SECT.13 救出
次の瞬間、おれは後ろから抱きすくめられる。
危害を加えるつもりのないその強い抱擁には、覚えがあった。
「アレイさん!」
「お前は……どこにも行くな、と言ったのをもう忘れたのか?!」
らしくない叱責が、彼の焦燥を伝えていた。
「でも、アレイさんならこの場所を分かってくれると思ったよ」
そう答えると、アレイさんは言葉を失ったようだ。代わりに抱きすくめた腕に力を込めた。
その瞬間、ベルフェゴールの力で囲まれていた空間が、いくらか消失したのを感じる。
「滅びの力……マルコシアスさん?」
「いや、違う」
おれを抱えて、ティファレトから距離を置くように飛び退ったアレイさん。
そして、ティファレトとおれたちの間に立ち塞がったのは、藍色の髪の騎士と、黒髪の少女。
「シド! と、ミーナ?!」
「行ってください、アレイさん。あたしは大丈夫だから!」
そう叫んだミーナの隣に寄り添ったのは、黒いコートを着た悪魔。磨かれた革靴と白い手袋は、伝承にある通りの姿だ。
刻の悪魔メフィストフェレス。
彼は、ファウスト家の末裔ではなく、転生したメフィア=ラスティミナ=ファウストの魂を見つけ出した。
シドに寄り添うように飛ぶのは、小さな黒い狼だ。
「……グラーシャ」
小さな体に、小さな膜翼を広げた悪魔は、おれの記憶にある殺戮と滅びの悪魔に近づいていた。
光の結晶石によって悪魔耐性を高めたシドが契約したうちの一匹。
グラシャ・ラボラスの魂を受けついだ滅びの悪魔。
さっきの気配は、グラーシャの力だったのか。
おれが驚きを隠せぬうち、アレイさんの手によって、その場を離脱させられていた。
思ったよりずっと緊張していたのだろう。離脱した瞬間、ぐらりと視界が揺れた。
そこでようやく気付いた。
いまは、夜だ。
「無理をするな、もう3日も経っている。その間、ずっとベルフェゴールを召喚し続けたんだろう」
3日。
あの不思議な空間で、ティファレトの過去を見ながら3日が経っていたという。過去の幻影の中で、春から夏まで過ごしたのは確かだが。
ベルの空間は、ほとんど崩壊している。
おれはベルフェゴールを魔界に返し、アレイさんに体を預けた。
「大丈夫だ、一度、休め。後は俺たちがやる」
「ダメ、逃がして。おれは、あいつとグライアル平原でもう一度会うって約束したんだ」
「お前は……っ!」
アレイさんの叱責が頭上から降ってくる。
でも、もう意識を保つのが無理だ。
世界で一番安心できる場所で、おれは再び意識を失った。
はっきりと目覚める前に、目覚めそうだと思ったのは、周囲があまりに慌ただしかったからだ。何人かが駆けている足音が響く。
少しずつ覚醒する意識。
断片的に聞こえるのは、『クラウドさん』という名前。
その声音に不穏な空気を感じた。
ズキリと痛む頭を抱え、無理やり体を起こす。寝台に横たえられた体には、丁寧にシーツがかけられていた。
ここは、どこだ?
