悲泣の心
どこをどう走ったのかわからない。
なぜ走っているのかもわからない。
国を、民を、両親を、友を、全てをなくし、私はどこへ向かって走るのか。
逃げないで!
くじけそうになる度に、アンナの声が頭の中に響いた。
そう、私は、逃げてはいけない。
この辛い現実から逃げてはいけない。
辛い。
怖い。
苦しい。
悲しい。
けれど、立ち向かわなければならない。
強く、なるのだ。
がさり。
突然、森が開けた。
高い木々に隠されていた空が広がり、冷たい風がそわりと髪を揺らす。視界を朱く染めるのは、夕陽か燃え広がる炎か。
立ちつくすセシルの頭上を、大きな影がよぎる。影ははるか後方にそびえる北の塔に降り立ち、天を裂くほどの咆哮を上げた。大気が震え、渇いた空に再び雲が集まる。それはまるでむせび泣くように、慈悲深い雨を降らせた。
しかしセシルは微動だにせず、ただまっすぐに前を見据える。
男はそれを一瞥し、表情も変えずにまた正面に向き直った。彼の前には巨大な竜たちが静かに並び、じっとセシルを見下ろしている。
「どの竜に乗りたいんだ」
「……強い、竜に」
美しかった金髪は無残に刈られ、泥と血で顔も手足もひどい有様だ。ドレスはまるでぼろ布のようにあちこちが裂けている。
虚ろな瞳はしかし、その奥にぎらぎらと光を宿す。
「竜に乗るなら、竜を従えるほどの強い心を持たなければならない」
男はセシルの足元に、餌の入ったかごを投げた。
「どうする。自分で乗るか、俺に乗せてくれと頼むか」
セシルはきゅっと口の端を結び、かごを拾い上げる。かごの中には固い皮で覆われた果実がいくつか。触れると、ざらりとした棘が指先を傷つけた。
男はため息をつく。
「……少し、待ってろ」
そう言い残して小屋の裏に消えた。
セシルは固い果実をつかむ。しくしくとした痛みなど、彼らの受けた傷に比べれば。
竜たちに近づき、ぐっと見上げる。もう恐怖心はない。
それを見抜いているのか、竜たちも以前のようにセシルを威そうとはしなかった。
セシルはつかんだ果実を差し出す。しかし、一番小柄な竜が少し翼を揺らしただけで、セシルの手からは食べようとしない。
食われても構わないと、セシルはさらに竜たちに近づいた。
風が強まり、木々がざわめく。竜たちの表情はわからないが、おそらく嫌がっているのだろう。顔を背け、セシルを拒絶する。
「よせ。待てと言っただろう。そいつらは食ったばかりなんだ」
竜たちの気持ちを代弁するように、あからさまに迷惑だと顔をしかめて竜使いが戻ってきた。
手にはひとの頭ほどの大きさの石を持っている。セシルははっと息を呑んだ。
「これをやる。生まれたばかりの竜の卵だ」
ずしりと重い塊は、石にしては滑らかで、ほのかな光を放っている。セシルが受け取ると、まるで生き物のように脈動しはじめた。ちょうど、ひとの体温くらいに温かい。
セシルは壊さぬように、そっと抱きしめた。
「こいつはあんたの心の力を吸って育つ。あんたの望む力を持って。あんたが強く望めば、強い力になるだろう」
相変わらず無表情に、抑揚のない声で淡々と説明する。本当は面倒ごとには関わりたくないのだと言いたげに。
今のセシルにはちょうどいい。慰めも優しい言葉も必要なかった。ただ、憎き敵を打つ力さえ手に入れば。
「中へ」
男はセシルを小屋に招き入れた。
狭い部屋には木のテーブルと椅子、小さな棚と物入れ、そして質素なベッドが置かれている。男はベッドのある一角にシーツを吊して仕切り、そこで休むように言った。
セシルは言われるまま固いベッドに腰を下ろす。竜の卵を膝に乗せ、身じろぎ一つせずに宙を見つめた。
繰り返し、惨劇が脳裏に浮かぶ。
獣の瞳 狂気に閃く剣 赤い液体
美しい裏切り者 燻る煙 不幸な恋人たち
獣の瞳 狂気に閃く剣 赤い液体
美しい裏切り者 燻る煙 不幸な恋人たち
獣の瞳 狂気に閃く剣 赤い……
浮かんで消えるたびに、心が暗く染まっていく。敵を憎み、復讐を誓い、無力な自分を呪った。想いは停滞し、時の経つのも忘れ、ただ一心に願う。
強い、力がほしい。
仕切りの外で様子をうかがっていた竜使いは、うんざりとため息をついた。
「……食事の時間だが、食えるか?」
返事はない。眠っているのか、否、どうやら同じ姿勢のまま思いつめているらしい。
次の日の朝も昼も同様に声をかけてみるが、竜使いの言葉は届いてさえいないようだった。
ついにしびれを切らし、半ば脅すように強く言う。
「食わないと、力はつかないぞ。弱ったあんたの心では、もちろん竜も育たない」
仕切りの向こうで影が動く。立ち上がろうとしたセシルは、そのまま崩れるように倒れた。
「やっと手当てができる」
竜使いはやれやれと肩をすくめる。ベッドに寝かせようと抱き上げて、その軽さに驚いた。
青ざめた顔はやつれ、くちびるは渇き、苦しそうに眉をひそめて涙をこぼす。あの幸福に満たされ輝いていた姫君が。
棚から薬箱と清潔な布を取り出し、顔と手足の泥を丁寧に拭ってやり、無数の傷には薬をつけておいた。
外傷はさほどひどくない。気が途切れさえしなければ、命に別状はないだろう。
目覚めたときに口にできるようにと薄めのスープを煮込み、着替えに古い服を用意する。少し迷い、怪我をしてはいけないからとネックレスとイヤリングをはずして、なくさないように適当な小瓶に入れて薬箱にしまった。
夢の中でも追われているのだろうか。うなされ、こぼれる涙は止めどなく。
「こんな若い娘が、憎しみを糧に生きなきゃならないなんてな」
憂鬱そうにつぶやき、涙を指ですくってやった。