誘惑の香
濃紺の空が次第に薄くなり、星たちは静かにねぐらに帰っていく。見張り兵は退屈そうに交代を待ちながら、大きなあくびをこぼした。寝ぼけた目に映るのは、もうもうと立つ砂煙。あわてて襟を整え、半鐘をうち鳴らした。
まるできらめく朝日のように眩しいそのひとは、騎士団長ライナス・アルフ・コンラッドだ。番兵はうやうやしく馬と外套を預かる。
「お疲れでございましょう、どうぞこちらでお休みください」
「変わりはないか?」
「はい。川は穏やかに流れ、憂慮すべきことなど何一つなく」
ライナスは執務室に簡単な食事を運ぶように言いつけ、休むことなく机に積まれた書類に目を通す。饒舌な補佐官の報告を聞きながら、ふと窓の外を見遣った。
悠然と流れる大河はアディンセルに肥沃な土地を作り、また外敵の侵入を阻む。もっとも川幅の狭いこの砦の付近でさえ、それなりの船を用意し、腕のいい船頭を雇わなければ、とうてい渡ることはできない。
いかに河南の蛮族どもが力をつけたところで、とうてい……しかしライナスは乱暴に茶碗を置き、立ち上がった。
「あれは……」
はるか対岸からそろりと近付く影が三つ。一つはライナスが放った密偵の小舟、その後ろに従い並ぶ二つは、立派な帆を広げた大型船。まさかとライナスは息を呑む。
「ライナス隊長にお目通りを」
先に岸につけた小舟から覆面の男が降り、番兵に取り次ぎを願い出た。男は執務室の窓の人影に気付き、覆面をはずして膝を折る。間違いない、密かに蛮族どもの動向を探らせていた者だ。
「申し上げます。先刻、河南の地を平定しましたガァラ族の王より、ライナス団長、いえ、アディンセル王に友好の使者が遣わされました。どうぞ、上陸の許可を」
ライナスは拳を握りしめ歯嚙みする。
蛮族と侮っていたが、これほどの船を造り扱う技術があったとは。他にどのような武器や仕掛けを隠し持っているのか、ライナスには想像もつかない。無下に追い返すこともできず、やむなく使者を受け入れる。
砦内は緊張に包まれ、みな固唾を飲んで成り行きを見守った。
炎のように赤い髪、赤銅色の肌、ぎらりと光る赤瞳は鋭く、しかし白い歯を見せて懐こく笑い、手を振る。不思議な紋様の着物を帯で締め、首や腕には色とりどりの宝石を飾り、剣は携えず、懐の小刀さえ行儀よく番兵に預け、静かに廊下を歩く様子はとても野蛮な部族には見えなかった。
「よくぞ参られた。話を聞こう」
ライナスの言葉は密偵役の男を介して伝えられ、使者の言葉もやはり同じようにして返される。
『親愛なるアディンセルの将軍様、お目にかかれて光栄です。我々ガァラは国と成ってまだ日が浅く、伝統ある貴国に認めていただければと存じます。つきましては……』
合図とともに運び込まれた品々に、一同はただただ驚くばかり。
純銀の盆に盛られた大粒の宝石、彼らの着物よりもさらに複雑な紋様の織物、いったい何に使うのか見当もつかない道具……使者の一人が長い筒のようなものを手に取り、窓の方に差し向けた。
どん、という鈍い衝撃。落雷か、大気が震え、部屋中に火薬のにおいが立ち込める。高い空で優雅に弧を描いていた鳥が一羽、すっと川面に落ちた。
「なに……を……?」
ライナスの武人としての本能が危険を察知する。恐れを気取られてはいけない。懸命に冷静を装った。
『新しい武器でございます。飛ぶ鳥も、獰猛な獣も、一撃で……』
薄く笑う使者は、まるで勝利を確信したように。なるほど、剣など不要ということか。
「……よろしい。城に使いをやりましょう。それまで、こちらでくつろがれるといい」
彼らに部屋を与え、食事と酒を用意してもてなす。なるべく、穏便にことを済ませたい。
『そうそう、将軍様にはこちらを』
机に置かれたのは、見事な銀細工の香炉と甘い香りを放つ香木。使者は石を打ち、香木を焚べる。白い煙がすっと伸び、得も言われぬ芳香にしばし時を忘れた。
『疲労を回復させ、意識を覚醒させ、お持ちの能力を何倍にもして引き出す作用がございます』
「う……む……」
不眠不休で馬を駆り、疲れていたはずの身体が嘘のように軽くなる。頭は冴えわたり、感覚は研ぎ澄まされ、ついに遠い彼の地の声まで届くほどに。
美しき騎士よ 汝は力を得た
さあ 何を望む
地位か 富か 権力か
心のままに得るがいい
得難きは奪うがいい
聞いてはならぬとライナスは耳をふさぎ目を閉じる。すると脳裏によぎるのは、あの中庭での会話……若い侍女と少年兵のささやく声が鮮明に、悪魔の声となり心の闇をかき乱す。
「私の……望む、ものは……」
剣を杖の代わりに身体を支え、しかし膝から崩れ、息苦しさにぜいぜいと喘ぐライナスを、無機質な赤い瞳が見下ろした。