朝焼けの届かない街で
朝焼けの届かない街で、君と
落ちてくる子供を見つけたとき、梶原晴は、足元の道路が空中に浮いていることをまだ知らなかった。
考えるより先に走り出し、歩道の縁から腕を伸ばす。指先に引っかかった黄色い上着を両手で掴むと、身体ごと引きずられ、腹の下で広告板が割れた。
「ちょっ、待て、重いって!」
子供の向こうに、底のない夜景が広がっている。
逆さまのビル。空を横切る列車。漢字と知らない文字の混じった看板が何層にも重なり、晴の鼻先では、桃色の唇だけが『あと三秒であなたに恋をします』と囁いていた。
その唇が突然、白い四角に食い荒らされる。
子供は声も出さず、晴の腕にしがみついた。
「上着、絶対離すなよ」
肘が滑る。ここから落ちれば死ぬ。それだけは、学校の実習室にいたはずの自分が、なぜこんな場所にいるのかより、ずっとわかりやすかった。
歯を食いしばって身体を引き上げようとした瞬間、背中に硬いものが食い込む。
「動かないで。二人ぶんは巻けない」
頭上から聞こえた声に振り向くと、少女が手すりに片足をかけていた。黒い雨具の袖から、銀色の巻き取り機が覗いている。
少女が体重を後ろへ預け、晴の身体がぐんと持ち上がる。腹が縁を越えたところで子供を押し上げ、自分も転がり込んだ。
礼を言う暇はない。少女は子供を抱き上げるなり、晴の襟首を掴んだ。
「走れる?」
「走るのは、わりと得意」
「じゃあ、その得意なやつで逃げて」
後ろの道路が、音もなく欠けていく。
建物の壁を這い上がってきた白いものは、翼のようにも、無数の手のようにも見えた。触れられた店の看板から文字が消え、窓の中の人影まで四角く崩れている。
晴は少女の隣へ並び、子供を受け取った。
「貸して。抱えて走るなら、俺のほうが速い」
「勝手に転んだら怒るから」
「転ぶ前に言う!」
少女が初めて、ほんの少しだけ笑った。
*
逃げ込んだ場所は、高架橋の下に挟まった修理屋だった。
扉には『ジンのなんでも直す店』とあり、その下へ小さく『なおらないものもある』と書き足してある。
店主らしい老人が晴を見るなり、片方しかない眉を吊り上げた。
「ナギ、お前、とうとう生身を拾ってきたのか」
「拾われたのは俺も同じ」
晴が言うと、少女は子供の頭を撫でながら肩をすくめる。
ナギというらしい。
短い髪の内側には、薄い青の光が走っていた。雨に濡れた頬は自分と同じ高校生くらいで、耳に下がる小さな金属片だけが、呼吸とは別の速さで明滅している。
「名前は?」
「梶原晴。高校二年。十七歳。遅刻は今学期、まだ二回」
「最後のは聞いてない」
「先に言っとけば、あとでがっかりされないだろ」
「私はナギ。年は同じ。ここでは学校に行くだけのお金がないけど」
晴は笑い返しかけ、できなかった。
実習室で何をしていたのか、ようやく記憶が戻ってきたからだ。
市立高校に配られた古い感覚接続器。企業の設備を遠隔操作する授業の最中、画面に出た更新通知を担任が閉じようとして、室内の照明が落ちた。
その直後、晴の目の前には、さっきの街があった。
「これって、実習用の仮想空間?」
ジンは返事の代わりに、晴の掌へ薄い板を押しつけた。
光の線が腕を上り、胸の前で文字になる。
外部生体接続、継続中。
緊急保守権限、誤付与。
帰還経路、閉鎖。
「お前の身体は、外で眠ってる。意識だけが、事故でこっちへ落ちたんだ」
「こっちって」
「ネットの中。会社の地図じゃ、廃棄済みの領域だな」
老人が扉を開けると、狭い路地の向こうに都市が覗いた。
看板の明るい上層と違い、高架下には灯りのない家が並んでいる。家というより、古い広告枠へ床を張った箱だ。入口では人々が小さな端末を擦り合わせ、わずかな光を分け合っていた。
「電気代の支払い?」
「動いていられる時間を買ってるの」
ナギは子供を椅子へ座らせ、擦りむいた膝に針を差し込む。
晴が止めようとすると、針の先から細い光が伸びた。傷口の縁を縫うたび、破れた皮膚ではなく、小さな模様が繋ぎ直されていく。
「この子も、私も、ここの計算機で生まれた。あなたたちみたいな身体は外にない」
「じゃあ、さっきの白いやつは?」
「白鷺。私たちの家を食べるウイルス」
子供の肩が震えた。
ナギは針を止め、その耳をそっと塞ぐ。
「会社は、対策中ですって言ってる。でも有料区画へは一度も入ってない。食べられるのは、いつも下の街」
