午後の風
北の森の奥深く
竜とともに暮らし
竜とともに国を守る
強く優しい
竜使いがおりました……
さわやかな初夏の風が渡る。そわりと揺れる後れ毛が首筋をくすぐり、セシルはわずらわしそうに顔をしかめた。
午後の茶会はとうに終わったというのに、セシルはまだゆったりと肘掛けに体重を預けたまま、片付いていく会場を眺めている。部屋に戻ったところで退屈なだけ、楽しみの一つもない。
冷ややかなアイスブルーの瞳が映すのは、人々の欲望ののこり香。
高価なレースのテーブルクロス、白磁の茶器、方々から取り寄せられた珍しい菓子にはほとんど手を付けられず、朝に摘まれた花は用を終えてまもなく捨てられる。
まったく、こんなくだらない贅沢を、よく飽きもせずに毎日くり返せるものだ。
父であるアディンセル王は王侯貴族や豪商の息子、名家出身の騎士たちを選りすぐり、毎日の茶会に招いた。選ばれた者たちは国王とセシル姫の気を引こうと自慢話をひけらかす。
年老いた王の唯一の姫セシル・エノーラ・アディンセルはまもなく十六歳。そろそろ結婚の話をまとめなければ。
美しいセシル姫と国王の座を手中にと目論む者は少なくない。次々と現れる花婿候補の中から、国王と大臣たちは慎重に吟味した。
傾きはじめた日の光が木々の隙間より差し込み、しくしくと瞳の奥を刺激する。
「あらあら、姫様」
若い侍女が一人、セシルに気付いて手を止めた。
アンナ・セネットだ。暗い黒髪にそばかすだらけの頬と、けっして見目は良くなかったが、屈託のない笑顔はひとの心を明るくする。
「お帽子もかぶらずに。日に焼けてしまいますわ」
いそいそと日傘を用意し差しかける。視界がさえぎられ、かすかに眉をひそめた。
そんなセシルの気持ちは知らず、楽しげに世話を焼く。下級貴族出身のアンナにとって、高貴な姫君に仕えることは何よりも誇らしいことなのだ。
「ああ、姫様の白いお肌に、そばかすができてしまったらどうしましょう。あとでいい美容液をお持ちしますから、しっかりお手入れしましょうね」
その美容液に効果があるのなら、ぜひこの気のいい侍女にも使わせてやりたいと、セシルは思う。
美しいセシルは、いつも難しい顔をしていた。アンナは少しでもその気鬱を晴らし、笑っていてほしかった。彼女の笑顔は極上の宝石に勝る。
「新しいお茶をお煎れしましょうか?」
「いらぬ」
つい先ほどまで、さんざん甘ったるい菓子を食わされ、男たちの自慢話を聞かされていたのだ。胸やけがして仕方がない。
「では、おぐしを」
アンナは緊張し、しかし心をときめかせながらそっと髪に触れる。
きつく結わいたリボンが解かれると、豊かな金糸が風に舞った。少しばかり窮屈な心もほぐれたような気がする。
アンナは髪を結うのがうまい。
慣れた手つきで櫛をすべらせ、緩く編みこんでいく。その優しい力加減が心地良く、うっとりと目を細めた。
つまらない毎日。
くり返される日々。
セシルの花婿を選別するはずの茶会では、ただにこやかに笑うことだけが許されていた。貴婦人に無駄なおしゃべりなどは必要ない。
まったく、つまらない。
目の前のテーブルクロスを引けば、茶器が小気味の良い音を立てて砕け散るかもしれない。だが、それだけのこととセシルは知っていた。
何か不備でもあったかと、侍女たちが数名ばつを受けるかもしれない。それはセシルの望むところではなかった。
ため息をつくことさえ忘れたように、ぼんやりと宙を見つめる。
いつから、これが宿命だと悟ったのだろう。
浮かない顔のセシルを案じ、何かおもしろい話題でもないかとアンナ・セネットは記憶を探る。そしてふと瞳を輝かせた。
「そうそう、姫様」
周囲に聞かれないように声を落とすが、その口調は明るく楽しげで、セシルは思わず耳を傾ける。
「北の森に住む、竜使いのことはご存知ですか?」
「竜使い?」
ぴくりと眉が動いた。
アンナはいつも仕事の合間をぬって、世間話や噂話を聞かせてくれるが。それらは大通りにできた菓子屋の評判だとか、誰かと誰かの恋の行方だとか、他愛のないものばかりだった。
明らかに異質だ。
「はい。北の森には大きくて強い竜が住んでいて、その力を自在に操る竜使いが共に暮らしているそうですよ」
セシルは少しだけ笑った。
それほど大きくて強い竜を、なぜ今まで誰も見たことがないのだ。竜などを見つけたならば、きっと大騒ぎになるだろう。父王も大臣も軍も、その力を得ようと躍起になるに違いない。
しかし、一度もそのような話は聞いたことはなかった。
