最強の竜
ついに城壁の間近に到達したガァラ軍は、不気味なほど整然とした動きで陣を展開する。威嚇のつもりか、重機が火を噴き砲弾が一発撃ち込まれた。
押し寄せる悪意、敵意、殺意。
だが、恐くはない。
風に踊る髪を押さえ、セシルは竜使いの横顔を見つめた。なんと頼もしい。
「なぜ、ここへ?」
彼はふんと鼻を鳴らしてそっぽ向く。
「あんたが何も言わずに出ていくから。こいつらが行くぞと急かしたんだ。茶を飲む暇もなかった」
そう言いながら、肩を抱く力が強くなる。頬が熱い。きっと、赤くなっているだろう。
竜使いは意地悪く笑った。
「まあ、いいさ。あの綺麗な王様から、あんたを奪ったのは気持ちが良かった」
「それでは、まるで悪役ではないか」
こんな緊迫した状況で、冗談さえ言える。セシルの心は楽しく弾んでいた。
「……来てくれて、嬉しい」
シャツをきゅっと掴み、潤んだ瞳で見上げる仕種がたまらなく愛しかった。喉の渇きも空腹も忘れてしまう。こんなに惚れていたのかと、改めて思った。
「さあ、こんな用事はさっさと済ませて、帰ってうまい茶を淹れよう」
竜使いは声を張り上げ、竜たちに命じた。
一番竜は竜使いとセシルを背に乗せたまま、敵の頭上すれすれまで急降下する。突然の襲撃に驚き、陣形が崩れた。
二番竜は地を踏み鳴らし、大地を揺るがす。
三番竜が闇で敵どもを包み込み、四番竜が稲妻で目を眩ませると、いよいよ大混乱に陥った。
五番竜が火を吐けば獣たちが震え上がり、六番竜の氷の刃が逃げ惑う敵兵を追い詰める。
七番竜と八番竜が力を合わせて大河の水を巻き上げ、豪雨のように降らせると、ついに彼らは戦意をなくした。
圧勝かと思えた。
『怯むな、我が兵よ!』
銅鑼が鳴り、雷鳴のごとき怒号が響く。
あの蛮族の王が、後方より戦況を見据えていた。まだ負けの色はない。獣の瞳はぎらぎらと輝きを増す。
再び重機が火を噴き、暗灰色の煙が充満した。
敵兵たちから表情が消え、まるで操り人形のように一糸乱れぬ動きで城壁を登りはじめる。
アディンセル兵も火矢を放って応戦するが、奴らに恐怖心はないのか、怯むどころかますます激しい憎悪が向けられた。
「そんな……」
九番竜、アンナの力を解き放つ機会を失い、セシルは愕然とする。これほど強い暗示に、アンナの力は勝てるのか。
「エノーラ」
耳元に息がかかる。驚いて耳を押さえ、振り向いた。くちびるが、触れそうなほど近い。
「な、な、何だ、突然……!」
セシルは顔から火が出るかと思った。腕から逃れようともがくと、彼はさらに強く抱きしめ、不思議な銀灰色の瞳で見つめた。
「あんた、国やアディンセルの名を捨てて、俺と暮らす覚悟はあるか?」
「な……」
何を、いまさら。
ライナスに全権を譲ったのを見ていなかったのか。それは彼と交渉するのともう一つ、これよりは竜の森で暮らそうと決めたからだ。
竜使いはさらに迫る。
「嫌だって言うなら、次は当てろと竜たちに命じるぞ」
敵軍の方を指差すと、旋回しながら様子をうかがっていた竜たちが一斉に向きを変え、戦闘体勢になった。稲妻が空を裂き、轟く雷鳴がガァラの銅鑼の音をうち消す。
セシルは息を呑んだ。
「そ……それは、脅しではないか!」
愛の告白かと思えば、なんと卑怯な。セシルは激昂し、竜使いの胸を突き飛ばして強く言い放った。
「私は、誰も傷付かないことを願っている! アディンセルの者も、ガァラの者も。皆が仲良く暮らせる国にしたいのだ!」
竜使いはほほ笑む。
アンナがみゅ、みゅ、と鳴き、大きな欠伸をこぼした。
空に、虹がかかる。
七色の光は優しく、穏やかに、見上げた全ての者の頭上に降り注ぎ、心と心をつないだ。
温かいものが、込み上げてくる。
隣人を愛さずにいられなかった。
「俺と暮らそう」
「……アンナの力で迷ったか?」
セシルの大きな瞳が涙に揺れる。
争いは終わった。
我に返ったガァラの兵は、ここはどこだと辺りを見回す。手にした恐ろしい武器に驚き、投げ捨てた。
獣たちは竜とともに水浴びし、戯れる。
あの狂気の王さえ地に平伏して、涙ながらに己が罪を告白し、悔い改めた。
「俺にアンナの力は効かないと言っただろ」
竜使いとセシルを乗せた大きな竜は、歓声を上げる人々の頭上を一周し、やがて北へ進路を向けた。
あの幼い少女たちが、ちぎれそうなほど手を振り、声の限り二人への感謝の言葉を叫んでいる。人々は諸手を挙げて竜使いとセシルを讃え、そして若い王は彼らの幸福を祈った。
「俺は、最初からあんたに惚れていたからな」
緑の風が火照った頬に心地良い。
おかえり、と二人を迎えた。
「名前を……」
竜使いは目をそらして頭をかく。そして覚悟を決めて、耳元にくちづけた。
「愛してる、エノーラ」