「ラック」
穏やかな女性の声がする。
アレイさんじゃなかい。
最初にそう思ってしまったおれは、随分失礼だと思う。
起き上がったおれが寝台の隣に見たのは、優しいレメゲトンの女性だった。戦争の前からずっと、戦線に立つおれたちをサポートしてくれた優しい女性。
「ベアトリーチェさん」
「よかった。目が覚めたのですね」
「ここは……? アレイさんは?」
「ここは、商業都市カシオです。ラックは助け出された後、革命軍の先行軍と合流したのです。クロウリー伯爵は、先ほどまでいらっしゃいました。ずっと、貴方が目覚めるのを待っていらっしゃいましたよ。今、少し席を外しているだけです」
そう言えば、夢現に慌ただしい声を聴いたことを思い出した。
それに、ベアトリーチェさんは南の大山脈にある隠れ家にいたはずだ。何故、この場所に。戦場の中心、商業都市カシオに。
「何でベアトリーチェさんが此処に……何かあったの? クラウドさんの名前が何度か聞こえた気がしたんだけど」
そう問うと、ベアトリーチェさんは、顔色を曇らせた。
「ええ、実は……」
そしておれに驚くべき事実を告げた。
それを聞いたおれは、なにを考えるより先に部屋を飛び出していた。
ここは、戦争の時に東の都トロメオの奪還作戦の本拠地と成った商業都市カシオだ。勝手知ったる場所だから、迷わずに駆けた。
ベアトリーチェさんは、ダイアナさんを連れて隠れ家を出て、この前線へやって来たらしい。
どうしても、ダイアナさんが前線に来る必要があったから。
耳をそばだてて目的地の検討を付けた。ダイアナさんの声がする。
廊下を駆け抜ける時に何人ものヒトとすれ違ったが、気にしない。知っている顔もあったかもしれないが、全く気にしなかった。
それよりも何よりも、胸の鼓動が凄まじい速さで耳元に響き渡る。
ダイアナさんの声がする部屋の前で立ち止まる。きっと、ここだ。
息を整える間もなく飛び込んだ。
「クラウドさんっ」
おれを迎えたのは、ダイアナさんとアレイさん、それから――ベッドに横たわる、クラウドさんだった。
瞼は固く閉じられていたが、その胸は規則正しく上下していて、ほっとした。
「気が付いたのか、ラック」
ほっとした表情のアレイさん。
ダイアナさんも、優しく微笑みかけてくれた。何年も経っていたけれど、ダイアナさんはおれの記憶にある通り美しかった。歳をとっても、その上品な佇まいは変わっていない。
「クラウドさんが……倒れた、って」
息を整えながら、途切れ途切れにそう言うが、全身の力が抜けて床に倒れ込んでしまった。
酸素が足りない。運動に耐えるほど、身体が回復しきっていない。此処まで駆けてこられたのが、最後の力だったようだ。
睡眠も食事も休養も、何もかもが不足しているいま、限界だった。
「何をやっているんだ、お前は」
アレイさんが抱き上げて、そのままおれを部屋から追い出そうとしている。
そうはさせるか、とじたばたしようとしたが、どうにもならない。疲れ切った体は意志に追従せず、手の先が少し動いただけだった。
「……クラウドさんは」
「今は大丈夫だ。先ほどまでミーナとマルコが来て騒いでいたんだ。ようやく休んだところだから、静かにしろ。それより、お前は自分の事を何とかしろ」
今は静かに眠っているように見えるし、ダイアナさんもいるから、後でも大丈夫かな。
おれは大人しく、部屋から連れ出された。
アレイさんの顔は険しかった。
これは、不機嫌さじゃない。不安と焦燥が彼を蝕んでいる。
胸が騒ぐ。
最悪の事態が過ぎる。
「クラウドさん、どうしたの……?」
「……お前に隠しても仕方ないな」
頭痛がひどい。
疲れのせいなのか、食事をとっていないせいなのか、それとも他の何かが原因なのか、全く分からなかったが。
不安が押し寄せるのに合わせて頭痛が波のように押し寄せる。
おれは、アレイさんの次の言葉を待った。
とても言葉を選んでいるようだった。
永遠にも思える沈黙に、歯の根が合わなくなった。
アレイさんはおれを落ち着かせるように髪を撫で、決心したように口を開いた。
「義兄上は、体調を崩した。原因は、俺の母親と同じだ」
アレイさんの母親。
その話は聞いたことがある。
悪魔耐性の不足していた母は、アレイさん自身の悪魔の毒気にあてられ、亡くなった、と――
まさか。
おれは紫水晶の瞳を見上げた。
「義兄上の身体は、悪魔の気に蝕まれている。もう、手遅れなほどに」




