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加護の火

  カツーン……

  カツーン……


 降り続く雨の音にまぎれて、硬質な音が響く。


  カツーン……

  カツーン……


 それは同じ調子でくり返し、次第に近付いてくる。


  カツーン……

  …………


 不意に訪れる沈黙。セシルたちは固唾を飲んで耳をそばだてた。不気味な異音は扉の前に止まったまま動かない。


  ……ドンッ

  ……ドンッ


 荒々しい音に合わせて、扉が揺れた。コーザは腰の剣を確かめる。

「隠れて」

 アンナはうなずき、セシルとともに箪笥の陰に身をひそめた。


  ……ドンッ

  ……ガッ

  ……ガッ

  ……ガ……チャリ


 乱暴に鍵が壊され、ゆっくりと扉が開く。

 最悪だ。

 コーザはきゅっと歯を食いしばり、剣を抜いた。

 まばゆい金の巻き毛をかき上げて薄くほほ笑むのは、今、最も会いたくない男、裏切り者のライナス・アルフ・コンラッドだ。

「……姫、こちらにおいででしたか」

 気だるげに扉にもたれかかり、ため息をつく。手に持つ香炉から一筋の煙が上り、部屋中に甘い香りが広がった。

「よくやったぞ、コーザ。姫を無傷で捕らえるとは」

「な……ちが……」

 コーザは慌てて振り返り、セシルに弁明しようとする。その肩に、錆びた剣が容赦なく叩き込まれた。骨の砕ける鈍い音、少年兵はぐうと呻いて膝を落とす。

「さあ、姫。新しい王の戴冠を宣言していただきましょう」

 見下ろす碧色の瞳は精彩さを欠き、狂気で澱む。

 セシルはドレスの端を握りしめ、怒りに全身をわななかせた。気丈に睨み付けるのを、愛しむように、憐れむように、ライナスは目を細めて見つめる。

「そんなお顔をされては台なしですよ。さあ」

 腕をつかみ、強引に抱きしめくちびるを奪った。セシルは必死に抵抗するが、とても力で敵わない。

「さあ、国民の前で私を夫とし、王とすると宣言しろ。あとは私の子を産めばいい」

 まるで婢のように扱われ、セシルは青ざめる。もはや王族への敬意などは微塵も感じられなかった。

 こんな奴に、こんな奴に……!

 恋心らしきものを抱いていたのか。兄のように慕っていたのか。

 自身の愚かさを呪う。

 こんな奴に、こんな奴に、いいようにされるくらいなら、いっそ……!

 しかし、ふと脳裏にアンナの言葉がよぎる。


  逃げないで!


 そうだ、ここで自らの命を絶つことはできない。たとえこの身にどのような仕打ちを受けようとも、国を、民を、守らなければ。

 この男を、決して王と認めてはならない。

 皆の前で宣言する必要がある。アディンセルは恒久に、ライナス・アルフ・コンラッドの即位を認めはしない、と。

 たとえその直後に斬り捨てられたとしても、民衆の上にこの男を戴くことだけは阻止せねば。そのためには……

 セシルは抵抗を止め、憎い男に身を委ねた。

「はじめからそうしていればいいものを」

 セシルの思惑を知らぬライナスは、満足げに頷いてもう一度くちづけた。全身が総毛立つのをぐっとこらえる。

 ライナスは床に伏せる少年兵を足蹴にし、北の塔の小部屋からセシルを連れ出そうとした。

「させないわ!」

 傷付いた恋人に取り縋り泣いていたアンナが立ち上がる。暖炉のそばにあった火かき棒を掴むと、力いっぱいライナスの後頭部に打ち付けた。

「……」

 あやしい香の影響で感覚が鈍っているのか、痛みに顔を歪めることもしない。が、脳が揺れたらしく、足に力が入らなくなり体勢を崩した。

 アンナはさらに何度も打ち付ける。それは、あの香のせいかもしれない。

 火かき棒が赤く濡れ、黒い瞳が異様なほど爛々と輝いた。

「よせ、アンナ。もう、いい。もう……いい」

 コーザは痛みを堪え、動く方の手で上官だった男の様子を確認する。よかった、まだ息はある。こんな畜生のために、恋人が罪をおかすことはない。

「姫様、今のうちに」

 再び手を取り、階段を駆け降りた。

 北の塔に隠れてから、どれほどの時間が経っただろう。美しかったアディンセル城は見る影もない。

 庭園の花は踏みにじられ、傷付いた貴族や騎士たちが折り重なるように倒れている。そこかしこから火の手が上がり、大理石の柱も漆喰の壁も破壊しつくされ、金銀の装飾は持ち去られていた。

 アディンセルは、負けたのだ。

 セシルはくちびるをきつく噛み、誓う。

 今は、蛮族にでも裏切り者にでもくれてやろう。だが、必ず取り戻す。

 あの、優雅で退屈な日々を。甘く優しい日々を。

 手を引くコーザの力が強くなる。感傷にひたるのは後だ。

 野卑な視線がぐるりとセシルたちを取り囲む。ガァラの兵か、ライナスの手の者か、あるいはまた別のセシルを狙う輩か。とにかく一度城から逃れ、できれば他国に身を寄せて立て直さねば。

