慈愛の瞳
一人残されたセシルは途方に暮れる。
よく眠れたおかげで身体の具合はずいぶん良くなっていたが、いきなり掃除と言われても何をどうすればいいのかわからない。宿と食事の恩を返したい気持ちはあるのだが。
おそるおそる部屋の中を歩き回りながら、城で侍女や召使いたちがどのようにしていたかを思い出す。
一点の曇りもない窓、よく磨かれた床、カーテンからはさわやかな石鹸の香り、階段の手すりにも壁の絵画にも埃など積もることなく。いったい、あの広い城をどうやって美しく保っていたのだろう。
窓をそっとなぞると、指先が黒く汚れた。
(何か、拭くものは……)
流しにかけられた布巾をつかみ、窓辺に立つ。しばし睨みつけたのち、意を決してこすってみた。窓の汚れは布巾に移り、外の景色が鮮明になる。
セシルは夢中になって窓を拭いた。腕が疲れても、あと少し、あと少しと言い聞かせて、ついに磨き上げた。
汚れが落ちるたびに、心が晴れていくような気がしたのだ。
満足げにふむ、とうなずき、しかし窓に映る自身の姿を見て、うつむいた。
輝きを失った髪は少年のように短く、痩せて血色の悪い頬、落ちくぼんだ目はうつろに。汚れ、ほつれた服が、あの日の惨状を思い出させる。
急に吐き気をもよおし、その場にうずくまった。
泣いてはいけない、泣いている場合ではないのだ。
強くなると決めたではないか。
セシルはぐっとくちびるを噛み、立ち上がる。もう一度窓の方に向き直り、まっすぐに自分の姿を見た。
たとえ薄汚れていても、心まで汚れてはいけない。私は誇り高いアディンセルの王女なのだ。国のため、民のために、今なすべきことは。手櫛で髪を整え、瞳に力を込める。
布巾を置いて、枕元に置いていた竜の卵をひと撫でした。
変わらずに人肌ほどの温度を保ち、淡い光を放ちながら脈動しているが、はたして成長しているのかどうか。
「早く、私に力を貸しておくれ」
強い竜になるように、強く強く望まなければ。掃除などしている時間はないのだ。
いつの間にか日は傾きはじめている。
「まったく、私に雑用を言い付けて、あやつは何をしているのだ」
「……なんだ、さびしかったのか?」
驚いて振り向くと、いつの間に帰ったのか竜使いが荷物を解いている。
「な、なにを! そんなわけないだろう!」
「そうか」
厭味な笑い顔が、どこかいつもと違うような気がした。
「どうかしたのか?」
「べつに」
セシルはふんと鼻を鳴らす。この男の機嫌や気分の良し悪しなど、もとより興味はない。
竜使いが荷物を片付け、食事の用意をするのをぼんやりと見つめていると、竜使いは背を向けたままため息まじりにつぶやいた。
「……すまない。着替えなどを用意しようと思ったんだが、とても買えるような状況じゃなかった」
セシルの胸がどくりと鳴った。
ガァラの襲撃から、どれほどの時間が経っただろう。街は、城は、どうなっているのか。
「ひどい状態だった。ひとも土地も荒れて、痩せて」
「城は……」
全身が強張り、嫌な汗が背を伝う。逃げてはいけないと思っていても、現実を受け入れる覚悟がまだたりない。
竜使いは肩をすくめた。
「城までは行ってない。街のひとたちの噂では、金の巻き毛の若い男が王になったらしいが」
セシルは目を伏せ、くちびるを噛んだ。
金の巻き毛と言えば、あの男しかいない。裏切り者のライナス・アルフ・コンラッドだ。
「重税をかけ、徴兵で働き手を奪い、街のひとを苦しめているそうだ」
セシルはきっと竜使いを睨みつけ、詰め寄った。吊り上げた瞳に涙がにじむ。
「私の竜の卵は、いったいいつになれば孵えるのだ」
竜の力が得られぬのなら、ここに留まる理由はない。
とは言え、一人では無力すぎる。他に頼れる心当たりもなかった。
竜使いは静かに答えた。
「……想いが強ければ早く孵えるし、迷いがあれば殻が割れることはない」
「私の心に迷いがあると?」
「さあな」
セシルは激昂した。