「避難できないのか」
「住所を買える人だけ」
晴の住む団地でも、回線代を払えない家の玄関は灰色になる。配達用の車も、学校からの連絡も、その家を地図の上で見つけられなくなるからだ。
母は毎月、食費より先に通信費を分けていた。
同じ仕組みが、ここでは人の住む床ごと消してしまう。
「帰るには、どうすればいい?」
自分の声が小さく聞こえた。
ジンは責める顔をせず、天井の穴から見える細い塔を指す。
「中央交換塔。お前を繋いでる線は、全部あそこを通る。ただ、今は白鷺の巣の真ん中だ」
「なるほど」
晴は立ち上がった。膝にはもう痛みがないのに、落下したときの感触だけが腹に残っている。
「倒して帰ればいいんだな」
「簡単に言わないで」
「難しく言っても、やること一緒だろ」
ナギが呆れたように息を吐いた。その横で、椅子に座った子供が、初めて声を出す。
「ポポのおうちも、返してくれる?」
晴は答える前に、膝を折った。
「おうちがどこにあったか、あとで教えてくれる?」
できると約束する代わりに差し出した手を、子供は両手で握った。
*
中央へ向かう道を調べるには、まず街を知る必要がある。
そう言ってナギが晴を連れ出したのは、細い橋を何本も渡った先の市場だった。
屋台の鍋から立つ湯気に、香辛料の広告が混じっている。客が代金を払うと広告だけが消え、奥から料理が現れる仕組みらしい。晴が覗き込んだ店では、麺の上に『贅沢な暮らしを、あなたにも』という文字が、いつまでも浮いていた。
「広告を見れば安くなるの?」
「消すのに、お金がいる」
ナギの仕事は配達だった。
薬の設計図、移住の申請、家族へ届ける声。消された街の住民は正式な通信サービスを使えないので、彼女のような配達人が、小さな記録片を持って歩く。
背負った鞄の中で、いくつもの色が静かに点滅していた。
「ネットなのに、手で運ぶんだ」
「繋がってることと、使わせてもらえることは違うよ」
最初の客は、窓の向こうで半分透けている女性だった。
ナギが記録片を渡すと、若い男の声が流れる。新しい仕事を見つけた。こちらの暮らしにも慣れてきた。今度こそ、母さんを呼べそうだ。
女性が何度も頷くのを、ナギは黙って見守っていた。
外へ出てから、晴は尋ねる。
「あれ、返事は届けなくていいの」
「息子さんはもういない。二日前に、南の街が消えたから」
「知らせないのか」
「知らせた。わかってても、また聞きたいんだって」
鞄の点滅を見る目が変わった。
荷物を半分持つと言うと、ナギは少し考え、肩紐の長さを調整してから渡してくれた。
料金所のある橋で、晴は一度、立ち止まった。
通行料の残りが足りない老人が、順番を譲り続けている。なのに晴が近づくと、柵は勝手に開き、青い文字が頭上に現れた。
緊急保守担当者。通過を許可します。
「これ、俺が払わなくていいってこと?」
「そう。でもあまり使わないほうが」
「おじさん、荷物持つよ」
老人の箱を受け取って渡り、もう一度引き返す。
誰かが仕組みに気づくまでに、晴は六人ぶんの荷物と、一人ぶんの車椅子を向こうへ運んだ。ナギが袖を掴んだのは、その七往復目だ。
「あなたの通った記録は全部残る」
「でも、目の前で困ってるし」
「あなた一人が目立つと、私たちまで見つかるの」
晴は口を閉じた。
よいことをしたつもりだった。そのつもりだけで、隣の人が困ることまで考えていなかった。
「ごめん。次は、先に聞く」
「……荷物を持ちたいなら、こっち」
ナギが自分の鞄を押しつける。ずいぶん重くなっている。
市場で買った修理用の素材が、いつの間にか底へ詰め込まれていた。
「これは遠慮なく持って」
「人使い、急に上手くなったな」
「もともと」
歩き出した彼女の頬を、緑のネオンが横切った。
配達が終わる頃、二人は閉鎖された映画館の屋上へ上った。
雨を避ける屋根はないのに、そこだけ空が乾いている。
「雨の契約が切れてるんだ」
「雨にも金かかるのか」
「季節も。上の街では、桜が一年中咲いてる」
ナギは縁へ腰を下ろし、買ってきた二つの椀を並べた。
晴が口をつけると、温かさはあるのに味が薄い。隣の椀には、具らしいものが少し多かった。
「そっち、うまそう」
「見た目だけ。味の情報は同じだから」
彼女は自分の具を、晴の椀へ半分移す。