「……聖堂へ」

 思うところあり、セシルは踵を返した。

 古い彫刻の大扉を押すと、やはり中では破壊と殺戮が繰り広げられていた。

 御神像の前でさえ、この有様だ。なんと罪深き人々よ。

 香の煙が充満し、人々の心を蝕んでいく。痴れ者たちはセシルの姿を認めながらも、瞬時に捕えようとは判断できないらしい。虚ろな目を向け、何かうわ言のようなことを呟き、ゆらりゆらりと体を揺らしながらセシルの方へと近付いたり立ち止まったりを繰り返す。

 それは、もはや生者とは思えなかった。

 セシルは素早く祭壇へ駆け寄り、燭台を一つ手にして床を探る。セシルだけが知る目印の敷物をめくると、そこには小さな隠し扉が一つ。王族のみが使える、有事の際の脱出路だ。

 コーザが鉄の扉を引き開けると、その先には急な階段が続いていた。深く、暗く、その果ては見えない。

 迷っている時間はなかった。

 セシルは小さな入口に細い体を滑り込ませ、慎重に階段を降りる。その後ろにアンナが続くと、コーザは静かに扉を閉めた。

「何をしている! おまえも早く中へ!」

 セシルは驚き振り返る。しかし、コーザの返事はない。

 戻ろうとするセシルを止め、アンナは笑った。

「生きていれば、きっとまた会えますから」

 そして燭台を預かり、セシルの足元を照らす。いつのまにか靴が脱げ、白い足が血と泥にまみれていた。

「まあ、私ったら気付きませんで」

 アンナはハンカチを取り出し、丁寧にセシルの足を拭う。

「痛みませんか?」

「大事ない」

「急いで脱出して、お薬を塗らないと」

 ないよりはましとハンカチを包帯代わりに巻き、自分の靴をセシルに履かせた。もっと上等な靴を履いていれば良かったと後悔する。

 長い階段が途切れると、今度は細い地下道が伸びる。唯一の明かりはこの蝋燭だけで、はたして燃え尽きる前に出口にたどり着けるだろうか。いや、たとえ深淵の闇でも進まねば。

「いったい、どこへ出るんでしょうね」

 アンナがうんざりとした表情で肩をすくめる。その声は噂話をするときと同じように明るく、セシルは少しばかりほっとした。彼女はいつも、セシルの気鬱を晴らしてくれるのだ。

「……姫様、そのドレスでは走りにくいでしょう?」

 アンナはおもむろに自分の服を脱いだ。薄い下着姿になりながらも恥じることなく、セシルにそれを着せ付ける。

「ああ、早くいいドレスをご用意しなくちゃだわ。姫様にこんな汚れた服をお着せして、私、きっとしかられて夕飯抜きですわね」

 不謹慎だとは思ったが、セシルは笑った。

 その美しい笑顔を、アンナ・セネットはしっかりと瞼に焼き付ける。

「お逃げになるのに、その髪は目立ち、邪魔になるかと……」

 セシルは頷き、貴婦人の護身のためのナイフを握りしめた。

 生きていれば、髪などすぐに伸びる。まずは、生き延びなければ。

 美しい金髪を無造作に掴み、耳の下あたりでナイフを引く。

 その瞬間だけ、アンナはまるで痛みに堪えるように目を伏せくちびるを噛んだ。

 脱ぎ捨てたドレスの上に、刈られた髪がはらはらと落ちる。それは敗国の姫君の亡骸のようにも見えた。

「姫様の髪、きれいで、大好きで、ずっと憧れていましたの」

 アンナはドレスと共に拾い上げ、胸に抱きしめた。泣くまいとするが、涙は次々と溢れくる。

「ふふ、こんなドレス、一度でいいから着てみたかった」

「アンナ?」

 セシルは訝る。ドレスなど、無事に逃げきった後で好きなだけ着ればいいではないか。

 逃げる支度は整ったのだ。ならば一刻も早く前に進まねば。

 アンナは涙を拭い、笑った。美人とは言い難いが、ひとを惹き付ける魅力のある笑顔だ。

「姫様、どうかお幸せに」

 遥か上方から光が入り、ひとの声がする。すぐに複数の靴音が狭い通路に響いた。

 が、セシルにはその光も音も届かない。ただ、目の前に起こりうることを止めようと手を伸ばした。

「やめ……!」

 しかしわずかに届かず、アンナは燭台を手から離した。

 小さな火はドレスの裾に落ち、ほんの少しの間くすぶっていたかと思うと突然激しい炎となって燃え上がった。瞬く間にドレスが、金色の髪が、ほほ笑むアンナが、火に包まれる。

「アンナ! アンナ!」

 救い出したいのに、炎の勢いが強すぎて近寄れない。

「姫様、ここから先……は誰も通しません……。安心して、でも、お気を付け……て……」

 喉が焼け、声が出せなくなる。それでもなお、アンナ・セネットは穏やかにほほ笑んでいた。

「あ……」

 セシルは膝を落としそうになる。

 いけない、ここで立ち止まっては、なんのためにアンナが……

「ああ……ああ……!」

 いっそ香の力で狂ってしまえたなら。

 なぜにかくも現実は厳しいのだ。

 セシルは瞳を閉じ、耳を塞ぎ、無我夢中でただ走った。暗く、細い道を、ただ出口を目指して走った。


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