幻想の灯
なぜ、ライナスは国を売ったりしたのだろう。
強く、優しく、聡明だったはずなのに。
名家の出身で、近衛隊長の地位にあり、いまさら富と名声を望んだとも考えにくい。
では、なぜ。
セシルは枕を抱きしめ、幾度めかのため息をついた。
眠らなければ、明日が辛いのに。掃除に洗濯、薬草や木の実をとって、ジャムを作って、夕食のスープを煮込んで……やることはたくさんある。
森の中で暮らしながら、セシルは一つずつ家事や雑事を覚えていった。それらは竜使いに命じられたからではなく、セシルが自らやりたいと言い出したのだ。
家事をしながら懐かしい人々を思い出し、今さらながら感謝する。薬草とジャムは街に持っていけば喜ばれると聞き、心を込めて作った。忙しくしながらも、アディンセルの民のことを想わない日はない。
感謝し、ひとのために尽くし、さらにはひとの気持ちを想像する。彼らは何を欲しているだろう、どうすれば喜んでくれるだろう、と。
そうしているうちに、どうしても推し量れない心に悩み苦しむようになった。
なぜ、ライナスは……蛮族どもの嘘に騙されるようなあさはかな男ではない。香の煙の作用かもしれないが、あの狂気は胸の奥に隠されていたもの。
いったいなぜ、何を望んで、あのような愚かなことを。
強引に奪われたくちびるが気持ち悪い。
「……眠れないのか?」
ずいぶん夜も更けたというのに、仕切りの向こうから声がする。起こしてしまったか。
「出かけるが、あんたも来るか?」
セシルは少し迷い、このまま眠れないまま朝を迎えるならとベッドを下りた。
「夜の森は冷える。これを」
竜使いは毛布をマントのように羽織らせてやる。ランプの油の量をたしかめ、セシルの手をとった。
「こんな夜中にどこへ?」
何も言わずに黙々と歩く竜使いに問うたが、振り向きもしない。沈黙が、苦しい。
竜使いの言うとおり、夜風が体温を奪っていくが、つないだ手だけが燃えるように熱い。
ランプの明かりが眩しくて、毛布を頭からかぶり直した。
今、私はどんな顔をしているだろう
今、彼はどんな顔をしているだろう。
辺りが静かすぎて、もう声を出すこともできなくなってしまった。
「人間の社会は面倒だな」
突然、竜使いは言った。
「眠くないときに寝なきゃいけなくて、眠いときに起きなきゃいけない。眠れないなら、夜を楽しめばいい」
そして川面を指差した。
木々の間からこぼれる月光が、緩やかな流れに煌めく。その光が一つ、二つと宙に舞い上がった。
「これは……」
その幻想的な風景に、セシルは我を忘れて見惚れた。
竜使いはランプの火を消す。
いっそう、暗闇に無数の光が散った。
「ホタルだ。見たことあるか?」
これほど美しい光景が、この世に存在したとは。城中の宝石を漆黒のビロードにちりばめても敵わないだろう。
「城には、たくさんの教師がいたのに。誰も教えてくれなかった」
「そうか」
知らなかったんじゃないかと、竜使いは笑った。
「この森に来てから、私は多くのことを教わった。自分が無知だと思っていたが、これほどとは」
「世界は広い、ということだろう。きっと、俺の知らないことを、あんたは知っている。俺は、ひととの付き合い方なんか知らないからな」
「それは……」
私もよくは知らない、と言いかけてやめた。今、これほど近くにいるひととさえ、うまく話すことができないのに。
「……何を悩んでいたんだ?」
ほら、おまえは私が思い悩んでいたことまで知っている。
飛び交う小さな光を見つめたまま、セシルは正直に話した。
「なぜ、ライナスは国を売ったのだろう」
「ライナス?」
「国と王に忠誠を誓った騎士だ。私の……夫になるだろうと言われていた」
「へえ」
竜使いは考えたふりをし、わからないなと肩をすくめた。
あんたを他の男に取られたくなかったのだろう、というのは教えてやらなかった。
たとえ髪を切り、疲れて痩せ、粗末な服を着ていても、ホタルの光がかすむほどに美しい。
背後の草が揺れ、セシルは思わず竜使いのシャツにしがみついた。じっと目をこらしてみるが、何も見えない。
竜使いがランプに火を入れると、すぐそばまで近付いていた子ぎつねが突然の灯かりに驚いて、また茂みの向こうに走り去っていった。
「ああ、起こしてしまったか。悪いことをしたな」
セシルはほっと息をつき、慌ててシャツを掴む手を離す。こっそり見上げた彼の顔が、今までに知らない優しい笑みを浮かべていたせいで、胸の奥がひどくざわついた。