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驚嘆の森

 鬱蒼と茂る木々は手入れされた庭の植木とは違い、天を覆いつくして日の光を通さない。昼だというのに薄暗く、不気味なほど冷えた空気に怖気付く。降り積もる枯葉は露で濡れ、隠れた木の根に何度も足をすくわれそうになった。


 セシルはドレスの裾を汚さぬようにたくし上げ、一歩ずつ慎重に進む。


(本当に、こんなところにひとが……?)


 どこまでも続く暗鬱の森は静寂に包まれ、とてもひとの気配など感じられない。ただ時折吹く風がざわりと高い枝を揺らし、そのたびにセシルは驚き身をすくめた。注意深く、四方八方に目を凝らす。


 森の中は不思議なものが数多く存在した。あれほど豊かに満ちあふれた城でさえ見たことのないものばかり。


 奇妙な形のシダの葉に、毒々しい色の果実、それを狙う小さな獣は大きな瞳でセシルを見つめ、敵かどうかと首をかしげる。湾曲した大木に絡み付く蔓をまるで今にも襲いかかろうとする蛇と見間違えて息を呑み、可憐な小花に気づくとほっと顔をほころばせた。


 ここは、生命の宝物で満たされている。


 もとより城外の危険や恐怖を知らぬセシルは、次第に緊張を解き、頬を紅潮させた。好奇心が前へ前へと進ませる。


 美しい鳥の鳴き声、澄んだせせらぎには小魚が群れ、木漏れ日は大広間のシャンデリアよりもまぶしい。ひとが暮らすのは難しくとも、強い竜にとっては心地よい住処なのかもしれない。


 見てみたい。


 背に乗ってみたい。


 夢で見たように、高く、遠く、連れていってくれるだろうか。


 心弾ませ、低い藪をかき分けさらに奥へ。


 がさり。


 突然、森が開けた。


 あれほど厚く木々に隠されていた空が広がり、午後の日差しがセシルの瞳の奥を刺激する。驚いて目を閉じ顔を伏せた。何が起きたのかわからずに、じっと耳をすませるセシルの頬を、優しい風がさらりと撫でる。


 おそるおそる顔を上げ、目を慣らし、よく周囲を確認して、再びセシルは驚いた。


 光差す緑の中にたたずむ一人の男。白に近い銀色の髪に、不思議な銀灰色の瞳、一見しただけでは若いのか年寄りなのかわからない。背筋が伸び、シャツの袖から覗く腕は細いながらも筋肉がしっかりと付いているので、おそらくは若者だろう。


 はたしてこの男は、人間なのか。


 さらには彼を囲むようにして並ぶ巨大な岩……否、それらはゆったりとした動作で男の手から餌を食む。馬のような長い顔、猫の瞳、蜥蜴の鱗で全身を守り、鋭い牙と角がなんとも恐ろしい。背には一対の翼があり、今は行儀よく閉じられている。


 セシルはその大きな青い瞳をいっぱいに開き、男と巨体たちとを交互に見比べた。


「……森の竜と……竜使い」


 ため息まじりにつぶやく。まさか実在したとは。胸をときめかせ、さらに近くへと歩み寄った。


 しかし男は一瞥しただけで表情も変えず、また竜たちの方へ向き直る。


「……帰れ」


 どうやら人間嫌いの噂は本当らしく、低く冷たい声がセシルを拒絶した。


 おもしろい。王族にこの態度、礼儀を知らぬ田舎者め。


 セシルはやれやれと肩をすくめ、手を差し出しほほ笑みかけてやった。さあ、かしずくがいい。


「無礼者。私を誰だと思っている。わざわざ来てやったというのに、茶も出さぬのか」


 それでも男はさも迷惑そうに顔をしかめるばかりで、セシルと目を合わせようともせず早口に言い放った。


「帰れ。茶が飲みたければ茶店に行け」


 なんと憐れな。慈悲深いセシルはほほ笑みを絶やさず、この気の毒な男の隣に並んだ。


「茶を飲みにきたのではない。私は竜に乗りにきたのだ」


 間近で見る竜たちはまさに迫力の大きさで、首が痛くなるほど上を向いてめまいを起こす。


 男はその様子にふんと鼻を鳴らし、意地悪く笑った。


「あんたなんかが触れたら一口で食われるぞ、お姫様」


 それに同調するように竜たちは咆哮を上げ、セシルを威嚇する。


 大地が揺れ、木々はざわめき、雷鳴がとどろく。


 さすがのセシルも怖れをなし、うっすらと涙を浮かべて俯いた。


 男はうんざりとため息をつく。これだから人間との付き合いは嫌いなのだ。面倒くさい。


 静かに銀灰色の瞳を向け、しばしセシルを見つめて何やら考え込む。そしてもう一度ため息をついた。


「……あんたが髪を切り、ドレスを脱ぎ捨てたら乗せてやる」


 あわててセシルは美しい金髪を押さえ、首を振った。


 無礼者!


