第5話 もう1人の救世主
鮮明になった視界の中心で、よだれを垂らした熊が俺を見下ろしている。
この世界の生き物ってのはずいぶんと腹が減っているらしい。
そんなに俺はうまそうに見えているのだろうか。
抵抗するにも逃げるにも、体力は微塵も残っていない。せっかく異世界に転生した最期が熊のうんこかよ。
あの世でだれかに話したら笑ってもらえるな。どうせなら、おいしく食べてくれよ。
熊のよだれがゆっくり垂れ落ちて、顔に付着した瞬間だった。
「睡蓮の香りよ、戦の怒りを鎮め、悠久の眠りへと誘え――睡蓮ノ眠矢」
風を切るような鋭利な音が突如として響き、次いで肉をえぐるような鈍い音が鳴った。
俺をのぞき込んでいた熊は、でかい図体を静かに地面に打ち付けた。聞こえてきた人の声と熊の状態から察するに、どうやらまた俺は人に助けられたみたいだ。
やっぱり、不幸中の幸い持ちはまだまだ現役だ。
助かったという安堵からなのか、疲れが限界に到達したのか、助けてくれた人物にお礼をする間もなく意識を失った。
※
ぱちぱち、となにかが弾けるような音で目を覚ました。
俺の体は地面に横になっていて、目の前には簡易的に設えられた焚火が燃えている。
ゆっくりと体を起こすと、俺と向かい合うように、女性が座っていた。
背中まで伸びる流れるようなエメラルド色の髪。理知的な萌黄色の双眸でこちらを見据えている。緑を基調とした軽装は森の中に溶け込むには最適だ。
なにより目を引いたのは、足元に無造作に置かれている矢筒と弓だ。
ハンターを彷彿とさせるが、端正な顔立ちとつややかな肌がその考えを阻害する。
まるで広大な砂漠に突如現れたオアシス。あまりの美しさに思わず見惚れてしまう。
「……あ、あの、君が助けてくれたんだよね?」
彼女はなぜか驚きを隠せないといった感じで目を見開き、俺をじっと見ている。
「あ、あのう……」
「ごめんなさい、まさかこんなに早く目を覚ますとは思わなくて。そ、それに、そんなにジロジロ見られては困ります……」
彼女は俺から視線を外し、照れくさそうに体をくねらせる。
「ご、ごめん! あんまり可愛かったものだからつい」
「なっ――」
彼女を怒らせてしまったのか、頬が赤くなっている。視線をどこに向けていいのかわからないといった様子で、あたふたしている。
「俺の名前はハルルギ=シオン。改めて、助けてくれてありがとう」
「わ、私は、ミラ……ミラ=オルピクソンです。シオン様とおっしゃるのですね……まさか名前を教えていただけるなんて、光栄です」
「光栄?」
「も、もちろんそうですよ。シオン様の身に着けているものを見れば、わかる人ならすぐわかります」
ああ、このマントとか剣のこと言ってるのかな。
これは訂正しないと、思ったが、その言葉がすぐに出てくることはなかった。
このミラという女性が応急処置をしてくれて、さらには睡眠もとれたことで幾分頭がさえわたってきた俺の思考には、邪な考えがよぎっていた。
勇者は闘いの最中でもフードを被っていたところと、ミラが俺のことを勇者だと勘違いしていそうなところを見るに、普段から顔を隠している可能性がある。
そんな人間と魔王が、一騎打ちの末に相打ち。
死体はない。あるのは異世界から転生してきた、勇者の装備を身にまとった俺――
「……お察しの通り、かな」
あとでなんとでも言い訳が聞くように、直接的な表現は避けおこう。
先に言っておくが、俺は勇者に憧れがあるわけでは……ない。
ただ、元の世界で実際に命を落とし、さらには異世界にまで召喚されて二度も死にかけた。
その対価にほんの少し、甘い汁を吸ったっていいじゃないか。
「でもまさか、沈黙の勇者様とこのように言葉を交わせるとは、夢にも思いませんでした」
「沈黙の勇者?」
「ご存じないのですか? いつも戦況が逼迫した戦場へと颯爽と現れ、魔物たちを殲滅するや何も言わずに立ち去る。その素性は一切不明。確かなのは、我々人類のためにその身を尽くしてくださっていること。人類にとって、あなたは憧れの象徴であり、希望なのです」
どうやら俺の予測は見事的中していたようだ。
なぜだかわからないが、勇者は身の上を隠して活動していたらしい。
だったら都合がいい、今はこのまま流れに身を任せてみよう。
そう結論づけたその時、ミラが突然おれの肩を押さえてきて強制的にかがまされる。
「ちょ、いきなりなにすんだよ!」
「シオン様、お静かに。近いです」
朗らかに会話していたのがウソのように、ミラの顔は険しい。その表情をみて、俺の体にも一瞬で緊張が走る。
「シオン様、ここからもう少し歩いたところに小さな村があります。そこまでお連れします」
ミラは俺の返事を待たずに手を握り、早歩きで進みだした。
こんなに可愛い女の子に手を引かれるなんて、生まれて初めてだ。
命の危機にはすっかり慣れてきてしまっているが、この感覚は慣れるはずもない。
緊迫した状況の中、そんな不純なことを考えながら暗い森の中を歩いた。
※
「シオン様、もう少しです」
「お、おう」
30分くらいは歩いただろうか。ミラはこの森のことを熟知しているようで、ここまで一瞬の迷いなくこれた。
「シオン様、私はここまでです。この先をまっすぐ進めばすぐに森を抜けます。そうしたら集落が見えるので、助けを求めてください」
「ミラはどうするんだよ」
「私は奴の気を引き付けます」
「奴って……?」
「シオン様を食おうとしたシャドウベアですよ。あちらも随分と起きるのが早かったみたいですね」
なんと情けないことだろう。俺はこの世界に来てからというもの、助けられてばかりだ。今は、自分と年もそう変わらない女の子に命を懸けさせている。
ミラについて行って少しでも手伝いをしてやりたいが、きっとそれはかえって足を引っ張ることになる。
「あいつ、殺したんじゃなかったんだな」
「はい。私の弓は、殺生ができないのです」
弓といえば狩猟具の代表とも言っていい武器だ。
それなのに殺せないとは一体……。
しかし今は、そんなことを聞いている余裕はない。
「わかったよミラ。絶対、生きて帰ってくれよ。それと、1つ約束してくれないか?」
「なんでしょうか?」
「次会うときは、様付けは不要だからな」
「ふふ、変わった人ですね。わかりました。その約束、必ず守ります。では」
ミラは俺に背を向けて、集落があると教えてくれた方向とは全く違う方へと走り出した。
彼女の厚意を無駄にするわけにはいかない。集落の方へと走り、やがて森を抜けると、木のバリケードで囲われた集落が目に入った。
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