SECT.3 風の大地
見渡す限りの灰色の大地。その果てる先は、夜明けの空を逆に回すように徐々に闇へと落ちていく。空は灰色、果ては闇。大地の色も暗灰色。
彩度のない世界に、悪魔だけが色を持つ。
「リュシフェル、魔界にもっといろんなものを作ったりしないの? 例えば、植物とか、太陽とか、月とか」
そう言うと、隣を飛ぶ彼は首を傾げた。
「それは、魔界に必要でしょうか?」
「うん。だって、太陽や月がないと一日がわかんないよ。それに、魔界は殺風景すぎて楽しくないからもっと華やかになったほうがいいと思う」
そう主張したが、どうやらリュシフェルには響かなかったようだ。
少し首を傾げた後、ルークに任せます、と言われた。
あんまり興味がないみたいだ。
風の大地は、豪風で荒れていた。気を抜くと、吹き飛ばされてしまいそうだ。
が、リュシフェルがふっと指で円を描くと、風の気配が遮断された。おれたちの周囲だけ、風が避けて行っているようだ。
イポスは、風が止んだのを喜び、一生懸命スケッチブックに筆を走らせていた。ちらりとのぞくと、かなり精巧な俯瞰図を描いているようだった。
「ねえ、るーく。地図ってこんな絵でいいの?」
「うん。あとは、平面になってる図が欲しいなあ」
そう言うと、イポスはスケッチブックを一枚めくり、真上から見た地上のスケッチを追加していった。次々に描かれていくソレらは非常に正確だ。
時折、画家の真似をして筆を縦にし、片目をつぶって遠くを見ながら。
あっという間に風の大地の地図を描き上げてしまった。あとは、少し降りて、詳細を描き加えれば十分だろう。
「すごいな、イポス。おまえは絵が上手なんだね!」
褒めてやると、スケッチブックに半分顔を隠しながら、照れた。
可愛いなあ。
「一度、風の幕の下へ降りてみましょう」
リュシフェルに導かれ、おれたちは風の大地へと降りて行った。
地面近くは、上空ほど荒れていない。確かに吹き荒ぶ風は痛いほどに肌を刺すが、吹き飛ばされてしまいそうなほどの風ではなかった。
この大地も、他の魔界と同じように灰色の石がごろごろと転がっているだけだ。なんて殺風景なんだろう。もっと、起伏にとんだ地形にして、川が流れるようにして、それから植物も植えて。
やりたいことはたくさんあるなあ。
妄想の中で大地をこねくり回していると、不意に目の前の旋風がみるみる収束していった。小さく回転する木枯らしのような旋風は、ぱん、と弾けて悪魔の形になった。
「ハルファス」
「ひゃははは! 人間界から、よく来たな!! 歓迎するぞ!」
アレイさんが契約している、風の悪魔だった。
見慣れたその姿に、おれも思わず笑い返す。
「歓迎してくれて嬉しいよ。よろしくね、ハルファス」
ハルファスはもともと、それほど人間に友好的でない悪魔だと言うが、アレイさんが契約した影響なのか、かなり人間に対して興味を持ってくれるようになっていた。
そう、人間に友好的でない悪魔の多くは、ただ単純にヒトと接する機会に恵まれず、興味を持っていないだけだった。強大な力を持つが故、対等の関係とは思わず、簡単に破壊されてしまうヒトを見下してしまっていただけだ。
人間の事をよく知れば、存外、友好的になる悪魔は多い。
さらにいうなら、悪魔たちはみな、良くも悪くも素直だった。少し機嫌が悪いだけで力をふるう。それはまるで、子供が暴れるように。
人間は、悪魔に比べて酷く脆い。ただ少し暴れただけで壊れてしまう相手に対して何かを思う事なんてなかなか出来ない。
ヒトであり、悪魔であるおれは、アレイさんは、その認識を少しずつ正していく必要があった。
ハルファスやフラウロスは、そうやって人間に対する認識を変えられた成功例だと思う。
