秘密の夜
薄暗い中庭で絶えず水を注ぎ続ける天使の像を睨みつけ、アンナ・セネットは震える肩を抱いた。夜風は冷たく、上着を着てこなかったことを後悔する。
「遅いわ! 風邪をひいちゃったらどうしてくれるのよ!」
そばかすだらけの頬をぷんとふくらませながらも、まだ来ない恋人を案じる。
「ライナス様に怒られちゃってるのかしら」
士官学校での成績が優秀だったため、とくに目をかけてもらっているが。任務を全うせずに恋人と会っていたとなると、いくら寛大なライナス隊長でも許してくれないかもしれない。
「ひどい罰を受けてたらどうしよう……」
どうかそんなことありませんようにと、アンナは手を組み祈った。
満天の星は静かに瞬き、月は細く、広い庭を照らすには弱い。
カーテンの向こうではまだ王侯貴族たちの晩餐が続き、漏れる光と音楽、そして上品な笑い声が中庭の静けさを際立たせた。来ない恋人を待つアンナの気持ちなど知らずに。
肩の震えが止まらない。本当に風邪をひく前に、あきらめた方が良さそうだ。
「もう。ちゃんと着替えはたりてるのかしら」
抱えていた包みをじっと見つめ、ため息をこぼす。
恋人のコーザが泊まる兵舎に女性は立ち入れず、また上官や同僚たちに冷やかされてはいけないと思い、こうして人目を忍んで夜の中庭で会うことにしているのに。
さて、次に会えるのはいつになるだろう。
がっくりと肩を落とし、仕方なく今夜は帰ろうと噴水の前を離れかけたときに、がさごそと低い木が揺れた。
「ごめん、ごめん! 先輩たちがさ、誰と会うんだってしつこくて」
藪に隠れてきたらしく、髪に葉が絡まり、顔や腕には小さな傷がたくさんついている。汚れたシャツを掴んで、アンナは叫んだ。
「ちょっと! いやだ、またシャツが破れちゃってるじゃない!」
「あはは、直してくれるだろ?」
「もう、私だって忙しいんだから! 仕事を増やさないでよね!」
本当は会えてうれしいはずなのに。どうして可愛らしくできないのだろう。
どん、と包みを胸に押し付ける。コーザは包みを受け取るふりをして、アンナを抱きしめた。冷えきっていた身体が、途端に熱くなる。
「怒るなよ」
「怒ってないわよ」
「本当に?」
「……今はね」
待たされたことも、不安になっていたことも、さみしかったことも、もう忘れた。
アンナは目を閉じ、少しだけ背伸びする。石鹸の香りが近くなり、やわらかいくちびるが触れた。コーザも目を閉じる。
流れる雲が薄い月を隠し、夜闇が恋人たちと外界を隔て、いたずらな風は邪魔をせぬように息をひそめた。
幸せな時間、ずっとこうしていたいのに。
「……もう、行かなくちゃ」
「まだ会ったばかりなのに?」
「遅れてくるからでしょ」
名残惜しそうにコーザの頬を撫で、そっと身を離す。ほほ笑む顔はいつものように明るく、コーザはやれやれと肩をすくめた。なんて仕事熱心な恋人だ。
「ライナス様がお土産に南方の果物をくださったの。それで姫様のためにパイを焼くのよ」
食の細いセシルに少しでも栄養のあるものをと焼いたパイが好評だった。以来、新鮮な果物が入った日には就寝前の飲み物とともに届けることにしている。
姫を想うアンナは優しく、コーザはつい嫉妬した。
「俺のは?」
「ふふ。奥さんにしてくれたら、嫌になるくらい毎日焼いてあげるわ」
もう一度くちづけ、恋人たちはそれぞれの部屋に戻っていった。