「馬鹿な! 父を返せ、母を返せ、国を返せ、友を返せ……これほど想っているではないか! なのになぜ、私の竜は孵えらない!」
ついに堪えきれず涙が溢れる。やはり心が弱い。もっと、もっと強く望まなければ。一日中でも、想い続け……
「……謀ったな」
「なんのことだ?」
掃除など言いつけるから、今日は父のことを、母のことを、国のことを、友のことを想うことができなかった。憎い敵を討つことも、あの美しかった城を取り戻すことも、考えてはいられなかった。
だから、卵は孵えらない。
「私には、こんなことをしている時間はないのだ」
「そうか」
皿を並べ、茶を煎れる。席に着けと促すが、セシルは頑として竜使いを睨みつけたまま動こうとしない。
食う気のない者など無視して、竜使いは先に食事を始めた。
スープに塩漬け肉の燻製を添えただけの、質素な料理を一口一口かみ締め、味わい、飲み込む。それは生きる力を与えてくれることに感謝し、消えた命を取り込み共に生きることを決意するように。
「あんたが国を取り戻したとして、『こんなこと』をしてくれる者はいるのかい?」
「それは……」
セシルは口ごもる。
「あんたの国では、誰が『こんなこと』をやってくれていたんだ?」
セシルは知らない。
優雅で退屈な茶会の支度をしてくれたのは誰だろう。茶を入れ、菓子を焼き、花を摘んでくれた者がいるはずだ。真っ白なテーブルクロスに糊付けしてくれたのは、白磁の茶器を磨いてくれたのは、いったい誰だ。
知っていたならば、もっと感謝し、楽しめたかもしれない。
セシルは大人しく席に着いた。竜使いを真似て、固いパンを一切れかじり、焼いてくれた名も知らぬ誰かに感謝する。
「早く、取り戻さねば」
ぽつりとつぶやいた。
目を閉じれば、今でも華やかな王城を思い出す。そこで人々は、仕事の合間にセシルにほほ笑んでくれた。
彼らを労い、感謝の気持ちを伝えることができたなら。
「竜使いよ、なぜおまえはまだこの地に留まるのだ」
守るべき国と王は滅んだというのに。
竜使いは銀灰色の瞳を細めて窓の外を見遣った。すでに夕陽は沈み、濃紺の闇夜が亡国を包み込む。
「国ならあるさ」
セシルは激しい音を立ててテーブルに手をつき立ち上がった。
「あの裏切り者を、蛮族どもを、守ると言うのか!」
「……俺はアディンセルを守っているわけじゃない。この地にはまだ、空があり、地があり、木々は繁り、泉は湧いている。鳥は空を飛び、獣はささやかな木の実を食む。俺は、それを守るだけだ」
その瞳は穏やかで、慈愛に満ちている。
セシルはうつむき座り直した。自身の小ささを思い知る。
「やりたくないなら、やらなくていい」
先に食事を終えた竜使いは席を離れ、通りすがりにセシルの頭を軽く撫でた。
「気が紛れるかと思って言っただけだ」
そうだ、最初にここを頼った時に、思い詰めた揚げ句に倒れた。そうさせまいと気遣ってくれたのか。
セシルの頬はほのかに紅く染まり、目頭が熱くなった。
人間嫌いとは、口ばかりではないか。
「……無礼者。手を除けよ」
甘えてはいけない。弱い心では竜は孵えらないのだ。
しかし、大きな手は温かい。
「ふん。国を乗っ取られたのに、まだお姫様気取りかい」
意地悪く笑い、竜たちに餌をやりに外へ出る。
セシルは窓越しにその背を見つめ、ため息をついた。ああ、またあの胸の痛みがぶり返す。何度深呼吸をしてみても、気持ちが鎮まることはなく。
空いた皿を流しに運んで不器用な手つきで洗い、それが終わると他にできることがないか探す。夜に彼が使うランプの油が少ないことに気付き、たしておいた。
灯かりを絶やすことなかったアディンセル城では、いつも誰かがランプに油をたし、燭台の蝋燭を変えてくれていたのだ。
竜使いに従う竜たちは大きく、強い。それより強い竜使いの心は、いったい何を想っているのだろう。
私の竜は、敵討ちを手伝ってくれるだろうか。
いや、敵討ちのために、竜を孵えらせてもいいのだろうか……セシルは眠れないまま夜を過ごした。