SECT.2 行かないで
それから幾許もしないうちに、大きな馬車がねえちゃんを迎えに来た。
レメゲトンの正装に身を包んだアレイさんが馬車から降りてきた。
横では使用人のヒトたちがねえちゃんの荷物を積み込んでいた。ねえちゃんはそっちに指示を出していて、ヨハンもそれを手伝っているようだった。
自分はその様子を二階の廊下の窓から見下ろしていた。
「……ねえちゃん」
最後に見送る時だけ下りよう。そうじゃないと、ねえちゃんの顔を見たら今度こそ泣いてしまうかもしれない。
そう思ってその場を離れようとすると、とても聞きなれたバリトンの声がした。
「おい、くそガキ」
「……アレイさん」
正装のアレイさんはいつもより凛々しく見えた。
これから戦場に向かう姿はとても勇ましい、グリモワールを代表するレメゲトンの威厳があった。
「世界の終わりみたいな顔しやがって」
「アレイさんも行っちゃうんだね」
「ガキの戯言を聞かなくていいかと思うと清々する」
アレイさんはまたイジワルなことを言う。
でもこの深いバリトンが聞けなくなると思うとすごく寂しくなった。
だって何週間か前にアレイさんに会ってから、新しい世界に飛び込んでからはずっと一緒にいてくれたんだから。
ねえちゃんもアレイさんもどっちが欠けてもおれの世界は成立しないんだ。
その二人が同時にいなくなるなんて……
「泣きそうな顔をするんじゃない。もう二度と会えないわけじゃないだろう?」
「そうだよ、そうだけどさ」
王様が言ってることもねえちゃんたちが行かなくちゃいけないって事も戦争のことも自分の力量不足も全部納得したはずだったのに、心はついてこなかった。
「行かないで」って言いそうになる。
でもそれだけは言っちゃいけない。すごく困らせることになるから。
王様の考えもアレイさんの義務も願いも全てを否定することになってしまうから。それだけは言っちゃいけない。
ぐっと我慢していると、アレイさんはぽんと頭に手を置いた。
「俺の前で我慢するな。見ちゃいられない」
「だって……だって……」
言っちゃだめだ。言っちゃだめだ。
アレイさんは屈むようにして紫の瞳で覗き込んだ。紫水晶にはとても優しい光が灯っていた。
軽く唇の端が上がった。
これまで数えるほどしか見たことのない笑顔だった。
「ねえさんの前では言えなかったんだろう?」
アレイさんは反則だ。
そんな優しい顔されたら、我慢できなくなっちゃうじゃないか。
「うっ……だって……」
ぽろぽろと涙が零れ落ちてきた。
アレイさんの前で泣くのは二回目だ。一回目はラースに左腕を食べられた後だった。あの時のアレイさんはとても優しく大きく包み込んでくれたんだ。
「分かってるのにっ……おれが弱いから……一緒に行けな……」
紫色が滲んでいった。
拭っても拭っても涙は次から次へと流れ出してきた。
「でも、ほんとは、ほんとは……」
言っちゃだめだ。それだけは。
無理やり口を閉じて、下を向いた。
涙がぽたりと床に落ちた。
俯いたままアレイさんの胸元に額を預けた。涙は止まってくれなかった。
アレイさんは背に手を回してくれた。相変わらずその大きな手は温かくて優しくて、もっともっと泣いてしまった。
「顔、上げろ」
無理だよ。
アレイさんのバカ。
胸元をぎゅっと掴んだ。額をますます強く押し付けて、絞り出すように言った。
「傍にいてくれるって言ったじゃん……」
あの舞踏の夜に。優しい瞳で見下ろして。
ずっと傍にいてやるって言ったのに。
「おれだって知らない場所でアレイさんが危険な目に遭うのなんてやだよ。すぐ助けられるように傍にいたいよ。おれに出来ることなんて……すごく少ないけど」
だから今はもっと強くなるしかないんだ。
それはわかっているんだけれど。
アレイさんが悲しそうな声で言った。
「約束を破るつもりはなかったんだ」
「知ってる。戦争だって……王様が……この国を守ってって……」
でも。それでも。
「うそつき」
それは間違いじゃないけど、恐ろしくワガママな言葉だった。
アレイさんのせいじゃないのに。
見上げると、悲しげな紫の瞳が見下ろしていた。
もう我慢できなかった。
「行かないでよ、アレイさん……!」
言っちゃだめだって思ってたのに。ずっとずっと我慢してたのに。自分はいつからこんなにもワガママになってしまったんだろう。
紫の瞳が辛そうな色を映じた。
「すまない」
ポツリと呟いた言葉はめちゃくちゃに胸を締め付けた。
どうしようもなく切なくなって、大声で泣き出したくなった。
「どうしても行かなければならないんだ」
滲んだ視界で紫色が近づいてくる。
額に軽く唇で触れた感触があった。
少し驚いて目を開けると、今度は頬に一つキスをした――眠れない夜によくねえちゃんがそうしてくれたみたいに。
「俺はミュレク殿下のようにお前を安全な場所に匿う術など持たない。だから……待っている。お前が自分で俺と同じ位置に立てるようになるまで」
アレイさんはもう一度強く抱きしめてくれた。
足が地面から離れて、ふわりと浮いた。
「代わりにお前がいる王都を、この国を守ってやるから」
心地よいバリトンが響いている。
静かな鼓動が伝わってきて、温かな体温が触れて少しずつ心が落ち着いてくるのを感じた。
やっぱりここは世界で一番安心できる場所らしい。
満足するまでその安心を胸いっぱいに吸い込んでから、さらさらの黒髪に頬を寄せながら小さく呟いた。
「ごめんね、アレイさん。ワガママ言っちゃったよ」
首に手を回したまま。
耳元で心地よいバリトンが響く。
「構わない。その方が……嬉しい」
「そうなの?」
なぜワガママを言った方がいいんだろうか。
きっと困るからと思ってねえちゃんには絶対言わないようにしてるのに。目の前で泣かないようにすごく我慢しているのに。
でもアレイさんが相手だとあんまりその我慢はうまくいかないんだ。
なぜなんだろう。
きっとその気持ちを突き詰めていけば自分がねえちゃんに抱く好きという感情と、アレイさんに対して抱く感情は別のものだって気づいたはずなのに、このときの自分はそんなこと考えようとも思ってなかった。
紫の瞳に灯る優しい光の意味を知ろうともしてなかった。
だからアレイさんがイジワルな理由も、抱きしめてくれる理由も、たまに優しくなる理由だってぜんぜん分かっちゃいなかったんだ。ワガママを言ってくれた方が嬉しいって言ってくれることも理解できなかった。
自分がいろんなことに気がついたのはずっとずっと後のことで、その時にはすでに掛け替えのないものをいくつも失ってしまった後だったんだ。