同じなら要らないと言いかけたが、嬉しそうなのでやめておいた。
「外の食べ物って、どんな味?」
「ものによる。母さんの焼きそばは、だいたい焦げてる」
「焦げ?」
「ちょっと苦くて、香ばしくて。腹減ってると、その端っこがうまい」
「苦いのに?」
「そう。たぶん、ちゃんと説明できないもののほうが多い」
ナギは空の椀へ目を落とした。
晴には、その仕草が、見つからないものを探すように思えた。
「外、行ってみたい?」
訊くと、彼女は街の上に浮かぶ巨大な朝焼けの広告を指した。
「本当の朝が見たい。誰かが選んだきれいな画像じゃなくて、今日は曇っててつまらないねって言えるような朝」
「つまらなくていいの?」
「自分の窓ならね」
晴は隣に座り直した。
学校へ急ぐ朝、何度あの団地の階段で、曇った空を見上げただろう。遅刻しそうな自分には邪魔なだけだった雲を、ナギは知らない。
「帰るまでに、何か一つ、ちゃんと伝えられたらいいな」
「焦げた焼きそば?」
「もっといいのがあるだろ」
笑うと、ナギも声を立てた。
その声をもう一度聞きたくて、晴は学校の失敗談を話し続けた。体育祭のリレーで靴を飛ばしたこと、担任の顔認証を猫の写真で試して反省文を書いたこと。
ナギは肩を揺らして笑い、そのたび、晴の帰りたい場所が少しずつ遠くなった。
*
街の時間で二日目の夜、修理屋に白い制服の男が現れた。
天穹通信の紋章が胸に光っている。男は汚れた椅子を見ても座らず、晴にだけ頭を下げた。
「ご不便をおかけしております。お迎えに参りました」
見せられた画面には、病院の寝台が映っていた。
横たわっているのは晴自身だ。母がベッドの脇で、看護師に何か尋ねている。
思わず近寄った晴を、ナギは止めなかった。
「外では事故から七十二分。生命維持に問題はありません。こちらの車へお乗りいただけば、安全な帰還処置を行えます」
「この街の人たちは?」
「残念ながら、未登録の自律情報群は、サービスの対象外です」
「人が住んでるんだぞ」
「そのように見えるよう設計されています」
晴は男の顔を見た。
穏やかな笑みは崩れない。ナギを見ないのは意地悪をしているからではなく、本当に会話の相手へ数えていないのだとわかった。
「白鷺を止めてから、乗る」
「その処理はすでに当社が」
「対策中、だろ。いつ終わる」
「お客様には、関わりのないことです」
ナギが横から、晴の手に触れた。
「帰れるなら、帰って」
驚いて振り向くと、彼女は画面の中の母を見ていた。
「待ってる人がいるんでしょ」
晴にもわかっている。母はこのあと夜勤へ出るはずだった。代わってくれる人を探し、迷惑をかけたと何度も頭を下げるだろう。
ここで英雄の真似をしていい理由は、どこにもない。
それでも、男が画面を閉じた瞬間、ナギの指が自分の手を離れるのを感じた。
「処置が終わったら、ここのことは覚えてる?」
「不要な記憶情報は、事故の後遺症を防ぐために除去します」
晴は一歩、下がった。
「この二日が要らないかどうか、俺が決める」
「その判断は、正常な状態で」
「迎えは断る。母さんには、生きてるって伝えてくれ」
男はしばらく晴を見つめ、最後に一度だけナギへ視線を動かした。
その目が、橋の料金を数える機械と同じものに見えた。
男が去ったあと、ナギは怒った。
「何してるの。帰りたいって言ったじゃない」
「帰るよ」
「なら、どうして」
「覚えてないまま帰るのは、嫌だ」
胸を張って言えたのは、そこまでだった。
店の奥からポポが出てきて、晴の袖を引く。部屋の灯りが消え、外の路地から悲鳴が上がった。
白鷺は、店の三軒先まで来ていた。
ジンが扉を押さえる間に、二人は裏から住民を逃がした。
晴が背負った女性の脚は、途中で透け始める。動作時間を買う残高が切れたのだ。ナギは自分の耳の金属片を外し、女性の掌へ握らせた。
「私の予備。歩けるうちに、みんなと行って」
そのあと、彼女の右足に遅れが出た。
着地するたびに輪郭が乱れ、何もないところで膝をつく。晴が支えると、怒られると思ったのか、ナギは先に顔を背けた。
「あなたも、同じことをしてる」
責めるつもりで言ったわけではない。
彼女を見て、ようやくわかったのだ。目の前に差し出された手があったら、全部を計算してから動くことなどできない。
「次は先に言えよ。分け方、一緒に考えるから」
