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どこからどこまでが嘘ですか?

作者: 夕山晴


 そういえば、ラウリは嘘つきだった。

 追いつかない頭のまま、エステルは見せてもらったばかりの新聞をわなわなと震わせた。


「何、どういうこと、これは……? ねえ、ヒルデ」

「ね、びっくりでしょ。こんなに小さい記事見つけた私、すごくない?」

「いやいやいや、私の身になって」

「えー、不憫すぎるー。あり得ないよねー。ラウリが結婚なんて」


 結婚。単語を聞いた瞬間、両手に持った新聞をくしゃりと握りつぶした。


「ちょっと! あたしの新聞……!」

「それどころじゃないのよ」


 ぴしゃりと言い切って、目の前に座る友人ヒルデに顔を近づけた。

 ヒルデの来訪でガーデンに準備させたお茶は、一口分しか減っていない。


「ねえ、私、ラウリと結婚の約束をしていたと思っていたのだけれど、違ったかしら? 記憶違い?」

「えー、あたしもそう聞いてたけど。だから教えにきてあげたんじゃない」

「そうよね? じゃあこれは何」


 丸めた新聞をテーブルに広げて、人差し指をコツコツコツコツと何度も叩きつけた。

 そこには隣国のベークマン伯爵家の急成長と、そのきっかけとなった伯爵家令嬢の結婚が言及されていた。記事によると、その結婚相手というのが、商団『風の羽根』から引き抜いた男ラウリだとある。

 先先代伯爵の死後、落ち目になっていたベークマン伯爵家は、結婚を機に、令嬢が伯爵位を継いだ。令嬢の父である先代伯爵には才がなかったのだろう、令嬢が継いだのち、徐々に事業が軌道に乗り始めたらしい。ラウリのことを幸運の持ち主と称し、運命的な夫婦だと綴ってある。


「そんなのわかるわけないじゃない。もし知らなかったら可哀想だと思って、新聞を見せに来てあげただけ」

「そうよね、わかるはずないわよね、あの男の考えることなんて。ほんとにあの男……私の六年をなんだと思っているのかしら。絶対に許さないんだから」


 結婚を約束してから六年、ずっと待ち続けた。忘れないように離れる前に画家に書かせた二人の姿絵を部屋に飾って、いつでも思い出せるように。

 まったく健気にも程がある。その間に、エステルはとっくに社交界の結婚市場から取り残され、あげくラウリは伯爵家の令嬢と結婚しているというのに。


「教えてくれてありがとう。あ、新聞代は今メイドに持って来させるわ。悪いけれど好きに帰って」


 ひらひらと手を振ったヒルデを横目に、エステルは勢いよく屋敷に向かった。ハーレーン子爵である父に伝えようと、ヒルデから譲り受けた新聞を握りしめて。




 ◆




 昔からラウリは嘘つきだった。

 エステルはその嘘によく騙されたものだ。


 ハーレーン子爵は『風の羽根』に出資しており、団長はよく屋敷に報告に訪れていた。もちろんついでとばかりに商談もしていくのだが。その訪問には必ずラウリがくっついてきて、エステルはよく一緒に遊んでもらった。

『風の羽根』団長の養子となったばかりのラウリは、商団ならではの遊び——宝石や絵画、美術品や工芸品を見て、本物なのか偽物なのか当てるものだ——をよくしていたらしく、エステルにも問題を出してくれた。年下相手に手軽に遊べるものだったのだろう。