 無礼者!


 無礼者!


 もはやドレスのすそなど気にしていられなかった。来るときにはあれほど慎重に進んだ道なき道を、乱暴に藪をかき分け落ち葉を踏み荒らして戻る。怒りに我を忘れ、もはや森の生き物たちなど目に入らない。一刻も早く、こんな場所は立ち去りたかった。


 何度も木の根につまずき、湿った草に足をすべらせる。思わずつかんだ小枝のとげが、セシルの白い手を容赦なく傷つけた。どっと疲労感が押し寄せ、次第に歩が止まりがちになる。


 ただ竜の背に乗りたかっただけなのに。


 涙が一粒こぼれると、言葉にならない感情が次から次へとあふれた。くじいた足首がしくしくと痛む。悔しくて、みじめで、胸が押しつぶされそうだ。


 頭上の木々をざわつかせる風さえ、セシルを森から追い出そうとしているのか。


 セシルは初めて歓迎されていないことを知り、とうとうその場に伏して泣き出した。


 こんなことになるならば、つまらないなどと言わず茶会に出席し、いつものように笑っていればよかった。乱れた髪と、かぎ裂きだらけになったドレスの言い訳を考えなければ。


 やはり小鳥は小鳥らしく、鳥かごでおとなしくしていればいいのだ。


「姫様……!」


 セシルははっと顔を上げた。


 まさか、そんな。注意深くあたりを見回す。かすかに聞こえた懐かしい声。急いで涙をぬぐい、立ち上がった。


「姫様!」


 今度はたしかに、はっきりと聞こえた。


「……アンナ?」


 呼びかけに応じるように前方の低木が揺れ、髪を振り乱して駆け寄ってきたのは、侍女のアンナ・セネットだった。


 アンナは転がるように足元に平伏し、肩を震わせ声をつまらせる。


「ご無事で、ご無事で……!」


 どれほど森の中を迷走したのだろう、顔や手足の傷はセシルのそれとは比べ物にならず、服は泥とほつれでひどい有様だ。なりふりなど構わず、ただセシルの身を案じて必死に探し回っていたのがよくわかる。


「わ、私が、余計なことを……申し上げ、た、ばかりに……!」


 アンナのせいではないのに。セシルは胸のあたりが苦しくなるのを感じた。不用意な行動のせいで、気の良い侍女が自責の念に駆られている。


「……すまぬ」


 そっと肩に触れ、顔を上げさせた。泣きはらした目、いつもの朗らかなほほ笑みは影もなく。


 おまえのせいではない、見つけてくれてありがとう、と言いたかったのだが、その前に別の小枝が揺れた。


「こんなところにおいででしたか」


 金色の巻き毛をかき上げ安堵の息をつくのは、騎士団長ライナス・アルフ・コンラッドだった。無理にほほ笑んでみせるが、やはり疲労の色は隠せない。


 遅れてきた少年兵コーザは、変わり果てた恋人の姿に目を見張る。ライナスに促され、アンナを助け起こした。


「大丈夫か?」


「わ、私のことはいいの。姫様を……!」


 この期に及んでなおセシル姫を案じる忠誠心に、ライナスは感心する。


「よく姫を見つけ出してくれたな。疲れただろう、先に戻って休むといい」


 優しくねぎらいの言葉をかけてやっても、頑なにセシルの側を離れようとしない。それどころか、瞳いっぱいに涙を浮かべてライナスに懇願した。


「あの、ライナス様、どうか……!」


「ん、安心しなさい。姫を叱ったりしないよ」


 それを聞いてようやくアンナはほっと胸を撫でおろし、コーザに支えられて森を後にした。


「……すまぬ……心配をかけた」


 セシルは力なくうなだれる。汚れた顔も、裂けたドレスも見られたくなかった。


 約束通りライナスはセシルをとがめず、レースのハンカチを取り出し、青ざめた頬を優しく撫でて涙と埃を拭う。震える肩に気付き、マントを脱いでそっとかけてやった。


「失礼」


 抱き上げると、セシルはおとなしく体重を預けてきた。伝わる温もりが心を落ち着ける。


「またおでかけになるときには、ぜひ私もお誘いください」


 触れる巻き毛がくすぐったくて、セシルは静かに瞳を閉じた。


 もう二度と、一人で城の外を歩くことはないだろう。


 森の入口では、青ざめた顔の大臣や兵士たちが揃って待っていた。


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