SECT.11 フラウロス
魔法陣を包む黒い霧が晴れて、周囲の景色が見えてきた。
「暑い……」
最初に思ったのはそれだった。
目の前にはごつごつとした岩場が広がっている。自分よりずっと高く聳え立つ岩がいくつも天を刺すように林立していた。
足元の岩も普通の石と違って黒っぽく表面がでこぼこしている。
少し目線を先にやると、岩のくぼみが赤い液体が沸騰したときのように泡立っていた。赤い沼のようなそれを見つめていると、顔が焼けるように熱かった。
そんな赤い沼はよく見るとあちこちにあり、どこも不気味な音を立てていた。
「フラウロスさん……どこ?」
あたりを見渡してみたが見当たらない。
一歩、足を踏み出した。とにかく暑い。額に大粒の汗が浮かんだ。
ぼこりと不気味な音を立てて赤い液体が泡を吹く。
「魔界にもいろんな所があるんだな」
前回アガレスさんに会ったのは荒涼とした冷たい風が吹き荒れる殺風景な場所だった。
マルコシアスさんが住むのはどんな場所なんだろう?今度聞いてみてもいいかもしれない。
「フラウロスさん!」
呼んでも現れる気配はない。
でも、コインでこの場所に来たのだからこの周辺に必ずフラウロスさんがいるはずだ。
だいじょうぶ、探し物は得意だから。
もうずっと昔のことのように感じるが、探索者として毎日街中を駆け回っていた頃、自分の仕事は違和感を見つけ出すことだった。
感覚を研ぎ澄ます。
視野を広げて、耳を澄まして、肌で空気を感じる。
何か変わっているところはないか?
周囲を見渡してみる。天に向かって飛び出た黒い岩、赤い沼、ごつごつとした岩の転がる大地。
「……」
ふと目の前の赤い沼のようなものが感覚に触れた。
あなたの感覚を信じなさい。
ねえちゃんはよくそう言った。
気にかかったその沼をじっと見つめる。いったい、何がおかしい?他と違うところはどこ?
「見つけた」
そう、泡が出ていない部分がある。
それはほんの一部分だけだけれど、周囲の様子から見て不自然なことは否めなかった。明らかに沼面が穏やかな場所は疑うのに十分だ。
どうして泡が出ていないのか――それはそこに、何かいるから。
「フラウロスさん、いるんでしょ? そこに」
赤く泡をはじかせる沼に向かって言った。
「出てきて。おれ、あなたと契約したいんだ」
返事がない。
そこにいることは絶対間違いないのに。
返事くらいしてくれたっていいじゃん。
「おれ、大切なヒトを探しに行かなくちゃいけないんだ。でも、おれ一人の力じゃ足りない。アガレスさんの力も借りられなくて……」
左手の甲に埋め込まれたコインを隠すように握った。
「お願いだよ、フラウロスさん。せめて……出てきてよ」
「グラシャ・ラボラス……」
沼面が揺らめいた。
まるで陽炎のように立ち上り、真っ赤な塊がぐにゃりと沼から飛び出してきた。
その瞬間に高温の熱風が吹き荒れた。
「うわっ……」
思わず目を閉じる。
おそるおそる開くと、目の前にはオレンジ色に黒の斑点を打った巨大な豹がこちらを睨んでいた。
「フラウロスさんですか?」
アガレスさんに会った時に受けた感じより、むしろラースを目にした時の畏怖に近かった。
震えそうな声を抑えて腹から搾り出した。
「はじめまして、グリモワール国のレメゲトンのラック=グリフィスと言います」
こんなに礼儀正しく挨拶をできたのは初めてかもしれない。
これならねえちゃんに100点をもらえるだろう。
最後に深くお辞儀をして顔を上げると、思ったより近くにフラウロスさんの毛並みがあって驚いた。その体はまるで熱を発しているようだった。直視すると目が焼けそうだ。
「黄金獅子の末裔」
がらがらにしゃがれた声は皮膚の感じる暑さと裏腹に背筋に冷たいものを流し込んだ。
「何故 ラボラス」
その声のトーンは驚きを包有していた。
「ラースと知り合いなの……?」
恐る恐る聞くと、灼熱の毛並みと妖炎の瞳を持つ獣は天を仰いだ。
「名の交換 まさか」
まるで世界の終わりがきたかのような絶望的な声に思わず身震いした。
だめだ、ここでひいちゃだめだ。おれはフラウロスさんと契約してちゃんと無事に帰るんだ。アレイさんと約束したんだから。そして、二人でねえちゃんを探しに行くんだ!