 ただラウリが教えてくれる本物は、必ず偽物だった。

 自信満々に父に報告へ行ったエステルは、いつもしょんぼりして戻ってくる。戻ってきたあとは、ラウリを怒り、頬を膨らませた。それを見てラウリは楽しげに笑うのだ。


 子供のすることだからと子爵である父も団長も見逃していたのが悪かったのかもしれない。ラウリの嘘つきは一向に直らなかった。


 ある時は、拾ったのだともらった石が、本当は宝石の原石で驚かされたり、またある時は入手不可能な人気のお菓子だと言いながら手土産にしてくれたこともある。

 メイドには「エステルが可愛い」と言っていたその口で、エステルを「可愛くない」と言う。


 ラウリの小さな嘘は積み重なっていったが、エステルは構わなかった。

 可愛らしい嘘ばかりだったこともあるけれど、ラウリが時折見せてくれる本音をエステルは信じていたからだ。ラウリは引き取ってくれた『風の羽根』の団長を一番に慕っていたし、いつかその恩を返したいと言っていた。商団を大きくして貢献したいのだと、貪欲に前を見て夢を語るラウリのことを、眩しいと思っていた。


 年頃になってもその考えは変わらなかったし、それどころかその思いはますます強くなった。その頃には、団長が居なくともラウリは屋敷に訪れるようになり、時々一緒に外出しては街の様子を見て回ったり買い物を楽しんだりもした。彼の審美眼には磨きがかかり、『風の羽根』のラウリとしての意見も面白かったが、変わらず彼の嘘には油断できなかった。ガラクタだと言いながら気まぐれに贈ってくれるプレゼントは、時折、エステルの想定を遥かに超える代物だったからだ。

 エステルの部屋には、ラウリが贈ってくれた「ガラクタ」がたくさん仕舞ってある。


「なあ、エステル」


 いつしか隣国にも拠点を置くようになっていた『風の羽根』はその地盤を固めるため、しばらく向こうに腰を据えることになった。次はいつ会えるのかわからない。それなのにラウリがいつものような気軽さで話しかけてくるものだから、エステルは少し不機嫌だった。


「何よ」

「寂しい? ……俺は寂しい、少しだけな」

「え、ラウリ!?」


 そんな言葉を聞けるなんて、と驚いてまじまじと顔を見れば、目の奥が楽しそうに揺れている。嘘を吐く時のいつもの顔だ。


「からかったわね……!」

「んー、まだまだだなあ。嘘は見抜けるようにならないと。俺に何度騙されたと思うんだ」

「そう思うなら、嘘つくの、やめたらどうかしら」


 自分も寂しいのだと素直に言えばいいものを。

 小さな悪態を吐くしかできない自分を心の中で責めながら、エステルはいつものとおりに肩をすくめた。


 今『風の羽根』は大きな転換期だ。隣国の拠点がうまく機能し始めれば、『風の羽根』の顧客は増える。商団の規模が大きくなる。それは喜ばしいことではあるものの、状況が変わった時、ラウリが今後この屋敷を訪れる保証はない。屋敷の前での見送りも、もしかするとこれが最後になるかもしれないのに。


『風の羽根』の団長はまだ父と話をしている。話し終わればもう出発だ。

 ラウリは馬車に乗り込む前、名残惜しそうに何度か振り返った。意を決したような顔をしたかと思うと、エステルの左手を掬い上げる。


「ええ!? どうしたの」

「……エステル、俺、絶対、立派になる」


 ラウリはそのまま華奢な手の甲に唇を寄せた。かかる吐息に頭がうまく働かない。


「立派になって帰ってくるからさ……そしたら……結婚してくれない?」


 見たことのない顔だった。からかう時とも夢を語る時ともまた違って、瞳の奥に不安が見える。

 どう答えれば正解だろうか。手に入れたい答えを手繰り寄せるように、エステルは震える声で首を傾げた。


「……本当?」


 ラウリの返答は、まるで幾度となく見た夢のようだった。


「……ああ、本当」


 いつもはニヤリとするラウリが真面目な顔でそう言うから、思わず目を潤ませた。

 ラウリの目が嘘を言っているようには見えなくて、エステルは信じることに決めたのだ。




 ◆




 団長からも打診があったようで少し渋い顔をしていた父も、エステルが何度かお願いをすると、了承してくれた。しばらくの間、縁談や婚約は断ってくれることになったのだ。——だというのに。


