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待望の力

 やわらかい日差しが心地良くまぶたを刺激する。うっすらと目を開けると、そこは見慣れた木目の天井、森の緑の香りがかすかに鼻孔をくすぐる。日差しは部屋の奥深くまで入り込み、やがて全てを橙に染めていった。

「私は……」

 起き上がり、ゆっくり記憶をたどる。胸を打つ鼓動が早くなりそうで、落ち着け、落ち着けと繰り返す。

 そうだ、懐こい竜に促され、彼の背に乗り、空を飛んだのだ。少しだけ怖いと思ったが、それよりも祖国アディンセルの美しさに感動した。かつて夢で見たままに、豊かな自然に守られた美しい国。

 なのに、人々はそれを破壊した。なんと愚かな。

 破壊された街で、じっとうずくまる人々を見た。心まで荒み、傷付け合う人々を見た。なぜ、同じ人間同士、助け合えない。

 セシルはベッドから降り、窓辺に立つ。沈みゆく日はいついかなる時も変わりはしないのに。ひとの心もかように確固たるものであれば。

 目を閉じ、自分の心を確かめる。

 私の心は変わっていない。

 枕元で規則正しく脈打つ竜の卵をそっと撫でた。

「どんな竜になるか、見たかった」

 笑おうとしたが、うまくできなかった。

 仕切りをめくると、やはり夕日に包まれて竜使いがテーブルに肘をつき、珍しくこんな時間から果実酒をすすりながら退屈そうに豆のさやをはずしている。今から煮込んでも、きっと夕食のスープには芯が残るだろうに。

「……顔を洗ってくる」

「ああ」

 彼が目を合わせないのはいつものこと。この泣きはらした顔を見られたくはないから、ちょうどいい。

 夕焼け色はあの日を思い出す。城を、街を、焼き尽くした炎。赤銅色の肌に、烈火の髪と瞳を持つ蛮族ども。赤い色は好きではない。

 なのに、なぜ優しく泣き顔を隠してくれるのだろう。そう、この目が赤いのは、夕日のせい。

 がさりと茂みが揺れ、振り返る。後ろを歩いていた風の小竜は、慌てて木々の間に隠れようとした。セシルはほほ笑む。

「おいで、ユイット」

 小竜は怖ず怖ずと顔を向け、様子をうかがう。セシルが怒っていないとわかると、急いで走り寄ってきた。

《ごめんね、ごめんね、セシル。怖いめにあわせて。嫌なものを見せて》

 甘えた子犬のように鼻先をすり寄せる。セシルはそれを愛しみ、優しく撫でてやった。

「ありがとう、ユイット。私は大丈夫」

 小竜はじっとセシルの顔を見つめた。丸い瞳が悲しみに揺れる。別れを予感しているのか。

《あのね、金の巻き毛のひとは、カトルとスィスがちゃんと守ったよ。赤い髪のやつらを追い払ったって》

 セシルはうなずく。そしてすまなそうに眉をひそめた。

「竜の存在が、ライナスとガァラの者に知れてしまった」

 きっと彼らは竜の力を欲し、この森に攻め入るだろう。この平和で美しい森を、アディンセルの二の舞にさせるものか。

《……ここを、出ていくの?》

 言葉が見つからず、代わりに小竜の鼻筋にくちづけた。

 小竜はあわてふためく。竜が照れたりするのかとおかしくて、セシルは笑った。

「私は、この森を人間の手で壊したくない。だから、それを止めるために一度城に戻る」

 彼女がこの森に住むようになり、初めて見せる穏やかな笑顔。迷いがなく、瞳の奥には強い意志が宿る。

《また、戻ってくるよね?》

 できることならば。

 そして、あのひとが許してくれるならば。

 もし戻ってこられたなら、その時こそ正直な気持ちを打ち明けよう。

《セシル、さがって》

 不意に、風の小竜が翼を広げた。セシルをかばうように前に出る。

 彼が睨みつける方向の草木が揺れた。

 セシルは顔を強張らせ、息を呑む。嫌な汗が吹き出し、胸が苦しくなった。

 いつの間にか集まった他の竜たちも、セシルとユイットを守るように並んだ。

 草木を掻き分けセシルたちの前に現れたのは、あの赤銅色の肌に燃える赤毛と赤瞳……憎い、蛮族!

