狂乱の宴
さあ 欲深き人々よ
心のままに得るがいい
得難きは奪うがいい
汝は何を望む
汝は何を欲す
美しき人々よ 醜く狂え
中庭を通る渡り廊下に、ざわりと生温い風が吹き抜ける。暗雲立ち込め、重い空は今にも降り出しそうだ。
セシルは立ち止まり、ふと大広間の方を振り返った。
きらめく光の中で楽しそうに笑う人々、優雅な音楽に甘い香り、だが、何かがおかしい。
離れた場所から見なければ気付かなかっただろう、なぜだ、熱狂的に酔っているのはアディンセルの者ばかり。ガァラの兵たちは一歩下がり、冷ややかに薄笑みを浮かべてその様子を眺めている。
「これはいったい……?」
異変を察知し、衛兵たちは護りを固めた。
アディンセルの貴族たちは強い酒に呑まれたのか、暴力的に、攻撃的に、他者を傷つけ我欲を満たそうとする。ささいな言い争いが斬り合いになり、力付くで奪い、奪われた者が怒りに任せて剣を抜いた。
「何が起きている?」
王を、国を、守るはずの騎士たちが、躊躇なくひとを斬る。よく見知ったものたちが、狂った獣のように傷付け合う。
大広間に戻ろうとするセシルを、衛兵たちはあわてて引き留めた。
「なりません、姫様。あちらは危険です」
「早くお隠れにならないと」
彼らは急かすが、思うように足が動かない。これは悪い夢なのだと思いたかった。
背後で一際大きな歓声が上がる。
「……!」
セシルの悲鳴は音にならなかった。全身ががくがくと震え、目眩すら覚える。心の臓はどくりと鳴ったきり止まってしまったのではないか。
揺れる瞳に映る光景、まさか、そんな。
豊かな金の巻き毛の騎士が、その手に持つ剣を振り払う。
赤い液体を撒き散らし、宙を舞ったのは……
「姫様、こちらへ!」
植木の陰から少年兵が飛び出した。膝を落としたセシルを助け起こし、走らせようと手を引く。その後ろに恋人のアンナ・セネットも続いた。
「何が……いったい、何が起きている?」
その問いは答えなど求めてはいない。聞いたところで、とても現実だと受け入れられるはずがなかった。
もつれる足を懸命に動かし、少年兵コーザが示す方へ走る。
先ほどまでセシルを守っていた衛兵たちはセシルを追うことなく、激しい口論をはじめ、一人がどんと突き飛ばされると、その後は大広間と同じように殴り合い、斬り合いとなった。
中庭を抜け、聖堂の前を過ぎ、北の塔を駆け上がる。小さな窓から見える空が明滅し、間髪入れずに雷鳴が轟いた。
「ここで、大丈夫かしら?」
アンナは肩を大きく上下させ、息を吸い込む。
「わからない。けど、他に隠れる場所なんてないだろ」
コーザとアンナは最上階の部屋にセシルを隠した。内側から鍵をかけ、扉の前に立ちはだかる。もしものときには盾になる覚悟だ。
セシルは床に崩れるようにして胸を押さえた。うまく呼吸ができずに喘ぐ。
「姫様、どうかお気をたしかに」
コーザは跪き、無礼を承知で肩をさする。アンナ・セネットは濁った瞳でそれをじっと見つめ、いけないと首を振って温かい飲み物を用意した。
「何が……何が……」
つい今し方、異国の王を歓迎し、和睦を結んだばかりではないか。あれは全て謀なのか。
あの獣の瞳、薄い笑み、やはり奴らは信ずるに値せぬ畜生だったのか!