 記事を見た父は、エステル同様、くしゃりと新聞を握り潰した。すぐさま家令に『風の羽根』への連絡を指示した父には感謝したものの宥めるのには少し手こずった。自分で解決したいのだと何度も伝えてようやく父が折れてくれたのだ。

 ガーデンに戻ってきたエステルが疲れた溜息をこぼすと、向かいでくすくす笑う声がする。


「ヒルデがまだいてくれてよかったわ」

「ふふ、まだまだ愚痴を言いたいでしょ? それに子爵様の反応も気になったし」


 父との話を終えるとメイドがヒルデの存在を伝えにきた。帰ったものとばかり思っていたが、話し好きのヒルデはまだ満足できなかったようだった。

 ヒルデは、エステルが社交界で婚約者不在と嫌味を言われるようになってからも、昔から変わらない態度で接してくれる。いつまで経っても婚約を発表しないエステルを心配して、かつて縁談を持ちかけてくれたこともある。彼女曰く、エステルの気持ちを尊重したいからと、その縁談は子爵の父の耳に入れる前にエステルへと伝えられた。その心遣いにはエステルも助けられたものだ。


「……エステルのことを喜ばせようと躍起になってたラウリが、まさかこんなことをするなんて。どこまでも商人….…子爵家と伯爵家を天秤に掛けたのかしら。ラウリのことなんて忘れてあたしが持ってきた縁談を受けていれば良かったんじゃない?」


 笑いながらヒルデは言う。

 縁談の話は空気を和らげようとしてくれた冗談だろうが、ラウリが子爵家より伯爵家を選んだ事実は、予想以上にエステルの心を抉った。


「そう言わないで。こんなことになるなんて私も思っていなかったのよ」

「平民の商人からすれば子爵家だって十分だと思うけどねー。確か、以前は手紙も来ていたんでしょ?」

「そうよ。三年前までは手紙のやり取りもしてたし、最後に届いた手紙には忙しくてなかなか連絡できなくなるけど、待っててほしいってそう書いてあったのに」

「じゃあ、その頃に伯爵夫人と出会って恋に落ちて、もうすっかり忘れちゃったとか? もしくはキープ?」

「それはそれで憎らしいわね……!」


 立派になって戻ってくる、という言葉を信じた六年前。待っていてほしい、という手紙に喜んだ三年前。

 ラウリ本人にだけでなく、幼かった自分自身にも苛々する。


「で? 行くことにしたって?」

「ええ。お父様にもお話して、お許しをいただけたわ。見てなさいよ、平伏して謝らせて、私の尊厳を傷つけた責任を取ってもらうんだから。お父様経由じゃ許さない。私に直接謝ってもらわなくちゃ」


 大人しくラウリを待っていた六年間、打診があった縁談も少なくはなかった。が、ラウリを信じて、全て断ってきた。エステルの年齢で正式に婚約していない女性は、社交界にはもういない。陰口を叩かれるのももううんざりだ。


