河南の王
南の砦よりライナスの報せが届き、城内は歓喜に沸いた。大臣と貴族は河南の王を迎える支度に追われ、指示を受けた召使いたちがあわただしく走り回る。衛兵は警備にすきがないよう何度も配置を確認し、噂を聞いた城下の人々は珍しいもの見たさに沿道に集まった。
「姫様、ご無理なさらない方が……」
侍女のアンナ・セネットは新しいドレスを着せつけながら、いまだに顔色の優れないセシルを気遣う。薄く化粧をほどこし、髪を結い上げると、セシルは鏡に向かって優雅にほほ笑みかけた。慣れたはずの作り笑いがぎこちないのは、きっと調子が戻っていないせいだろう。
しかしながら、大切な客人をもてなすことは王族の最も重要な職務、セシルも例外ではない。この一大事に、いつまでも伏せっているわけにはいかないのだ。
久方ぶりにバルコニーに立つと、大地を揺るがすほどの歓声が沸き起こった。
「セシル姫だ!」
「すっかりお元気になられて!」
「ああ、変わらずにお美しい!」
手を振り応えてやると、それだけで彼らは卒倒しそうになる。
そう、これが当然の反応なのだ。なのに、あの男は……思い出すとまた胸がしくしくと痛みだす。
「どうかなさいましたか?」
訝しそうに教育係に問われ、なんでもないと短く答えてまた笑顔を作り直した。
セシルに謁見を求めるものは、隣国の大使や高名な学者、文官武官と様々で、そのどれもに等しく正しく接するために日頃の勉強は怠っていない。手の振り方、お辞儀の仕方、ほほ笑み方ももちろんよく練習している。
だが、この時だけは、全ての作法をきれいさっぱり忘れてしまった。大きな瞳をめいっぱい開き、柵から身を乗り出すようにして城下を見遣る。
両隣では王と王妃が、背後では大臣も貴族も教育係でさえもが一様に。
かの美しい騎士ライナス・アルフ・コンラッドの隊列に先導され、ゆっくりと大通りを練り歩くのは、見たことのない巨大な獣たち。扇のような耳に長い鼻、太い足が地面を踏むたびに周辺の建物がぐらりと揺れる。
「なんと」
老齢なアディンセル王が、感嘆の息をもらした。その他の者は声すら出せずに震えている。
岩のような獣には金糸銀糸をあしらった装具が掛けられ、その上に堂々とあぐらをかく眼光鋭い男。きらりと光る冠は純金か、アディンセル王に引けを取らない。続く従者たちは整然として無駄がなく、いかに統率されているかがうかがえた。
「ガァラ王、ご到着!」
番兵が声高に叫び、礼砲が打ち上げられる。
「未開の地に住まう蛮族どもに、これほどの国力があったとは」
満足げにうなずくアディンセル王の瞳が、まるで獲物を見付けた狩人か新しいおもちゃを与えられた子供のように嬉々と輝いた。
ガァラと同盟を結ぶことで、河南との交易が可能になるだろう。新しい技術、珍しい品々が手に入るのは喜ばしい。
式典用の軍服を纏った美しい騎士団長が一歩前に進み、うやうやしく両国の王の前に膝をつく。それを合図に、ガァラの王が挨拶を述べた。
『親愛なるアディンセル王よ。我らは先刻、河南の地を平定し、一国を築いた。これよりは、河北の貴国と手をとり、大陸全土の平安を願う』
しわがれたガァラ王の声が雷鳴のごとく城内に響き渡る。臆病な貴族たちは思わず後ずさり、首をすくめた。
セシルもまた、耳を塞ぎたくなるのをぐっと堪える。ドレスの端を握りしめる手に、嫌な汗がにじんだ。
ガァラ王の言葉を追って、涼やかな声が慣れた言葉に訳す。ライナスだ。この短期間で未知の言語を覚え、巧みに話すとはさすがとしか言えまい。
耳心地の良い声にようやく人々は緊張を解き、改めて河南の王を歓迎した。
「さあ、酒の用意を。両国の安寧を願い、このよき日を祝そうではないか」
最高級の酒が振る舞われ、金銀の食器には贅を凝らした料理が並ぶ。楽師たちが華やかに曲を奏でると、いよいよ広間に熱が帯びはじめた。
アディンセル王がその富を見せ付けると、ガァラ王も負けてはいない、友好の証として荷馬車六台分の品々を贈った。
「まあ、すごい。姫様、ご覧ください。なんてきれいなのかしら」
侍女のアンナはセシルの世話を忘れて目を輝かせる。
大粒の宝石、華やかな織り柄の反物、とぼけた顔が愛くるしい珍獣は貴婦人たちを喜ばせ、一方で、薫り高い葉巻、新しい医学書、機械仕掛けの兵器の説明に騎士たちは夢中になった。
セシルは椅子に座ったまま、静かにその光景を見つめる。
場を取り仕切るライナスが眩しい。王を前にして怖気付くことなく、客人たちを気遣い、楽しい会話で皆を喜ばせ、文化の違う二つの国を固い絆で結びつけることに成功した。もはや次期国王、そしてセシルの夫となることに異を唱える者はいない。
顔を上げることもできず、大広間の片隅で震えている自身とは大違いだ。ひと知れずため息をつく。
『お気に召されませんかな?』
頭上から降る声に、どきりと身を固くする。ガァラの王だ。
間近で見るとますます恐ろしい。赤銅色の肌には無数の矢傷刀傷が刻まれ、いかに戦乱の世を生き抜いてきたかを物語る。烈火を思わせる髪と瞳の色が人間のそれとは思えず、セシルの恐怖心を煽った。
「あ……」
大切な客人に、動揺を気取られてはいけない。ドレスで隠れた足元に力を込め、背筋を伸ばし、最高の笑みを作る。震えていることは知られないように。
ガァラ王は獣の目でなぶるようにセシルを吟味した。
『ふむ……噂に違わず美しい』
逃げ出したい。
この男は危険だ。
恐ろしい。
セシルは心の中で叫ぶ。無意識にライナスを探すが、人だかりに阻まれ想い届くことなく。
「……申し訳ございません。あまりにお見事な品々で驚いておりました」
消えそうな声でそれだけ言うのが精いっぱいだった。
アディンセルの言葉がわかる側近が伝えると、ガァラ王は目を細め、満足げにうなずき、セシルから離れた。
セシルはほっと息をつき、近くにいた侍女を呼び付ける。
「まあ、姫様、お顔色が……!」
すぐに侍女は医者を呼び、大臣に知らせ、姫の退席を願い出た。機嫌よく酔っていた父王は血相を変えてセシルに駆け寄り、そっと髪を撫でてやる。
「おお、愛しい姫よ。そなたは具合が悪かったのだな。無理をしてはいけない。ささ、休むがいい」
「……申し訳ございません」
衛兵たちに前後左右を護られ、セシルは自室へと向かう。
客人たちは気を悪くしなかっただろうか。ライナスは軽蔑しているだろうか。
もっと強くならなければ。セシルは心の弱い自身を責めた。