大粒の涙が溢れ、視界をにじませる。込み上げる恐怖と怒りにただ嗚咽を繰り返した。
「ちくしょう、ガァラめ!」
コーザは歯を食いしばり、拳を床に叩き付ける。一部始終を見ていながら、防ぐことも抗うこともできなかった。
アディンセルは、何が起きたか理解するひますらなく、内側から落とされたのだ。
「姫様、しばらくここに隠れ、機を見て逃げましょう」
「どこへ……どこへ逃げると言うのだ!」
退屈で平和な日々が、こんなにも簡単に崩れるなどとは思ってもみなかった。セシルには甘く優しかった王と王妃の顔を思い出し、また涙がこぼれる。腹黒い大臣も、欲の塊の貴族も、気障な騎士も、それでもセシルのことを大切にしてくれた者たちがみな、狂ってしまった。
一人逃げたとして、無知で無力なセシルに何ができるだろう。
「狂ったのは、大広間にいた者だけです。ガァラの使う、妙な香の煙を吸った者だけ。城外にいる大多数は無事です。どうか姫様、今は逃げ延び、民をお救いください」
「できぬ……私にはできぬ!」
セシルは頭を抱えて泣き崩れる。
王と王妃を、父と母を失い、城は奪われ、最も頼りにしていた者に裏切られたのだ。今は正常な民たちが、いつ狂いだすかわからない。
たった一人で立ち向かう勇気は、セシルにはなかった。
「逃げないで!」
叩きつけるように茶器をテーブルに置き、アンナ・セネットが怒鳴った。
「なによ、今までさんざんちやほやされてたくせに! 税金を無駄遣いして、贅沢してたくせに!」
「……」
「私たちを助けてよ! 王族だって言うなら、ちゃんと最期まで、私たちを守ってよ!」
仁王立ちで見下ろすアンナに、セシルは何も言い返せない。
「アンナ!」
セシルに掴みかかろうとするアンナの腕を、コーザは強い力でひねり上げる。殴られると思ったアンナは身を縮めるが、コーザはそのまま力いっぱい抱きしめた。温もりに包まれ、アンナの瞳に光が戻る。
「あ……ああ……こんなこと、こんなこと、言うつもりじゃ……私、姫様のこと、好きなのに……好き……なのに……」
「うん、わかってる」
コーザは黒髪をそっと撫で、姫の御前であることも憚らず、髪に、瞼に、頬に、くちびるにくちづけた。アンナの瞳から次々と涙があふれる。
「……申し訳ありません、姫様。俺たちも、ガァラの香の煙を吸っています。ほんの少しですが。でも、今、俺はアンナを連れて逃げ出したいと思っています。二人なら、逃げ切れる。どこか知らない街で、何もかも忘れて暮らせる。だけど……」
アンナを抱きしめる腕の力を強めた。アンナは目を伏せ、体重を預ける。同じ気持ちだとうなずいた。
「俺たちは、姫様に生きてほしい。俺たち、姫様の笑顔が大好きなんです。生き延びて、幸せに笑って暮らしてほしい」
そして恋人たちは身体を離し、セシルの前に平伏した。
「俺……いえ、私たちが正気である限り、必ずお守りします。だから、どうか姫様、生きることを諦めないでください」
「……」
やはりセシルは何も言えなかったが、心は不思議と落ち着いていた。
私が生きている限り、まだアディンセルは滅びない。いつの日か必ず、アディンセルを再興しよう。そして……
生きる目標ができた。
セシルは椅子に座り、ドレスの裾を直す。頬に残る涙の跡を拭うと、瞳に力を込めた。そう、王族はいかなる時も毅然としていなければ。
アンナの入れた茶を一口含む。とうてい味などわからなかったが、喉を伝う温度に生きていることを思い知らされた。
「……ライナスは、どうしているだろう」
兄のように慕い、もしかしたら恋心を抱いていたのかもしれない。今ここにいてくれたなら、どれほど心強いか。
「姫様、ご覧になられたでしょう。ガァラの渡河を許し、恐れ多くも両陛下を……」
そうだ。どうか見間違いであってほしいと目を背けたが。また、信じたくない事実を突き付けられる。
大きく息を吸って、吐いた。今度は取り乱したりはしない。
「愚かな」
時が来れば、アディンセルの王座は彼のものとなったであろう。セシルと並び、民たちに愛され祝福されたであろう。
何を焦り、急いだのか。
狭い部屋に沈黙が漂う。雨と雷の音はますます強くなり、部屋の外の音を全て掻き消した。
三人はじっと息をひそめ、これからの動きを思案する。この雨に紛れて城を出るべきか、敵が寝静まる夜半にすべきか。
動き出せないままに、時間だけが過ぎていく。