「おれはラースと契約した。この左手はラースがくれたんだ。名前も教えてもらった。すごく綺麗な名前だ。これは……契約の証だ」
コインの埋まった左手甲を見せ付けるように突き出した。
「フラウロスさん、力を貸して。おれは大切な人を探しに行かなくちゃいけないんだ。そのためにはアガレスさんだけじゃだめなんだ!」
「老師父 いけ好かんが あれは強い」
「強いけど……天使さんの前じゃアガレスさんを召還できないんだ、おれは」
「天使」
「そうなんだ、今度の敵は天使さんなんだ」
銀髪のヒトの面影を振り切るように頭をぶんぶんとふった。
刹那、目の前にいる獣から発せられる気配が一変した。
「カマエル」
その響きは地獄の底から這い上がってきた憎しみの色をしていた。
暑さとは違う汗が全身から噴出した。心臓の脈動が早まっている。息をするのがうまくいかなくて、呼吸が荒くなる。
必死で落ち着こうとしたがうまくいかない。
「す、少し違うんだ、カマエルさんじゃなくて、ね、えっと……名前は……」
つっかえつっかえ言葉を発した。
「ミ、ミカエル……」
地獄の業火を宿した瞳がこちらに向けられた瞬間に心臓が止まるかと思った。
が、フラウロスさんは少し発する熱気を弱めた。
治まったのではなく、外に向けて発していた怒りを内面に凝縮させたようで余計に恐ろしさが増した。
内に燃え盛る炎を秘めた灼熱の獣は一言だけ、言った。
「契約を許す」
「?」
何で?
いったいどうして許してくれたのか全く分からなかった。
アガレスさんの時のようになぞなぞに答えられたわけでも、アレイさんの言うように力で屈服させたわけでも、クローセルさんがねえちゃんを気に入っているみたいになったわけでもない。
「何故……?どうしておれと契約してくれるの?」
「いつか会う カマエル 倒す」
「?」
アガレスさんはかえってくる言葉が多すぎるけど、フラウロスさんはちょっと少なすぎるよ。
でもどうやらカマエルさんという天使さんがいることと、フラウロスさんがその天使さんに会いたいんじゃないかということだけがわかった。
「カマエルさんに会いたいの?」
「カマエル 倒す」
「……」
やっぱりフラウロスさんはカマエルさんと会いたいんだ。でも、それは倒したいから――
銀髪のヒトが憎しみをこめた瞳でこちらを見ていた表情を思い出してずきりと胸が痛んだ。あのヒトは自分を殺したくて仕方がないらしい。
いったいどうしてなんだろう?
いや、だめだ、こんなこと考えている場合じゃない。
「フラウロスさん、契約しよう」
腰に差していた小太刀を抜いて、軽く右腕を傷つけた。
そしてすっと右腕を差し出すと、灼熱の獣が近づいてきた。
暑い空気が全身を襲った。同時に――すさまじい恐怖も。逃げそうになる足を必死で留めた。差し出した右手のこぶしをぐっと握る。
右腕の傷口に舌が這う。
「熱っ……」
痛みとは違う感覚が駆け抜けた。銀髪のヒトに傷を抉られた時の感覚にも似ているが、こちらはまるで腕が焼け落ちそうになる感覚だった。そう、むしろラースに左腕を食いちぎられたときのようだ。
しばらくして満足したのかフラウロスさんは自分と少し距離を置いた。
「美味」
獣は舌をぺろりと出して鼻先をなめた。
右腕の切傷は少し焦げたように黒く変色していた。
「左腕一本 なるほど」
天からコインが降ってくる。
契約完了の証だ。
「ありがとう、フラウロスさん」
「カマエル 倒す」
「分かってる。カマエルさんに会ったらすぐフラウロスさんを召還するね。それでいい?」
「許す」
「ミカエルさんと戦う時も呼んでいい?」
「許す」
「ありがとう」
今回ここに来てから初めて笑ったかもしれない。
フラウロスさんは何も返事してくれなくて、目の前をまた暗黒の霧が覆った。




