SECT.6 はじまりの終わり
ひそひそと小さな声がした。
眼を開けるほどは覚醒していない。ぼんやりと耳に入る単語を追いかけた。
「3年間も? 国にはまったく報告していないのか?」
「……してないわ。だってもう何十年も前に無くなったと思われていた滅びのコインなのよ? 今さら見つかって、いったいどうするというの?」
「国王はそれを望んでいる」
「私はあの子をそんな世界に入れたくないのよ」
「だが、戦になるのは時間の問題だ。その時グラシャ・ラボラスの力がどれほど切望されると思う? どれほど有効に働くと思う?」
「そういう問題じゃないわ!」
ぴりり、と空気が揺れた。
その声を聞いたことで少し覚醒に近づいて、手をピクリと動かした。
それだけで体のあちこちに痛みが走った。
「ぅ……」
まだ、生きている。
連続で何度も何度も死にそうになって、何度も諦めたけど。
まだ、生きている。
「ラック!」
ずっと聞きたかった声がした。
うっすらと眼を開き、ブロンドを視界の隅に入れてほっとする。
「ねぇ、ちゃん」
「よかった……」
ねえちゃんの顔色が悪い。大丈夫なんだろうか。
「だいじょうぶ? 顔色……あんまりよくないよ?」
そう言うと、ねえちゃんは泣きそうな顔で笑った。
なんで?
「ばかね」
額にひんやりとした手の感触があった。
気持ちいい。
「休みなさい」
「ねぇちゃん」
「なあに?」
「銀色のヒト……見たよ。すごくきれいなヒト……路地裏に落ちてた」
「そう」
「そんでね、壁が壊れてて……怪我してて……」
ああもう自分でも何を言っているのか分からない。
「も一度……会いたい……」
ねえちゃんの顔が悲しそうに歪んだ。
「分かったわ、分かったからラック、今は眠りなさい」
「うん。いっぱい話したいこと……ある……よ……」
意識が深いところへ沈み込んでいく。
ねえちゃんの顔も声も、痛いのも全部遠くなっていく。
波間に漂うようにしてゆっくりと眠りに落ちていった。
どうやら銀髪のヒトは自分を殺さなかったらしい。隣町へ行く途中の森の中、もう使われていない教会に倒れているところをねえちゃんが拾ってきてくれたのだと知った。
これで、ねえちゃんに拾ってもらったのは二回目だ。
戻ってきてからずっとねえちゃんの店の奥、いつも上客が寝泊りする部屋で天井といくつか絵画のかかった壁だけを見ながら寝暮らした。
左腕は相変わらず痛かったし、疲れきった体は動いてくれなかった。
ねえちゃんは一日何回かご飯を運んでくれて、起き上がれない自分に食べさせてくれた。
そんな風に看病してもらうのが嬉しかった。
ねえちゃんが出来る限り傍にいてくれるのが何より幸せだった。
そして何日か経って、やっとベッドの上に起き上がれるまでに回復した。首の後ろは相変わらず突っ張ったけれど、動けないほどの痛みはもうなかった。
そうやって体を起こして、ベッドに並べた椅子に座っているねえちゃんにずっと銀髪のヒトの話を繰り返していた。
「それでね、銀髪のヒトの声がね、すごく綺麗なんだ。低くてすごく澄んでた」
「そう。もう一度聞いたら分かるかしら?」
「うん、忘れてないよ!」
同じ話を何度もしていたと思うが、ねえちゃんは笑って聞いてくれた。
「あのヒトたちにもう一回会いたいんだ」
これもここ何日かの間ねえちゃんに向かって繰り返したセリフだ。
「本当に? あなた、その二人に殺されかけたんでしょう?」
「んーでも会いたい」
それは理屈じゃなかった。
最初に見たときからもうあの銀色のヒトの虜だった。ひどい怪我を負わされても、訳の分からない尋問を受けても、たとえ殺されかけてもそれは揺るがなかった。
あの吸い込まれそうな群青の瞳に魅せられていた。
全身が会いたいと叫んでいた。
「また狙われるわよ?」
「それでも」
よく分からない信念のようなものが自分を後押ししていた。
それは、赤いオーラの銀髪のヒトを見て今までにない強烈なフラッシュバックを体験したせいだったのかもしれない。あれを辿っていくと、過去の自分に起きた出来事を思い出しそうな気がした。そして、自分のやるべきことをちゃんと見つけられそうな気がした。
「もしかすると、あの銀色のヒトはおれの過去とつながっているかもしれないんだ」
すると、ねえちゃんの表情が変わった。何かを決意した顔。少しこわばった表情の裏に見え隠れする感情は哀れみと……微かな絶望だった。
ねえちゃんの口がゆっくりと動く。
「あなたは、自分の過去を知りたいの?」
気まぐれ猫の金目が何もかもを統べる王様の黄金の煌きに変わった。黄金の中に強い意志の光が灯っている。
でも、迷うことなく真直ぐに見つめ返す。
迷う理由なんてどこにもないのだから。
「知りたい!」
「本当の名前も? どこから来て、どんな人生を歩んでいたのかも?」
「うん、もちろん。それから、家族のことも生まれたところも、どんなものが好きで毎日何をしてたのかも」
「それじゃあ」
ねえちゃんはそこでいったん言葉を切った。
躊躇しているみたいに見えた。
「……そのコインの意味も?」
「それが一番知りたい」
ねえちゃんの瞳の中に灯っている意思の光が一瞬揺らいだ。
「銀髪のヒトがこれを破壊するって言った。ロストコインって呼んだ。いったいこれは何?」
またねえちゃんは泣きそうな顔になって、王様の瞳はもとの猫に戻った。
「それを知ったら、もう戻れないのよ?」
「いい。おれは、ねえちゃんがここにいてくれればそれでいい」
本心からそう思った。
ねえちゃんさえいればいい。そうしたら、他に何がなくとも生きていける気がする。
「ばかね」
ねえちゃんは顔をくしゃりと崩して自分を抱きしめた。
「大丈夫、あなたは私が守ってあげるわ」
「ねえちゃん?」
押し当てられたねえちゃんの肩が少しだけ震えていて、きっと自分は初めてねえちゃんが泣くところを見た。
でもその日ねえちゃんはもう自分のところに来なかった。