「いつもアレイさんの事を助けてくれて、ありがとう。これからもずっと、助けてくれる?」
そう言うと、ハルファスは楽しそうに笑った。
「いいぞ! 俺はあいつ、好きだからな!」
おれの大切なヒトが好きだと言われるとくすぐったいけれどとても嬉しい。
「ハルファスはさ、何でアレイさんが好きなの?」
「ふひひひ! あいつは強いからな!! 俺と遊んでくれるから、好きだ!」
「……そうか」
おれたちが悪魔と同じ目線に立つには、まず悪魔と比肩する力を手に入れるしかない。
ハルファスもそうだが、契約の際にヒトを殺してしまう悪魔は非常に多い。それは、わざとではなく、その程度の力がないと、まず会話をすることも難しいという意味だ。
ヒトは悪魔の恩恵を受けるため、常に悪魔と同等の力を持てるよう研鑽し続けるしかない。
「おれも強くなるからさ、今度はおれとも遊んでよ」
「いいぞ!」
ハルファスは嬉しそうに笑って、くるくると空中を飛び回った。
「今からか? 今からか?」
どこに隠し持っていたのか、アレイさんの持つ剣と似た長剣を手にしていた。
そして、おれの返答を待つ前に、ハルファスが剣を閃かせて跳びかかってきた。
だから、悪魔は性急なのだ。
気分で動いているし、こちらの感情など考えもしないし、楽しければそれでいいと思っているし、気分を害せば切り捨てる。
おれは咄嗟にショートソードを抜こうとして、手が空を切る。
しまった、魔界へ落ちる時にどこかへ落としてしまった。
「ルーク!」
リュシフェルが慌てて止めようとしたが、制する。
「だいじょうぶ、ちょっと遊ぶだけだから……リュシフェル、両手剣が欲しい!」
おれの叫びで、リュシフェルはすぐにいつものショートソードによく似た剣をおれの手の内に生成した。さすがは創造の力を持つ悪魔だ。
ありがとう、と叫んで、すぐにハルファスへ向き直った。
その瞬間、刃が上から覆いかぶさってくる。
「くっ……」
早く重いその一撃を、両手の剣をクロスして受け止めた。
押し問答で負けそうになるが、地面についた足を突っ張って全力で真正面から受け止める。
「ひひひ! よく受けたな!」
「アレイさんに負けるわけにはいかないもんね!」
ハルファスと契約したのは、戦争前のアレイさんだ。あの時の彼と、同じくらい強くなっているとは思わないが、ここが魔界だというのなら、『魔力』を集めて身体能力を少し暗いは向上させる事が可能なはずだ。
おれの伴侶で、毎日手合せをしていたおれの師匠。
あの悪魔騎士に、少しでも近づくために。
周囲の魔力の奔流を感じる。
風の大地、とはよく呼んだもので、この付近の風はほとんどが緑色、『風』の魔力だった。
全身に魔力を巡らせる。
風の魔力で体が軽くなり、足がふわりと地面から浮いた。
現世界とは『魔力』の濃さが全く違う。魔力の渦巻く魔界で、身体を浮かせる程度の力を集めるのは簡単だった。
今なら使えるかもしれない。
悪魔の加護を得ずに、自分の身だけで空中剣技『風燕』を発動できるかもしれない。
「じゃあ、ハルファス。おれと戦って楽しかったら、おれのお願いを聞いてくれる?」
そう言いながらにっとわらって構えると、ハルファスも笑って答えた。
「ひゃははは! いいぞ!! いいぞ! 俺が、楽しかったらな!」
いつも楽しそうな少年悪魔は、まるでアレイさんの真似をするように左手で剣を構える。にやにやと笑っているところを見ると、わざとだろう。
第38番目、戦の悪魔ハルファス。
彼は、戦いの中に遊びを混ぜてくる。本当に、戦う事が好きなのだろう。契約者を切り捨てたい訳でなく、楽しく戦いたいだけなのだ。
「いくぞ、ハルファス」
次の瞬間、おれは空を駆けた。