「それが、竜使いめはたいそう人間嫌いだそうで。住み処の周囲に結界を張り巡らし、誰も近寄れないようにしているのです」
ならばなおのこと。誰も近寄れず、見たことのないものの話をなぜ知っている。
退屈な空想家の愉快な作り話か。
「もう、姫様ったら信じてくださらないのね」
そしてアンナもふふっと笑った。
優しい風が木々を揺らす。
「アンナ! さぼってないで働けよ!」
突然、背後から怒鳴りつけられ、アンナは身をすくめた。が、その声がまだ幼さの残る少年兵のものだと気付き、胸を撫でおろす。
「なんだ、コーザじゃない。さ……さぼってなんかいないわよ!」
リボンの形を整えるふりをするが、髪はずいぶん前に結い上がっていた。
「嘘つけ! 手を止めて、姫様につまらない噂話を聞かせていただろう!」
つまらないことはなかった。目新しい話題に心ときめいていたのに。
つまらない。
「なによ、あんただってこんなところで何してるのよ!」
アンナも負けじと怒鳴った。
顔を合わすたびに喧嘩口調になる二人だが、本当は仲が良いことをセシルは知っている。
うらやましい。
「俺か? 俺はライナス団長のお迎えだ」
「まあ! ライナス様がお戻りになるの!」
コーザと呼ばれた少年兵が誇らしげに胸を張ると、しかしアンナはその大役よりも団長の帰還を喜んだ。コーザはぷんと膨れる。
若くして騎士団長を務めるライナス・アルフ・コンラッドは、娘たちの憧れの存在だった。まるでお伽話から抜け出したような端麗な容姿、国一番の剣の腕、出自も申し分ない。甘い声は厭味なく気の利いた言葉を紡ぎ出す。
女性たちが放っておくはずがない。
セシルも顔を緩めた。
と、その時、涼やかな風をまとい、美しい騎士が馬を降りた。
「いつまで待っても迎えが来ないから、先に帰ってきてしまったよ」
驚いてコーザが振り向くと、そこには長身の男がほほ笑んでいた。噂のひと、ライナス・アルフ・コンラッドだ。
「団長! も、申し訳ありません!」
急いで剣と馬を預かり、深々と頭を下げる。セシルと、頬を紅く染めるアンナとは正反対に、緊張で顔を強張らせた。
ライナスはコーザを叱ることもなくほほ笑みかけ、セシルの前で優雅に膝を折る。ドレスの裾を手に取り、そっとくちづけた。
「ただいま戻りました。ご機嫌はいかがですか」
「うむ……」
悪いわけではないが、かといって良いわけでもない。曖昧な答え。
「なにやら北の森の話をされていたようですが」
セシルはどきりとした。俗事に興味を示すなど、はしたないとたしなめられるだろか。
しかし金色の巻き毛をかきあげ、ライナスは笑った。太陽のように眩しい。
「最近、街で人気の書物ですね。お望みでしたら、次にお持ちいたしましょう」
セシルは少し考え、不要と首を振る。続きがあるならば、またアンナが聞かせてくれるだろう。あるいは、ライナスがその話術で楽しませてくれるか。
そして、やはり作り話かと思うと、少し残念な気がした。
「さあ、姫。そろそろお部屋に戻らないと。あまり風に当たりすぎるのはよろしくない」
立ち上がり、手を差しのべる。セシルは貴婦人らしくその手に自分の手を重ねた。
並ぶ後ろ姿が美しすぎて、アンナとコーザは目を細め、ただため息をつく。
「姫様とライナス様がご結婚なさればいいのに」
つぶやいた言葉は、概ね世論を映していた。
皮肉なことに、任務があるからと茶会には欠席してばかりいるライナスこそが、最有力の夫候補なのだ。
セシルに恋心があるのかは誰にもわからない。しかし、他の男たちよりも心を許しているのは確かだった。
なにせ他の男たちには、あからさまな欲が見える。王位、あり余る富、美しいセシル……
不必要に近寄ろうとせず、かつ望めば側に控えているライナスは、安心できる存在であった。
「団長が姫様と結婚なさったら、オレを親衛隊に取り立ててくださるかな」
アンナは呆れ顔で肩をすくめた。
「あつかましいにもほどがあるわ」
まだ戦場を知らず、城内警備しかしたことのない身で大きく出たものだ。
「私が女王様付きになるほうが現実的ね」
ふふんと笑うと、コーザは面白くなさそうにくちびるを尖らせた。
「アンナ! 何をしているの! 片付けが終わったのなら、廊下の花を取り替えてちょうだい!」
遠くから古株の侍女が怒鳴る。アンナとコーザは顔を見合わせて、肩をすくめた。
「あ、コーザ。頼まれてたシャツのほつれ、直しといたわよ」
「おう。じゃあ、夕飯のあとに」
「中庭の噴水で」
そして辺りに誰もいないのを確認してから、そっと口づけた。