廃墟の光
薄暗い路地裏に固い靴音が響く。
金髪の若い王は周囲に誰もいないことを確認して立ち止まり、ふと息をついた。かすむ目に力を込め、ぐっと中空を睨みつける。
邪悪な煙が分厚い雲のようにアディンセルの空を覆い、日の光を遮り、昼間だとは思えぬほど陰鬱な闇がさらに魔を呼び寄せた。
ライナスは当て所なく街を彷徨う。
城の者は全員狂ってしまった。
同士討ちで兵は半減、士気をなくし、魔にとり憑かれた状態では、この先ガァラの攻撃を止められない。暗殺者として侵入していたものどもは、いまや正門から顔を晒して入城するようになった。
そんな中で、わざわざ王座について標的になってやるつもりはない。ライナスは機を見て城を抜け出した。
美しい金の巻き毛を無造作に束ね、華やかな軍服はおびただしい血で汚れている。両手両足の傷は数え切れないほどになり、端正な横顔に浮かぶ疲れは隠せない。
もはやガァラの煙は効かぬ。何度も闇にひきずられ、その度に自身を傷付け正気に戻りと繰り返すうちに、耐性を身につけたのだ。
研ぎ澄まされた神経に、この狂気に満ちた世界は刺激が強すぎた。煙の効力がなくとも、気を抜けば心に魔が入り込むだろう。
きつく、くちびるを噛んだ。
全ては己が招いた禍い。これが、かの美しく豊かだったアディンセルか。もう、目を閉じても思い出せない。
華やかな王城、飾られた広間、ダンスをと手を差し延べると恥じらい頬を染めた姫。全ては儚い夢だったのではと思うほど、その影すら残っていなかった。
崩れかけた塀に背をもたせかける。血を流しすぎたせいで意識が遠退き、足元から力が抜けるのを感じた。
「……ま、……きて、騎士様、起きて……」
耳元で幼い少女の声がし、小さな力が腕を揺さぶる。
「よかった、生きてる」
「すぐに大人のひとを呼んできます」
私のことはいい、逃げなさい、と言いたかったが、かすかに息が漏れただけで声にならなかった。
ほどなく、少女たちが曲がった角から数名の男女が走り寄ってきた。
「こ、このお方は……」
「私、一度パレードで見たことあるよ」
「間違いない、金の巻き毛にエメラルドの瞳」
人々の顔が険しくなる。
ここで、アディンセルの民にとどめを刺されるのか。仕方あるまい。ライナスは覚悟して目を閉じた。
「ダメよ。石を投げちゃダメ!」
少女がライナスの前に立ちはだかり、両手を広げる。
「こら、どきなさい」
「ダメよ」
彼女は純粋な瞳で大人たちを見上げた。
「石を投げられると、痛いし、恐いし、悲しいのよ。だから、ダメなの!」
ライナスは少しだけほほ笑んだ。
「いいのだよ、お嬢さん。私が先に……石を投げたのだから」
ライナスは震える手で指輪を引き抜いた。胸元のブローチ、髪留め、マントの留め具など、金目のものをすべて取りはずす。死にゆく者には必要ない。それらを路銀のたしにと少女に与えた。
「街の外……国外にでも逃げなさい。正気を失った者や、ガァラの兵が襲ってこないうちに」
石を握りしめていた大人たちは、振り上げた手をどうすればいいのかわからなくなり、きまり悪そうに顔を見合わせた。
別の少女が、大人たちをかき分けライナスの前に出る。少し足を引きずるようにして歩み寄った。
「騎士様、はちみつをどうぞ。元気が出ますよ」
ライナスも、大人たちも、驚いた。
「少ししかないから、一口だけ。私、今日は我慢しますから。騎士様、どうぞ」
瓶の蓋を開けようとするのを、ライナスは丁重に断った。
「心優しいお嬢さん、ありがとう。だが、私はまだまだ元気だよ」
ほほ笑もうとしたが、それより先に涙が頬を伝った。なぜ、この薄暗い路地裏の民たちが、邪悪な煙に惑わされなかったか理解した。
「さあ、行きなさい。私も少し休んだら、ここを去るから」
大人たちは手を下ろし、少女たちの肩を抱いて先の角を曲がっていった。
見届け、もう一度中空を睨みつける。ライナスは最期の力を振りしぼって立ち上がった。
静かに、剣を抜く。
はるか頭上に、大きな影が横切った。