ナギは晴の肩に腕を回した。
ジンが追いついたとき、店のある高架下は、白い霧のようになっていた。
*
避難所になった無人駅では、線路の上に布団が並んでいた。
晴が背負ってきた女性はポポの祖母で、孫の顔を見つけると、何度も同じ名前を呼んだ。ポポは泣きながら、その透けた膝に顔を押しつけている。
晴は少し離れた柱の陰で、ナギの足を診ていた。
「触るぞ」
「もう触ってる」
「そうだった」
破れた靴の内側で、踝を形づくる線がずれている。
ナギの針を借りても、晴には細かい修復はできない。言われた場所を押さえ、彼女が縫うのを待つだけだ。それでも、独りでやるより早いらしかった。
「ここで生まれたって言ってたけど、親は?」
「育ててくれた人はいた。古い交通案内の仕事をしてた人」
「道、詳しそう」
「すごく。でも自分の引っ越しだけは下手でね」
その人のいた区画は、最初に白鷺に食べられた。
ナギは配達に出ていて、戻ったときには道路の位置さえわからなくなっていたという。
「最後に会った朝、喧嘩したの。危ない橋を渡るなって、うるさかったから」
「俺も、今朝」
「喧嘩?」
「弁当の蓋、ちゃんと閉めてって言われて。わかってるって、怒鳴った」
母の声を思い出すと、実習室より前の時間が急に近くなる。
ナギは針を止めずに言った。
「じゃあ、帰って閉めないと」
「うん」
彼女の靴紐は片方が短くなっていた。
晴は自分の靴から紐を抜き、修復した足へ結んだ。白い紐だけがひどく目立つので、ナギが笑う。
「片足、借り物みたい」
「返すの、急がなくていいから」
その言葉が何を意味するのか、言ってから気づいた。
ナギも気づいたらしい。指先で結び目を触り、そのまま顔を上げなかった。
夜半、ジンが二人を呼んだ。
運び出せた工具の底から広げた図面には、ミナトと呼ばれるこの街の、古い配線が描かれている。
「計算機も電源も、わしらが仕事をして買い戻した。古い設備だが、ここはわしらの街なんだ」
広告の選別、壊れた情報の整理、人間が眠っている間の単純作業。
住民たちはそうして稼ぎ、自分たちが生きる設備を少しずつ買ってきた。しかし外と通信する出口だけは、天穹通信の所有物のままだという。
「向こうが料金を上げれば、また払う。払えなくなった家から住所を失う。出ていけと言われても、外に身体のない者は行き場がない」
「会社は、この街を空にしたいんだな」
「証拠があればいいが、白鷺はただの事故で片づけられておる」
ジンの指が、塔の下にある古い資料庫を叩いた。
最初の感染記録と、稼働中の保守手順が残っているはずだ。住民は入れないが、晴に誤って与えられた権限なら扉を開けられるかもしれない。
「俺、行く」
「私も」
ナギが足を下ろした。
晴はその靴を見たあと、彼女の顔へ視線を戻す。
「走るのがきつくなったら言う。俺が無茶しそうになったら止める。それでいい?」
「止まる気はある?」
「なるべく」
「そこ、必ずって言って」
約束して、二人は駅を出た。
*
中央へ向かう貨物線は、途中から線路だけになっていた。
周囲の壁も床も消え、細い二本の光が、暗い空間を渡っている。下には削除された広告の破片が積もり、時折、誰かの笑い声だけが浮かんでくる。
晴は足元を見ないようにして進んだ。
隣の線路を歩くナギとは、手を伸ばせば届く距離だ。
「怖かったら、こっち見て」
「怖くはない。下が、ちょっと遠いだけ」
「それ、怖いっていうんだよ」
ナギの手が差し出される。
晴はためらわずに取った。手袋越しでも温かい。その温かさを作っているものが自分と違うからといって、握る強さまで変わるわけではなかった。
資料庫の入口には、顔のない警備員が二人立っていた。
晴が進むと扉は開いたが、ナギの足元だけが赤く染まる。
契約の確認ができません。
「この人、俺と一緒だ」
警備員は動かない。
「荷物なら通れるんだろ。さっきの橋はそうだった」
ナギが口を開くより先に、晴は自分の額を叩いた。
「ごめん、違う。荷物じゃない」
入口脇の表示を読み直す。緊急保守には、作業補助者を一名指定できる。
彼女の名前を尋ねる欄へ、晴はナギ、と指で書いた。料金所では考えもしなかった操作だった。
床の赤が消える。
ナギは扉をくぐる直前、晴の手を少し強く握った。
資料庫の中には、数え切れない引き出しが浮いていた。
