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薔薇の頬

 夏の日差しがきらきらと川面を照らし、セシルはまぶしそうに目を細めた。額や首筋には玉の汗が浮かび、少し伸びた金髪が貼りつく。それを払うこともなく、せっせと手を動かした。

 風がさわやかな石鹸の香りを運ぶ。

 木々の間に渡したロープに洗いたてのシャツを広げて干し、ようやくセシルは汗を拭って一息ついた。

 森での暮らしにはずいぶん慣れ、器用ではないが家事も一通りできるようになった。

 竜使いは無愛想ながら、わからないことはきちんと教えてくれる。城にいた頃よりも多くの能力を身につけ、新しい知識を得て、ひとを想うことを覚えた。

 それらがアディンセル再興のために役立つかはわからないが、きっと必要な、大切なことだと今は思う。

 全てを奪ったガァラを憎む気持ちは消えはしない。だが、裏切り者ライナスには、憐れみを感じるようになった。あの美しい騎士が醜く罵られ、人々に嫌われるのだ。自業自得とはいえ気の毒に。

 叶うならば、彼も救ってやりたい。

「さて、と」

 部屋に戻り、まだ孵えらぬ竜の卵をそっと撫でた。

 本当は、竜の卵だというのは嘘かもしれない。ただの不思議な石なのかもしれない。セシルは眉をひそめて不器用にほほ笑んだ。

 すでに竜使いの優しさには気付いている。

 眠れぬ夜は決まって、口数少なに散歩に誘い出してくれる。新しくできた鳥の巣の場所を教えたり、身を寄せ合って眠る狐の親子を見せたり、あるいはただ月を見上げたり。どれほど救われたことか。

 一人涙するときには、吊した仕切りの向こうでいつもより上等な茶を淹れ、セシルが顔を上げるまで静かに本でも読んで待っていてくれる。

 そんな優しい男が、復讐のための力を与えるだろうか。

 セシルは窓の外を見た。

 街に出かけた竜使いの代わりに、残った竜たちが小屋を守っている。とは言え、この森に敵などはおらず、呑気に昼寝しているのだが。

 竜と竜使いは、互いに想いあっていた。

 竜たちだけではない。この森に住まう動物植物全てが竜使いを愛し、竜使いに愛されている。

 竜はその能力を竜使いに貸し、動物は食物の在り処を教え、災害の危険を知らせ、植物は季節の移ろいを告げた。

 竜使いはそれらに感謝し、心を込めて世話をする。

 うらやましかった。

 セシルにはこれほど愛し愛された記憶はない。王家に生まれ、人々に傅かれることが当然だった。

 誰かを思いやるなど、考えたこともなかった。わがままばかり言い、きっと皆を困らせていたに違いない。

 セシルは高い空を見上げた。

 父様、母様、一度も口にしたことはありませんが、愛しておりました。大臣や貴族たちは口煩かったが、嫌いではなかった。私のために命を落とした衛兵にはなんと詫びよう。

 空と同じ色の瞳を伏せ、思い出す。

 身代わりとなって炎に包まれたアンナ・セネットとその恋人コーザは、せめて天の国で幸せになってくれただろうか。

 生きよと言った二人が、なぜ。おまえたちが好きだと言ってくれた笑みは、もううまく作れない。

 生きていて、ほしかった。

 好物のパイをもう一度焼いてくれたなら、今度こそ「おいしい」「ありがとう」と言えるのに。

「アンナのパイは、本当においしかった」

 忙しい仕事の合間を縫って、セシルのためだけに焼いてくれたのだ。隠し味は愛情なのだから当然である。

「さて、と」

 セシルはもう一度つぶやく。

 家事はあらかたできるようになったが、一つだけ、料理だけは、いまだに上手くならない。

 緊張した面持ちで台所に立った。

 竜使いを、喜ばせたかったのだ。

 怒らせるつもりなど微塵もなかった。しかし。

「なんのつもりだ!」

 街から戻った竜使いは、珍しく声を荒げた。声の大きさに驚いて、セシルは身を縮める。

 竜使いはくしゃくしゃと銀髪を掻きむしり、目の前の惨状に顔を引きつらせた。

「できないことはするんじゃないよ、お姫様」

 苛立ちを隠せずに、音を立てながら散らかった台所を片付ける。何をどうすればこんなひどいことになるのだ。

 床が、壁が、小麦粉と玉子と何かわけのわからないものでどろどろになっている。テーブルとかまどには、焼け焦げた物体が盛られていた。

「ごめんなさい……」

 セシルはシャツの裾を握りしめ、怒る男の背に謝る。

 竜使いは手を止め、ため息をついた。

「……こっちへこい」

 片付けを後回しにして、セシルを椅子に座らせる。うつむき震えるセシルの目の前に、土産の手鏡を差し出した。

「これは……?」

「街のひとに譲ってもらった」

 セシルはじっと鏡を見つめた。

 深い飴色のべっ甲細工に縁取られ、丁寧に磨かれた鏡の中には、今にも泣き出しそうな女がいる。

 竜使いはセシルの背後に立ち、そっと髪をすくった。鏡と揃いの櫛を取り出し、たどたどしい手つきで梳ずる。

 ようやく肩にかかるほどに伸びた金髪に、輝きがよみがえった。

 絡まる髪に櫛が通るたびに、セシルの緊張が解けていく。あの優しい感覚とはまるで違うのに、懐かしい。

 竜使いはシャツを一つつぶしてリボンを作った。うまく編めないまま、とりあえず結わいてやる。ひどく不格好で、思わずセシルは笑った。

 ただの木綿の布きれなのに、高価なレースやサテンのリボンより嬉しかった。

「……無理しなくていい。あんた、お姫様なんだから、綺麗にして笑ってるのが仕事だろう?」

 竜使いは余った布を、セシルの竜の卵に巻き付ける。まるで仲の良い姉妹のように。

「なぜ、いまだに私を姫と呼ぶのだ」

 嬉しさと、恥ずかしさとで、セシルの頬はますます薔薇色に染まった。

 なんと美しい。

 竜使いは直視できずに目を逸らす。

「あんた、それしかできないからな」

 わざと嫌な言い方をした竜使いの頬も、やはり薔薇色に染まっていた。

 厭味を言われても構わない。

 セシルは先ほどからしくしく痛む胸を押さえ、かすれる声でつぶやいた。

「……名前で呼んで」

 潤んだ瞳で見つめられ、息をするのも忘れてしまいそうになる。これは卑怯だと竜使いは思った。

 頭を振り、邪念を払う。無理に、いつもの皮肉な笑みを作った。

「嫌だ」

 テーブルに置かれた無惨なパイらしき物の、食べられそうな部分をかじって言う。

「あんたも俺を名前で呼ばないからな」

 セシルの心臓と、セシルの竜の卵が、同時にどくんと高鳴った。

 ああ……誰か、彼の名前を教えて……


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