首をかしげた。
「私の実家は北の都カインのさらに北にある。冬には地面が雪で覆われ池は凍りつくような土地だ。体の弱い妹はすぐに体調を崩してしまうんだ」
懐かしむように目を閉じたヴィッキーはとても優しい顔をしていた。
「だからと言って妹は冬を嫌わない。真っ白な雪が降るのを見ては喜んでいるし、氷柱を見ては欲しいとごねる。寒さに自分の体が堪えられないと知っていたとしてもね。いつもなぜだろうと不思議で仕方がなかったんだ。自分に害を与える寒さを嫌うどころか待ち遠しくさえ思っている」
そう言ってヴィッキーはにこりと微笑んだ。
「今なら少しその気持ちが分かるよ」
「何故?」
「私がお前を気に入っているからだ」
「……え?」
何のことか分からなかった。
それでも彼女は微笑みのうちにコインの左手を掴んだ。
振り払おうとしたが、強い意思をともした深緑の瞳を前に強い行動には出られなかった。
「自分にとって有害だという事は好き嫌いには全く関係ない。お前の魂は穢れなく強い。いつも前だけを見つめて進んでいく不屈の魂だ」
ヴィッキーの顔を無心に見上げていた。
一言一言が先ほどの傷に染み入って少しずつ癒されていくのが分かった。
「確かにお前はレメゲトンで、人間の健康に害を与える悪魔の印を多く持っている。だが、それは自然が私たちに与えるものの一部だ。寒さへの耐性が人によって違うように、悪魔の気に対する耐性も人によって違う。確かに強かったらよかったかもしれない。だが、それはお前のせいではないだろう?むしろ私が生まれついての問題だ」
ヴィッキーは隣にいた。
同じ世界で微笑んでいた。
「ラック、そんな風に考え込むな。お前にはそんな顔似合わない」
言葉を返せなかった。胸の辺りに何かがつっかえて邪魔しているようだった。
「大丈夫、コインもすぐに見つかる。盗った方も何か理由があったんだろう。お前が諭してやればちゃんと返してくれるさ」
コインの埋め込まれた左手を強く握って、真直ぐに瞳の中の光を見つめてヴィッキーはそう言った。
自分はきっとその時世界で一番間抜けな顔をしていたと思う。
でもきっと世界で一番温かい言葉をかけられていたはずだ。