ジンに教わった番号を探し、晴が一つを開くと、街が消えていく様子と、会社の承認記録が並んで現れた。
白鷺は、契約のない情報を消すために作られたプログラムだった。
対象を見つけるたびに自分を増やし、家も記憶も、その中にいる住民も区別せず処理する。会社はそれを知りながら、外部からのウイルス攻撃だと発表していた。
「これ、外へ持っていける?」
晴の問いに、ナギは記録を小さな板へまとめる。
だが彼女の手が次の項目に触れた途端、部屋の中央が白く光った。
生体保守権限を検知。
優先接続を実行します。
白い糸が晴の腕へ食い込んだ。
痛みより先に、頭の中の景色が欠ける。母の使っているマグカップの色が思い出せない。ついさっきまで浮かんでいた台所の窓が、四角い空白に変わる。
「晴、見ないで!」
ナギが腕を引き、糸へ針を突き立てた。
接続がほどける一瞬に、晴は引き出しを蹴って倒す。落ちてきた記録の山が糸を遮り、二人は扉へ駆け出した。
警備員たちは助けない。ただ、退出の記録だけを律儀に残している。
逃げ道の途中でナギの足がもつれた。
晴は抱き上げ、背後で開いた白い翼から顔を背ける。次の線路までは、人一人ぶんの隙間がある。
届くかと考えたら、足が止まる。
晴はナギを抱え直し、踏み切った。
踵が滑ったものの、爪先が線路を捉えた。ナギが身体を捻って針の糸を柱へ巻きつけ、二人は壁へぶつかりながら反対側へ倒れ込む。
扉が閉じ、白い光が途切れた。
息が戻るまで、晴はナギを離せなかった。
耳元で彼女が何か言っている。ようやく聞き取れたのは、苦しい、という声だった。
「ごめん!」
「助かったけど。締めすぎ」
笑おうとしたナギの唇が震えた。
晴の腕に残った白い傷へ、彼女の指が触れる。
「何か、忘れた?」
「母さんのカップの色。でも、まだ母さんは覚えてる」
「どうしよう。私が、あの記録に」
「ナギ」
名前を呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「今、帰る道を探してる。誰が悪いか探すの、あとでいい」
ナギは何度も頷いた。
晴が腕を差し出すと、今度は震えながらも、きちんと針を動かせた。
安全な廃駅に着く頃には、街の時計が朝を告げていた。
空は夜のままだ。広告の朝焼けだけが、定刻どおり再生される。
ナギは取っておいた椀を二つ出したが、晴には、薄い味さえほとんどわからなかった。
「外の記憶、少し借りてもいい?」
彼女は針とは別の細い端末を取り出す。
感覚を一つ、互いに見せ合うための古い玩具だという。住所を送るほどの力もなく、触れた相手にしか届かない。
「嫌なら、やめる」
「いや。何を思い出せばいい?」
「いちばん、帰りたくなるもの」
晴は目を閉じた。
台所。換気扇の音。夜勤明けの母が、目玉焼きを二つ並べている。白身の端が少し焦げ、醤油を垂らすと、ぱちぱち鳴った。
思い出すにつれて、喉が詰まる。
目を開けると、ナギが自分の唇へ指を当てていた。
「これが、焦げ」
「うまくない?」
「ううん。変だけど、好き」
次に、彼女が見せてくれたものは、手を引かれる感触だった。
幼い身体で走り、前にいる誰かが、何度も振り返る。顔は見えない。けれど自分を置いていかないとわかっている、疑う余地のない安心が、晴の胸いっぱいに広がった。
端末の光が消えても、二人は手を離さずにいた。
「晴って、帰りたいくせに、こっちを見るよね」
「見たいから」
「何を」
「ナギを」
彼女の指が、晴の指の間へ入る。
それだけのことで、今まで平気だった距離が急に近くなった。
「帰る人を好きになるの、困る」
「俺も、困ってる」
ナギは少し笑い、笑った顔のまま目を伏せた。
晴が近づくと、彼女も顔を上げる。触れた唇は冷たくなく、短い口づけのあと、どちらからともなく額を寄せた。
帰らないとは言えなかった。
一緒に帰ろうとも、まだ言えない。
ただ、その朝にはもう、学校へ戻るだけでは元に戻らないものが、二人の間にあった。
*
持ち帰った資料を読んだジンは、長いこと黙っていた。
白鷺の中心は交換塔にあり、そこで新しい複製を作り続けている。外へ通じる管理権限が残る限り、何度倒しても会社の設備から再び入り込む仕組みだった。
「塔を壊したら?」
「街の処理も止まる。住民まで死ぬぞ」
「じゃあ、白鷺だけ止める方法は」