 全身が震えた。吐き気さえ覚える。

 竜たちは姿勢を低く構え、いつでも攻撃できるように備えた。

《セシル、あれは敵だよね! どうする、追い払う?》

 竜の声はセシルに届かない。心をどろどろとした憎しみが支配する。

 足元の石を拾い、投げ付けようとして、しかし手を止めた。

 蛮族の男はその場に崩れ、ひゅうひゅうと喉を鳴らして何かつぶやく。言葉などわからない。わかりたくもない。

 冷たい瞳で見下ろした。

 男は震える手をセシルの方へ伸ばし、懸命に訴える。その顔に残忍さの影はなく、ただ弱々しく命ごいをしているように見えた。

 背に、深い刀傷があるのだ。

 まだ新しい傷からは次々と血が溢れ、その血が赤いせいでセシルは戸惑った。赤い色は、彼女の心をひどく混乱させる。

《セシル、セシル! あいつのことは僕らに任せて、早く小屋に入って!》

 だが、セシルは動かない。動けない。

 足元に転がる男の言葉は次第に途切れがちになり、ついには伸ばした手が地に落ちる。その瞳から溢れるのはもしや涙か。

 セシルは奥歯をきつく噛んだ。

 民族は違えど、この男も人間。赤い血を流し、涙を流す人間なのだ。

 愛する者、この男を愛する者がいるかもしれない。

 セシルの手から力が抜け、握りしめた石が転がり落ちた。

 踵を返し、小屋に戻る。

 無言のままに戸棚の奥から薬箱を取り出し、庭に戻ろうとするのを竜使いが止めた。腕を組み、けだるげに扉にもたれかかり、行く手を阻む。

「なぜ、あれを助ける?」

「退け。私は鬼畜生になるつもりはない」

 仇は河南の地にてほくそ笑む、蛮族の長とその兵士。手負いの男ではない。

「逃がせば、あんたが追われることになるぞ」

「その前にここを出る。これ以上おまえたちに迷惑はかけない」

 竜使いはため息をついた。

「次にあいつが、仇の奴らと共に刃を向けた時、あんたは戦えるかい?」

 胸がどくりと鳴る。

「い、今は、そんな話をしている場合ではない。さあ、退け」

 それでも竜使いは扉を塞いだまま、じっとセシルを見つめる。

「きっと、あんたは戦えない」

 そう言ってふと口元を緩め、セシルの手から薬箱を奪って外へ出た。

 セシルは膝を落とす。両の目から止め処なく涙が溢れた。

「私は……私は……」

 誓ったはずなのに。

 父と、母と、友と、私のために命を落とした全ての者の仇を討つと。

 憎い蛮族どもを討ち滅ぼし、美しい国を取り戻すと。

 だが、もう討てない。本当の仇を前にしても、この手で殺めることなどできはしない。

 他者を愛することを知ってしまったから。

 アディンセルの者も、ガァラの者も、誰もが争わず、憎まず、愛し合って暮らすことを望んでしまったから……!


  ……コツ、コツ

  ……コツ、コツ


 聞き慣れない音が部屋に響いた。

 セシルは顔を上げて耳をすます。


  ……カタコト

  ……カタコト

  ……コツ、コツ

  ……コツ、コッ……


 それはベッドの方から聞こえてくる。

「まさか……」

 セシルは立ち上がり、急いで竜の卵に駆け寄った。

 脈打つのを止めた竜の卵は、上部が欠け落ちている。

「ああ……!」

 開いた穴の中から、穢れを知らぬ瞳が二つ輝く。

 セシルは慎重に残る殻を取り去ってやった。

 ちょうどユイットを小さくしたような姿のそれは、待ち望んだセシルの竜だ。なぜ、今。

 小さな竜はセシルを見つけ、よちよちと歩み寄る。まだ足がしっかりしていないらしく、すぐにころんと転がってしまった。丸い瞳で見上げ、みゅ、みゅ、と子猫のように鳴き、首を傾げた。

 セシルの頬が上気する。この心に流れ込む温かいものは何だ。

 生まれたばかりの竜は眠そうに一つ欠伸をこぼした。すると不思議なことに、くずかごに捨てられ萎れていたハーブの枝がみずみずしく蘇る。辺りに爽やかな香りを放ち、その効果かセシルの肩から力が抜けた。

「……アンナ」

 呼びかけ、手を差し延べてみる。すると彼女はうっとりと目を細めて頬をすり寄せてきた。

 愛しさが、込み上げる。

 セシルは抱き上げ、窓の外を見遣った。

 あのひとの背が見える。それだけでつんと胸の奥が痛くなった。

 アンナがもう一つ欠伸をこぼす。

 今度は森の花たちが、季節でもないのに一斉に咲き乱れた。

 驚いた竜使いが顔を上げ、窓越しにセシルと視線がぶつかる。セシルは竜を抱きしめたまま、表に出た。

「何をしたんだ?」

「わ、私は何も……」

 彼女の腕の中でまどろむ竜を見て、竜使いは信じられないと首を振った。

「これが、あんたの望んだ力か」

 森に、生命の力がみなぎる。小鳥たちは歌い、狐も猿も栗鼠も仲睦まじく餌を分けあい、慈しみあう。

 平和で美しい、まるで理想郷。

 傷付き倒れた男さえ、これは夢かと目をこすりこすり起き上がった。背の傷は跡形もなく消えている。何度も自分の体を確かめ、そして目の前にいる二人に頭を下げた。言葉はわからなかったが、礼を言っているような気がした。

 ガァラの者が去ると、森に静寂が戻る。日はとっくに暮れ、夜風がそっと二人を包んだ。

「奇跡だ」

 多くの竜を育てた竜使いも、かつてこれほどの力を持つ竜は見たことがなかった。

「あんた、たいしたやつだな。これは最強だぞ」

 みゅ、みゅ、と鳴く竜を撫で、竜使いははにかむ。

「よせよ、俺に力を使うな」

 まだ生まれたばかりの小さな竜には通じない。何度も瞬きしながら竜使いを見つめ、その指を舐めた。なんとも愛らしい。

 しかし、竜使いは意地悪く笑う。

「あんたの力は、俺には効かないよ」

 なぜなら、それは。

 今なら、彼の心を感じることができる。

 セシルはうつむき、そっと竜使いの胸に額をつけた。少し迷い、その肩を抱いてやる。

 愛を振り撒く小さな竜は、二人に挟まれて幸福そうに眠ってしまった。

 愛が、芽生える。

 いや、気付かないふりをしていた愛が育つ。

 別れを覚悟したばかりだというのに。皮肉なものだと天を仰いだ。

 淡い月が気を利かせて雲に隠れる。


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