愛しの名
小さな鏡を覗き込み、セシルは慎重にはさみを動かした。きちんと前髪を切り揃え、伸びた後ろ髪を白い木綿のリボンで結わいて、ふむ、と満足げにうなずく。だいぶ女らしく見えるようになった。
綺麗にして笑っていろと言われたので、試しに笑ってみる。いびつな笑顔。あれほど練習していたのに。いや、そもそもが上手く笑えていなかったのかもしれない。
彼女はまだ気付いていない。表情が豊かになったことに。心のままに素直な感情が表れ、それらは彼女の美貌をさらに磨いた。
身だしなみを整え、セシルは日課の洗濯にとりかかる。川面に映る自身の姿を見て、ふとため息をついた。
セシル・エノーラ・アディンセル
その名は老若問わず広く知られている。しかし、その名で呼ぶ者は少ない。たいていはアディンセルの姫君と呼び、近しい者は姫様と呼び、両親でさえ愛しい姫と呼んだ。名前など、署名の時に必要な記号だと思っていた。
だが、今、ただ一人に名前で呼んでほしい。
ひやりと冷たい水に手をひたしながら、洗濯物が染まってしまうのではないかと思うほど、何度もため息をこぼした。
そのひとは、名で呼ばれぬから、自分も呼んでやらないと言う。今さらどうやって名を尋ねよう。
竜使いの留守を見計らって本棚や机の引き出しを探ってみたが、手紙の一つも出てこない。本当に、人間との付き合いがないのか。
名前で呼んでほしい。
そして、名前で呼びたい。
もっと彼のことを知りたかった。その不思議な色の髪と瞳はどこの国のものだ。なぜ、一人で森に住んでいた。家族は、友人は、恋人は……
いや、知ったところで親密にはなれない。なってはいけない。今は仮暮らし、いずれここを出ていくのだから。
なぜ、普通の青年と娘として出会えなかったのだろう。
ひときわ大きなため息が落ちた。
《美しいお嬢さん、洗濯物が流されているよ》
セシルは顔を上げ、あわてて川面を追った。
そこには一番小柄な竜が、洗濯物をくわえて立っている。最初にセシルが餌をやろうとした時に、唯一反応した竜だ。
「……」
セシルは注意深く辺りの様子をうかがった。誰もいない。
《はい、どうぞ》
竜はくわえていた洗濯物をセシルの前に差し出す。
「あ……」
まさか、この竜が話しかけているのか。
セシルは呆然と言葉をなくした。
《僕の声は聞こえる?》
懐こい竜は、少し屈んでセシルの顔を覗き込む。
直接頭の中に響くような、不思議な声。セシルは目を丸くしたままうなずいた。
竜使いはしばしば竜たちに語りかけていたが、どうやら本当に会話していたのだ。
《やっと、お話できた。お嬢さん、君の名前は?》
竜の表情はわからないが、にっこりほほ笑んだような気がする。
セシルは受け取った洗濯物を、もじもじと手の中で丸めた。こんなふうに、彼と会話できたなら。
「セシル……セシル・エノーラ・アディンセル……」
小柄な竜はうっとりと目を細めた。
《思ったとおり、きれいな名前。僕はね、ユイット。八番めに生まれたから、ユイット。ひどいでしょ》
おどけた口調がおかしくて、ついセシルもほほ笑んだ。
《わあ、わあ! 彼の言ったことは本当だ! 笑うだけの仕事なんてあるもんかって思っていたよ。でも、君の笑顔はすばらしい》
さあ、もっと笑ってと促され、セシルは困ったように眉をひそめた。以前のようにうまく笑えないのだ。
少しだけ口の端を上げてみたが、笑顔に見えただろうか。
《ねえ、ねえ、セシルは恋をしているの?》
ユイットは無邪気に質問する。
かっと頬が熱くなった。心を見透かされているのか。
「こ、恋などしていない」
そう、名前で呼び合いたいのは、一人の人間として認めてほしいからだ。これは決して恋ではない。強く言い聞かせる。
恋などしている暇はないのだ。
《あれ、そうなの? 彼はすごく君のことが好きなのに》
再びセシルの手から洗濯物が落ちた。小竜は急いで追いかけ、拾ってまた戻ってくる。これではいつまで経っても終わらない。
《彼はね、僕たちが妬いちゃうくらい、いつも君のことを想っているよ》
ありえないと首を振る。なぜか涙がこぼれそうになった。
「たしかに、図々しく押しかけた私をここに住まわせてくれる。何も取り柄のない私の面倒を見てくれる。だが、それは彼が優しいからで、きっと心では迷惑だと思っているに違いない」
そう気付いているのに、彼に甘えてしまっている。早く自立せねばならないのに、この穏やかで平和な暮らしが心地良くて、出ていきたくないとさえ思いはじめている。
《人間は面倒だね》
ユイットは翼を揺らした。人間が肩をすくめるように。辺りの木々がそよそよと騒ぐ。
《心は感じるんだよ。言葉では心を伝えきれないよ》
君は彼をどう想うのと聞かれ、胸が熱くなる。それはそれは痛いくらいに。
あの日より、初めて森に入った日より、この痛みは消えない。息苦しくて、落ち着かなくて、気がどうにかなってしまいそうで。
ますますひどくなるこの病の名を教えてくれる者はいない。
「そうだ、ユイットは彼の名を知らないか?」
セシルは期待して小竜を見上げた。
風の小竜は丸い目をくるくると輝かせ、喉を鳴らす。
《知ってるよ。でも、教えちゃ駄目だって》
すでに先手を打って竜たちに口止めした彼の顔を想像すると、悔しくてならない。
《簡単なことなのに。僕は君と仲良くなりたかったから、名前を聞いたんだよ。セシルも仲良くなりたいなら、自分から聞かなきゃ》
それは正しいと思う。
もしもただの町娘であったなら、とうに夢中になり、可愛らしく名前くらい聞いたであろう。愛し、愛されたいと願ったであろう。
それは叶わぬ夢と悲しく笑う。
《ねえ、セシルの竜はなんていう名前?》
ユイットは優しい瞳でセシルを見下ろした。それはどこか、竜使いの仕種に似ている。
「いや、まだ決めていない」
名前を付けてやることすら思いつかなかった。
《じゃあさ、僕がつけてもいい?》
セシルは少し迷い、首を振る。
「私の竜だから、私が決めたい」
ユイットはうなずいた。
部屋の片隅で、ひと知れず卵の鼓動が高くなる。
「……で、名前は何にしたんだ?」
夕食のときに、不意に竜使いが聞いてきた。セシルの手からスプーンがすべり落ちる。金属音が響き、セシルはあわてた。
(ユイットめ……)
いったい、どこまで報告しているのか。
気持ちを隠し、スプーンを拾ってスープを一口飲む。冷ますのを忘れたため、舌が焼けるかと思った。
「……アンナだ。大切な友人の名をもらった」
「そうか」
竜使いはテーブルに肘をつき、にやにやと笑っている。
「……」
「……」
セシルは目に涙を浮かべながら、熱いのを堪えてスープを飲み干し、席を立った。
「可愛くないお姫様だな」
「恋などしていないと言っているだろう!」
怒鳴り、仕切りの裏に隠れてしまった。
竜使いは目尻を下げ、窓の外を見る。竜たちも楽しげに翼を揺らした。
「いや、やはり可愛いか」
木々も草花も、そよそよと騒ぐ。