「私の若さと時間を奪った罪はとっても重いのよ」

「その意気ね。馬鹿にされたまま逃げちゃだめよー! ちゃんと話してきなさいな。加勢が必要ならいつでも連絡ちょうだい」


 ヒルデからの応援を受けて数日後、エステルは早々に旅支度をして馬車に乗り込んだ。そうしてラウリがいる隣国ベークマン伯爵家へ殴り込みに行く。




 ◆




 到着してみれば、道中緊張した面持ちだったことも馬鹿らしくなるほど、ベークマン伯爵家は突然現れた訪問者を嫌な顔ひとつせず、穏やかに迎え入れてくれた。

 通された応接室は、見慣れない広さだった。上質な生地で作られたカーテンに天井からは小ぶりながらも洒落たシャンデリア、壁に飾られた絵画は有名な画家が描いたもの。

 部屋を見回しながら長椅子にちんまりと座っていると、バンッと大きな音を立てて扉が開いた。


「エステル!? どうしてここに……!」


 久しぶりに見たラウリは身長も伸び、幼さも消え、一人の青年となっていた。その顔を見るや高鳴った心音を抑えつけ、エステルは眉を吊り上げた。


「どうして? そんなのわかってるはずでしょ。それともやっぱり昔の約束なんて忘れているのかしら」


 くしゃくしゃになった新聞を広げ、人差し指でトントンと例の記事を叩く。


「え? あーー……こんなものが」


 新聞記事の存在を初めて知った様子で、ラウリは頭を掻いた。


「なんなの!? 私のこと、何だと思ってるの。ずっと、待ってたのに。手紙だって送ってくれないし」

「いや、送ったぞ! 待っててくれって」

「三年前にね!」


 ラウリはグレーの瞳を丸くして、口を覆う。ぐっと目を見開いたのはいつの間にか思った以上に刻が経っていて驚いたからか。楽しい時間は過ぎるのも早いというから、よほど幸せな時間を過ごしていたのだろう。


「悪い、ちょっと忙しくしていて……だけど、エステルのことを忘れたことはなかった!」

「へえ、そう。そうよね、新婚生活でそれはそれはお忙しかったでしょう。……結婚おめでとう。他に愛する人を見つけたのね、仕方ないわ、お祝いだって言ってあげる」

「違……っ」

「——その代わり、待ってた私の六年を返してよ。返せる? 返せないでしょう」


 涙目のように見えるラウリは一体何だろうか。直接会えば、何か変わると思ったのに。

 そんな思いも伝わらないのか、ラウリはそのまま口元を緩めたのだ。


「別れ際のあんな約束、信じてくれたなんて! エステルが本当に待っていてくれたなんて」

「馬鹿にしてるの? あの時のラウリは本気だと思ったのよ。まあそれも勝手な思い込みだったのね。まさか隣の国でいつの間にか他の人と結婚してるなんて思わなかったわ。これっぽっちもね」


 溢れる怒りをぶつけたいが、ここはベークマン伯爵家。人目もある。心象を悪くすることは避けたかった。


「まあ、いいわ。過ぎたこと。あなたのことを許さないけれど、いつまでも蒸し返すのもどうかと思ってる。私の六年を無駄にしたことちゃんと償ってもらうんだから。私の結婚相手を探してもらうわよ。何としてもね」

