懐旧の鏡
アディンセルが蛮族の手に落ち、ひと月ほどが過ぎただろうか。崩れた城壁の向こうに立ち込める黒い煙が街を覆い、はるか王城がかすむほど空が澱んでいる。風は腐臭をはらみ、竜使いは思わず外套の袖でで口元を押さえた。
「なんだ、これは……?」
竜の背に乗ったまま街を見下ろし、戦慄する。
虚ろな瞳で宙を見つめ、彷徨い、うわ言のように何かつぶやく人々は、まるで墓から抜け出した死人さながら。わずかに意思を持っているものは、怒鳴りちらしながら他者を殴り、奪い、壊す。なんという悪夢。
「ユイット! ユイット! 風を!」
竜使いが叫ぶと、後方より大きな翼をはためかせて風の竜が飛来した。竜が一つはばたくたびに、街の禍々しい空気が払われる。
「あれが原因か?」
そこかしこでくすぶる火から上る黒い煙が、ねっとりと人々にまとわりつく。
竜使いが指差すと、風の竜はつむじ風を起こして煙の元を吹き飛ばした。霧が晴れるように視界が開ける。
しかし、長く邪気に晒された人々はすぐに快復するのは難しく、ぐったりと脱力し、所構わず膝を落とした。
「まいったな」
これでは荷物の交換どころではない。無事なひとはいるのだろうか。せめて運んできた荷物を預けることができればいいが。
竜から降り、竜の背にくくりつけた荷車をはずして慎重に街に入った。
馴染みの店は不用心に扉が開いたままになり、中は荒らされ棚が倒れ、商品の残骸が散らばっている。店主は不在で、どこかに避難したのかそれとも。
通りに戻り、一軒ずつ建物の中を確認しながら進む。彷徨う人々は竜使いのことなど気にも留めず。好都合だ、うかつに目を合わせると、面倒なことになるだろう。
突然、どん、と足に何かぶつかった。
驚いて視線を落とすと、幼い少女が二人、竜使いの足にしがみついていた。きゅっと口の端を結び、大きな瞳で見上げてくる。
「どうした?」
少女たちは言葉を失ったように何も言わず、竜使いの手を引き路地裏に案内した。少女の一人は足を引きずっている。
「足、ちゃんと治らなかったか」
竜使いは残念そうに眉をひそめた。
「でも、もう痛くないし、歩けるよ」
少しセシルを思わせる気丈な声で答える。本当は、辛くて、悲しくて、泣いてしまいたいだろうに。
頭を撫でてやろうとしたが、片方の手は少女たちとつなぎ、もう片方の手は荷車を引いているためできなかった。
ぐるぐると同じ場所を巡っているような錯覚に陥る。崩れた垣根、焼け落ちた家屋、道を塞ぐ瓦礫。何度も角を曲がり、ようやく少女たちは地下の貯蔵庫へ続く階段を覗いた。
「おばちゃん、連れてきたよ」
ほどなく初老の女性が顔を出した。
「ああ! やっぱり、あんただったね! 不思議な髪色の男がいたって聞いたから。ささ、入んな」
いつも取引をする店の女将だ。
階段を降りると、他にも見知った商店主や街の住人が身を寄せ合っていた。みな、疲れた顔をしている。
「みんな、無事だったか」
「なんとかね」
「でも、せっかく来てくれたのに交換できる物がない」
食料を保管するはずの貯蔵庫には、小麦袋もワインの瓶もない。空になった木箱を椅子とテーブルに見立て、少しばかりの瓶詰の保存食が並ぶくらいだ。
竜使いは荷物を降ろし、肩をすくめた。
「たりないな」
人々は呆気にとられる。
「交換できる物はないと言ってるじゃないか」
商店主が言うと、いらないよ、と短く答えた。
蜂蜜を一口ずつ子供たちに舐めさせてやる。
「おいしい」
「ありがとう」
こんな境遇に置かれても、子供たちの笑顔は輝きを失わない。それを見た大人たちは、声を殺して嗚咽する。
「また来るから。今度は苺をたくさん摘んでくる。だから、諦めちゃいけないよ」
子供たちは元気よく返事した。
「どうする? 他国に逃げるなら、案内くらいはできるが」
しかし彼らは顔を見合わせ、悲しく笑いながら断った。
「この歳になって、知らない土地に移るのはねえ」
「言葉もわからないし、とても暮らしていけないよ」
それでも危険なアディンセルよりは幾分ましだろうに。竜使いはやれやれと肩をすくめた。
「ああ、そうだ。女将さん、一つだけ頼みがあるんだが」
「おやまあ、なんでも言っておくれ」
彼が頼み事など珍しい。できることは何だって聞いてやりたい。女将ははりきって身をのり出した。
竜使いはためらいがちに言う。
「手鏡がほしいんだ。どこかにないかな」
「手鏡?」
本当は女物の服を揃えてやろうと思ったが、セシルは不要と言った。家事をするには竜使いから譲り受けた古着の方が、動きやすく汚れが気にならないからだ。
せっかくの美貌が惜しい。
おそらく化粧道具や装飾品も、同じ理由で断られるだろう。考えた末、手鏡くらいなら使ってくれるのではないかと思った。
「いや、なければいいんだ。その、うん……まあ、いいんだ」
女将は驚き、竜使いの顔をじっと覗いた。
「あんた、恋人がいたのかい」
「い、いや、そんなんじゃ……あ、ああ、妹だ。妹に土産を……」
あまり表情を変えない男が、珍しく頬を染めてあわてている。白々しい嘘がほほ笑ましい。
「こりゃ、いいやつを用意してやらないと。誰か、持ってないかね」
「それなら、これを」
老いた女性がそっと差し出した。べっこう細工で揃いの櫛が付いている。
「最初の結婚記念日に、夫が買ってくれたものでね。古いけれど、悪いものじゃないよ」
「そんな大切なもの、もらえないな」
女性は穏やかにほほ笑んだ。
「大切な思い出の品だから、誰かに持っていてほしくて」
それは、もう先の長くない運命を覚悟しているように見えた。
「こんなおばあちゃんが使ってたものは、嫌かもしれないけど」
「いや、あの娘は必ず大切にするよ」
竜使いは受け取り、愛しそうに懐にしまう。
「ありがとう」
竜使いが言うより先に、女性が礼を言った。
「さ、もうお行き。そして、もう来るんじゃないよ」
女将は竜使いを貯蔵庫から追い出し、少し名残惜しそうに見つめてから、階段を隠す鉄扉を閉じた。
風の竜の力で悪い煙はほとんど消え去ったというのに、それでもなお悲しみが街全体を包み込む。