SECT.7 幸せな生活
ウォルと二人で暮らすようになるまでそう時間はかからなかった。彼が夜の仕事をやめたからだ。どうやら雇主と少しだけもめたようだったが、そんなことウォルはおくびにも出さなかった。
あの日以来少しよそよそしくなってしまったリッドは、完成したクラウドさんの剣術道場に通い始めた。
「リッド君は筋がいい。すぐに上達するよ」
何度か道場に顔を出したが、稽古を見ていると過去の傷が疼く。
すぐに出入りするのをやめてしまった。
冬になる頃には常にウォルと時間を過ごすようになっていた。
まるでこれまでの分を取り戻すかのように常に触れていたかった。声を聞いていたかった。名を呼んで、優しく撫でて欲しかった。
ウォルの声も手もこの上ないくらいに優しい。
「いつか、自分で店を持とうと思う。今度は昼、酒は出さずに料理だけで」
「本当?」
「ああ。お前が前で作っている野菜も使おう。ウェイターにリッドを雇いたいな」
「ふふ、楽しそう」
たくさんの夢を見た。幸せな世界。自分を傷つけようとするものはなく、愛しいヒトの腕に抱かれて。
同じ傷を持つ彼の前では傷を隠す必要もない。
とても幸せな日々だった。
そしてある日、ダイアナさんの家で、リッドも混ぜて5人分の夕飯の支度をしている最中にふと気分が悪くなった。
こみ上げる吐き気にその場から駆け去る。
「グレイス?」
ひととおり食べた物を戻して息を整えた。
何だろう。変なものでも食べただろうか。
そう思っていると、ダイアナさんはひそひそ、と耳元で囁いた。
「もしかして……」
その質問にびっくりする。
「そうだけど……どうしてわかったの?」
肯定すると、ダイアナさんはぎゅっと抱きついてきた。
困惑した。
が、すぐにダイアナさんの声が耳元に響いた。
「おめでとう、グレイス。それはあなたとウォルジェンガの――」
とても不思議だった。自分の中にもうひとつ命が宿っているということが。
ダイアナさんがすぐにウォルを呼んできた。
息を乱した彼は、椅子に座っていた自分のもとに跪いた。
「……ウォル」
見下ろした紫水晶は困惑していた。もちろん自分だってびっくりしている。
両手をお腹にあてて、ゆっくり撫でてみた。ウォルの手をとってそれに重ねる。
「ね、信じられないよ。ここに、わたしとウォルの子供がいるんだって」
「グレイス……」
気を利かせたのか、いつの間にかダイアナさんの姿が消えていた。
「どうしよう、すごく嬉しいんだ」
何故だろう。泣きたいくらいに嬉しい。
愛するヒトと自分の想いが通じた証拠。新しい命の芽生え。
紫の瞳が優しく微笑む。
「ありがとう、グレイス……俺も嬉しい。お前に会えてよかった」
「ウォル……」
そこで、ウォルはいったん視線を逸らした。
かすかに頬が赤い気がするのは気のせいなんだろうか。
「……まだ言っていなかったな」
ぼそり、とそう呟くと、そっと耳元に唇を寄せた。
深いバリトンが耳元で響く。
「愛している、グレイス……結婚しよう」
驚いて目を大きくしていると、紫水晶を包有した切れ長の目が覗き込んだ。
優しい瞳。真っ直ぐな思いを込めた、澄んだ瞳。
頬を涙が伝う。
「うん……する」
涙でぐちゃぐちゃになって笑えなかった。
それでも、優しく包んでくれた腕はとても温かくて優しくて、自分は心の底から安心することが出来たんだ。
愛するヒトが隣にいて笑ってくれる。
ただそれだけで何でこんなにも幸せなんだろう。
仕立て屋のマリー姉さんが自分のためにウェディングドレスを作ってくれた。
式の一週間前には出来上がっていたそれは、春らしい花をモチーフにした純白のドレスだった。自分で着るのがもったいないくらいのそのドレスを手にして、もう一度実感がわいてきた。
自分は、ウォルと結婚するんだ。
もう一生離れないんだ。
この子供を――育てるんだ。
「ああ、本当に幸せそうね! 見ているこっちまで幸せよ!」
「ありがとう、マリー姉さん。すごく……きれい!」
「あなたの美しさに負けないように腕によりをかけたんだから」
パチリとウィンクしたマリー姉さんも昨秋に結婚したばかりだった。
「お腹はまだ目立たないみたいね。よかった。採寸し直しなんて私、いやよ」
「うん、もうちょっとしたら目立ってくるって。生まれるのは夏の終わりか秋ぐらいだって言われたよ」
「ふふ、楽しみね。あなたとロータスさんの子ならきっと奇麗な子でしょうね」
「元気に育つといいな」
楽しみでしかたなかった。
だって自分の先には幸せなことしか待っていなかったから。もう少しでウォルは新しい店を持つことも決まっていた。
未来がこんなに待ち遠しいなんてしらなかった。
快晴の春、街の中央広場でみんなが盛大に式を開いてくれた。
「おめでとう、グレイス、ウォルジェンガ」
目の前のダイアナさんは大粒の涙をこぼしている。隣にいたクラウドさんも心なしか瞳を潤ませていた。
集まった観衆から祝福が飛ぶ。
ひととおりみんなに手を振ってから紫の瞳を見上げた。
「これからはずっと一緒だね、ウォル」
「これからも、の間違いだ」
ウォルはそう訂正してからわたしの体を軽々と抱き上げた。
紫の瞳が近づいてどきりとする。
「愛している……グレイス」
耳元に深いバリトンが響く。
何度も何度も繰り返す言葉。それでも何度も何度も囁いてほしいと思う。
「わたしもだよ、ウォル」
もう過去の傷は痛まなかった。
温かい春の風に包まれて、優しい人々に囲まれて、愛しいヒトに触れられて。
もうこれ以上望むものなど何もなかった。
きっとこれは過去の自分がずっと求めていた世界。祈ってやまない、しかし手に入らなかった穏やかな生活。
この時自分は21歳、ウォルは27歳。普通のヒトが当たり前に享受する幸せを全身で感じながら。
過去の傷を少しずつ封印していった。