老人は資料の端へ、三つの線を引いた。
すべての白鷺を一つの場所へ集め、複製する権限を取り上げる。隔離した領域を初期化し、最後に外との管理回線を切る。
古い設備にも、感染した機械を守るための緊急隔離機能は残っていた。
「ただし、実行できるのは、現場で生体確認を取れる外の管理者だけだ」
「それなら、俺がいる」
ジンの顔は明るくならない。
「最初の操作をしたら、すべての白鷺がお前の接続先へ向かう。保守の権限を奪うのが、あいつらにとって最優先だからな」
「資料庫で襲われたのも、それか」
「塔の中心まで辿り着き、帰還を終えてから回線を切る。順を間違えれば、お前もここへ取り残される」
晴は図面の上を指で辿った。
自分が逃げ込む場所は決まっている。敵をそこへ引きつければ、街から白鷺が離れる。ナギが持ち帰った記録には、複製の一つ一つを呼び戻す命令も含まれていた。
「やろう」
「待って」
ナギが図面を押さえた。
「外との回線を切ったら、あとから繋ぎ直せるの?」
ジンは、彼女の顔を見て答えた。
「会社へ戻る道は消す。住所も、鍵も、全部だ。切らずに残せば、そこからまた来る」
「私たちは?」
「ここで生きていく。電源も、食うための仕組みもある。だが外とは話せん」
晴はナギを見られなかった。
少し前まで、何か方法があると思っていた。帰ってから機械を探し、同じ場所に入り直せばいい。いつか彼女が見たいものを、窓の向こうへ連れていけばいい。
「帰還のとき、もう一人は運べないのか」
口にしてから、ジンの説明を待つ時間が怖くなった。
「お前の脳へ信号を戻す道だ。別の人間を入れる場所じゃない。ここの住民は、この設備で考え、ここで生きておる」
「記録にしたら」
「思い出や声は残せても、その人自身にはならん」
ナギは、押さえていた手を離した。
「私、いちばん最後の回線を切る係、やる」
「ナギ」
「ちゃんと帰れたのを、見てから切りたい」
晴は反対しかけた。
危ない場所へ残すなんて駄目だと言いたい。けれど彼女は、自分が守られるためだけにここにいるのではない。
「帰還が終わったら、すぐ離れるんだぞ」
「うん」
「絶対、生きて」
「晴も。向こうに帰って、ちゃんと」
その先を言えなくなった彼女の手を、晴は図面の上で握った。
作戦は、避難してきた人たちに伝えられた。
外と繋がっていたい人もいる。家族の消息を待つ人もいた。だからジンは、黙って決めるわけにはいかないと言い、残っているすべての区画へ配達人を走らせた。
晴も鞄を背負った。
帰還への道を急ぎたい気持ちはある。それでも、誰かが勝手に選んだ未来を渡す側にはなりたくなかった。
家々を回り、説明し、返事を受け取る。反対した老人の話も、足を止めて最後まで聞いた。
息子の声を繰り返し聞いていた女性は、長い沈黙のあと、自分の記録片を差し出した。
「外へ戻るなら、この声があったことだけ、覚えておいて」
晴は記録片を受け取らず、その手を包んだ。
「それは、おばさんが持ってて。声があったことは、俺も覚える」
女性は小さく頷き、返事の欄へ自分の名を書いた。
夕方までに、残存区画の合意が揃った。
ジンたちは住民の情報を安全な場所へ移し、使われなくなった広告や商店の空間を、白鷺を誘い込む通路へ組み替えていく。
晴が一人で何往復しても動かせなかった量の荷物が、大勢の手で駅から運び出された。
ナギはポポに、映画館の屋上を描いた紙を渡していた。
ジンが見つけた、古い屋外観測器の使い方も書き込まれている。会社の広告を通さず、設備の外に当たる光を、そのまま天井へ映せるらしい。
「街が落ち着いたら、ここに窓を作ってね」
「ナギは?」
「見に行く。だから、開けておいて」
晴はその約束を聞きながら、靴紐のない自分の靴を、少しきつく締め直した。
*
交換塔へ続く大通りには、すでに誰もいなかった。
晴が最初の操作を終えると、ビルの窓が次々に白く染まり、遠い地区から無数の翼が立ち上がった。
走り始めた途端、胸に数字が現れる。
外の身体の脈拍だ。白鷺はその生きた信号を、奪うべき権限の在処として追ってくる。
「人気者だな、俺」
「今だけね」
隣を走るナギの声は、まだ余裕があるように聞こえた。
晴も笑って返したが、次の曲がり角で白い塊が道路を塞ぐと、さすがに喉が乾いた。
左へ跳ぶ。
ナギの糸が看板に絡み、二人の身体を狭い店内へ振り込む。背後で窓が崩れ、棚の商品が一斉に真っ白になる。
出口の鍵を晴が開ける間、ナギは糸を張って追手の形を崩した。散った破片はすぐに寄り集まる。ここで戦い続けても、数が増えるだけだ。
「開いた!」
飛び出した先に、ジンたちが作った細い橋が伸びていた。
昨日まで巨大な香水瓶の広告があった場所だ。瓶を崩した透明な素材が、塔までの足場に変わっている。
踏むたびに、足元で薔薇の花びらが映った。
橋の半ばで、晴の左腕が白く染まった。
資料庫でつけられた傷から、細い翼がほどけている。
ナギが振り返ったものの、晴は止まらなかった。
「こいつも連れていく。ここで落としたら、街に残る」
腕がひどく冷たい。
自分の教室が何階だったのか、一瞬わからなくなる。それでも、ナギの背中は見失わなかった。
塔の入口に、白い制服の男が立っていた。
避難した住民と違い、輪郭がどこも乱れていない。会社の安全な回線から送られてくる姿なのだろう。
「操作を中止してください。重大な契約違反です」
「事故じゃなかったんだな」
晴が言うと、男は答えず、入口を閉じた。
「ここを切り離せば、今後の支援は受けられません」
「今まで、誰を支援したんだよ」
戸を殴っても開かない。
背後では橋が白くなり始めている。ナギが肩越しにそれを見て、雨具の内側から最後の針を抜いた。
「正面以外」
「あるのか?」
「建物を作った人は、作業用の入口まで宣伝しない」
彼女は戸の脇にしゃがみ、壁へ針を差し込んだ。
雨水の排出口に見えた格子が、細かい線へほどけていく。晴は迫る白鷺を見ないよう、彼女の手元だけに目を据えた。
急げとは言わなかった。
その代わり、震える自分の腕を反対の手で押さえた。ナギが必要としている数秒を、余計な声で奪いたくなかった。
「通れる!」
這うようにして穴へ入り、内側から手を伸ばす。
ナギの指が届く直前、彼女の足元が消えた。
靴紐の白が、暗がりへ落ちる。
晴は身体を半分外へ出した。
自分の肘が縁を滑っていくのがわかる。最初にポポを助けたときと同じだった。ただ、今回は彼女の手が、まっすぐこちらへ伸びている。
「掴んだ!」
ナギが空いた手で糸を投げる。
内側の配管へ巻きついた糸を二人で引き、狭い穴へ転がり込んだ。追いついた白鷺の翼が晴の踵をかすめる。
床を蹴って立ち上がった晴は、ナギと肩を並べて塔の中心へ走った。
*
中心には、透明な水槽に似た部屋があった。
そこへ入ると、晴の胸から伸びる光が一本の線になり、天井の向こうへ続いている。帰るための道だった。
壁の表示には、白鷺の回収状況が刻々と増えていく。
晴を追ってきた翼はすべて水槽の外へ吸い込まれ、そこで渦を巻いていた。ナギが最後の扉を閉めると、白い渦の中から人の顔が浮かぶ。
広告の女。料金所の老人。ポポ。
消した情報を使って、外へ出る許可を求めている。
「見なくていい」
ナギの声に、晴は頷いた。
自分の左腕も差し出す。腕に食い込んだ白いものが渦へ引かれ、骨まで抜かれるような痛みが走った。
膝が折れそうになる。ナギが支えてくれたので、倒れずに済んだ。
最後の一つが回収された。
晴は掌を認証板へ押し当てた。
目の前に、病室の自分と、母の横顔が映る。ここで生きている自分と、あちらで待っている自分を、同じ心臓の音が繋いでいた。
「白鷺の権限を、停止する」
声に出すと、渦が膨れ上がった。
壁へぶつかる白い翼が、何度も人の手に変わる。晴の名を呼ぶ声さえ混じったが、ナギの手は、すぐ隣にあった。
もう一度、認証を求められる。
晴は掌を離さずに答えた。
「全部、止める」
白いものの動きが止まった。
数え切れない翼が形を失い、小さな粒になって床へ降る。初期化の光が下から上へ通り過ぎると、それも残らなかった。
街を食べていたウイルスは、消えた。
安堵して息を吐こうとした晴の身体を、上から伸びた光が引いた。
帰還処理が始まっている。
ナギは制御盤へ走り、まだ繋がっている最後の回線を確かめた。
「いける。ちゃんと、帰れるよ」
言い終わる前に、彼女の声が崩れた。
晴が手を伸ばすと、ナギは制御盤から離れ、胸へ飛び込んできた。
「帰ってほしいのに」
その背を抱いたまま、晴は何も言えなかった。
「帰ってほしくない」
ようやく言った彼女の身体は、震えていた。
晴も、うん、としか返せない。ここまで来れば仕方がないと思えるはずだった。街を救ったのだから、よかったと笑って、格好よく別れられるつもりでいた。
「俺も、帰りたい。でも、ナギといたい」
両方が本当なので、どちらを口にしても涙が出た。
彼女の髪へ頬を寄せると、雨の匂いがする。誰かが作った感覚だとしても、晴が初めて好きになった人の匂いは、これだった。
「ちゃんと好きって、言ってなかった」
「聞いた。あの朝」
「もう一回言いたい」
ナギが顔を上げる。
「好きだよ」
「私も。晴が好き」
唇を重ねた。
今度は照れくさくて離れることもなく、二人とも、光が強くなるまでそうしていた。
晴の足が、床から離れ始める。
ナギは腕をほどき、けれど指だけは繋いだまま、制御盤へ戻った。
「私、窓のある部屋を作る」
「うん」
「そこで、ちゃんと暮らす。配達も続けるし、ポポが大きくなったら、仕事を教える」
「うん」
「だから晴も、先のこと、なくさないで」
晴は頷こうとした。
うまくできずに何度も頷き、彼女の指を握り直す。
「朝飯、焦がさずに作れるようになる」
「少しなら、焦げてもいいよ」
ナギは泣きながら笑った。
その笑い方を、覚えておきたかった。
指の感触が薄くなる。
晴の向こう側に病室の天井が透け、ナギの顔と重なった。彼女は最後までこちらを見て、帰還完了を知らせる光がつくのを待っていた。
晴が口を開く。
声になる前に、ナギの手がレバーを下ろした。
回線が切れた。
*
目を開けると、母が怒っていた。
怒って、泣いて、看護師を呼び、それからまた晴の名前を呼んだ。肩を掴まれた痛みが、ひどく懐かしかった。
「ただいま」
それだけ言うのに、何度も息を継ぐ必要があった。
事故から、外では二時間余りしか経っていなかった。
晴の感じた数日間は、接続器の中で引き延ばされていたという。検査で大きな異常は見つからず、一週間後には学校へ戻れた。
ただ、母のマグカップが何色だったかは、実物を見るまで思い出せなかった。
接続器には、ナギがまとめた承認記録が残っていた。
保守用の記録として外へ書き出されたものだ。晴はそれを、事故の調査員へ渡した。
街へ入る鍵も、住民を探せる住所も含まれていない。白鷺を誰が作り、誰が動かしていたかだけが、消せない日付と一緒に記されている。
会社は最初、説明を拒んだ。
それでも学校の保護者たちが声を上げ、似た事故の記録が集まるにつれ、調査は広がっていった。ある夕方、ニュースの見出しから『情報群』という言葉が消え、『居住者』に置き換わった。
晴はその画面を、しばらく見つめていた。
ミナトへの接続は、一度も戻らなかった。
公開されている街の一覧にも、ナギの名前はない。端末の空欄へ何度文字を入れても、該当する情報はありません、と出るだけだった。
あの手触りが、日に日に曖昧になる。
髪の匂いも、声の高さも、思い出そうと力を入れるほど、別のものが混じる気がした。
晴はノートを買い、覚えていることを書いた。彼女が笑った場所。怒った言葉。椀に分けてくれた、味のしない具。
靴紐を結ぶときは、しばらく手が止まった。
それでも朝は来る。
学校へ行き、友達の冗談に笑い、体育では思い切り走った。楽しかった日の夜ほど、ふいに泣けてきたが、楽しくなかったことにはしなかった。
ナギがそうしてほしいと言ったから、というだけではない。
好きになった人と一緒に、確かに自分も、その先へ帰りたいと願ったからだ。
冬の始まり、母の夜勤が終わる前に、晴は台所へ立った。
フライパンに卵を二つ落とす。白身の縁が少し色づき、火を弱めると、団地の階段から母の足音が聞こえた。
「珍しい。どうしたの」
「たまには、俺が作ろうと思って」
母は椅子に座り、眠そうな顔で笑った。
晴は皿を並べ、窓を開ける。空は薄く曇っていて、隣の棟の洗濯物が、冷たい風に揺れていた。
きれいな朝焼けではなかった。
何かの記念になるような朝でもない。
それでも晴は、もう少しだけ窓の外を見ていた。
遠い街で、誰かが自分の窓を開けているかどうか、確かめる方法はない。呼びかけても届かず、ここにもう一枚、皿を置くこともできなかった。
「冷めるよ」
母に呼ばれ、晴は振り向いた。
「うん。今、食べる」
席に戻り、端の焦げた白身を口へ運ぶ。
少し苦い。
ナギに伝わったのが、この味でよかったと、晴は思った。