「結婚だって……? どうして」

「そりゃあそうでしょう。私にきた縁談は全てお断りしていたもの。ラウリのおかげでね!」


 にこりと作り笑いを披露して、席を立った。言いたいことは言ったはずだ。この屋敷がラウリの幸せの形だと思うからこそ、一刻も早く逃げ出してしまいたかった。


「今日はお父様の代わりにきたの。どうしてもあなたの顔を見て言いたくてね。……今後はお父様と話すことになるでしょう。夫人にも、どうぞよろしくお伝えくださいね」

「いや、待ってくれ! 連絡できなかったことは悪いと思ってる! だけど話を聞いてくれ……!」

「聞くわけないでしょう」


 ラウリの声に振り向きもせず、一人、部屋を飛び出していた。

 しかし、そこに声が掛かる。


「あら? エステルさん……? もうお帰りなの?」


 部屋を出るや、目の前にはお淑やかな貴婦人。

 名前を呼ばれ、足を止めてしまった。もちろん警戒心はぐんと上がる。見慣れない廊下に冷えた空気が流れていった。


「ど、どなたです……?」

「あら、主人の幼馴染だと、若い女性がお越しになったと聞きましたから、ぜひご挨拶をと思っておりましたのに。私、イリア・ベークマンと申しますわ」


 名前を尋ねたこと、それから足を止めたことを後悔した。

 目の前の彼女は十歳ほど年上だろうか。髪を一つに纏めてすっきりと編み込んである。落ち着いた雰囲気の女性だ。


 思いもしなかったラウリの好みに愕然としながらも、体裁は守る。取り乱した恥ずかしい姿は見せられない。


「急な訪問にもかかわらず快く迎えてくださりありがとうございます。先にラウリ……いえ、ご主人にはお話させていただいたのですが」

「ああ、いいのよ。それより、聞きたいの。ごめんなさいね、扉の前で少しお話が聞こえてしまって。——あなた、ラウリのこと、いらないのかしら?」


 素朴な疑問といった様子でイリアは問う。

 その意味を図りかねて、エステルは随分と呆けた顔をしてしまった。

 愛していた、待っていたラウリを掻っ攫っていったのは、紛れもなく目の前の彼女だ。


 唇に傷がつくことも構わずに、歯を立てた。もし泣いてしまったら目も当てられない。いまだ、ラウリに未練があると思われるわけにはいかなかった。

 彼女より爵位が劣るにしろ、子爵令嬢としての矜持がそれを許さない。


「……信じられないことかと思いますが、ラウリ……いえ、ご主人と私は幼馴染ではありますが、結婚の約束をしていたんです。口約束ではあったんですが…………それを裏切ったのはラウリです」

「まあ!」


 丸くなった目には上品さは消え、可愛らしさが浮かび上がった。

 言外にイリアのせいだと滲ませたが、彼女の可愛らしい表情を知るだけだった。もしかしたらこういうところにラウリは惹かれたのかもしれない。

 しかも意を決して伝えたラウリの悪事には、何でもないことのように笑ったのだ。


「ふふ、知っているわ。知っているの。その上で言っているのよ。一度結婚したからっていらなくなるくらいなら、話も聞かず切り捨てるくらいなら、わたくしに譲ってくださらない? 連絡もなく別の女と結婚したって怒るのもわかるわ。でも理由も聞かないのは勿体なくはないかしら?」

「何を言って……!?」

「ええ、これはラウリの説明不足。もしかしたら魅力不足かしら、話も聞いてもらえないなんて。わざわざエステルさんが出向いてくださった、この貴重な時間を活かせないのはなんと情けないこと」


 お淑やかに可愛らしく、それでいてキリリと強い眼を向けるのは、エステルの背後。

 視線を辿れば、気まずそうなラウリが扉から顔を出していた。


「イリア……!」

「ほほほ、事実を言ったまでよ。さあ、エステルさん、もう一度お掛けになって。もう一度だけ、お話しさせていただきたいわ」


 口調は柔らか、けれどぐいぐいと腕を引かれ、問答無用とばかりに出てきたばかりの応接室へと引き戻されたのだ。




 ◆




 許せなかった。だから謝罪を求めて、わざわざ赴いた。

 本当は、ベークマン伯爵家には父がくる予定だった。父もエステル同様怒っていたし、当主が動いた方が対外的にも良いことはわかっていた。けれど、どうしても自分の目で確かめたかったのだ。


 そうしなければ、納得できそうになかった。付け入る隙が一つもないことを見せつけてくれなければ、ラウリのことを諦められそうになかった。

 なぜなら、あの時の告白は、絶対にラウリの本気だったから——。


「さて、どこからお話しいたしましょうか」


 優雅に微笑む泥棒猫は、思った以上に手強かった。


「わたくしは、あなたがラウリを気に入っているのなら、お返ししても良いと考えておりますの。元々そういう契約でしたから」

「契約って……どういうことです!?」

「ええ、そう。これは契約——ビジネスですの、エステルさん。少しは安心されて?」


 向かいに座るイリアの隣にはラウリがいる。彼はバツが悪そうに目を逸らした。


「わたくしたちの結婚は、結婚と言っても、契約関係でした。お互いがお互いの利益のために結んだビジネス関係。わたくしはどうしても、結婚したくなかった」

「え……?」


 矛盾した答えにエステルは眉を顰めたが、イリアの目からは穏やかさが消えていて、口をつぐんだ。


「力を失いつつある伯爵家当主の一人娘——誰しも手に入れたいと思うでしょう?」


 結婚相手として、傀儡として、一人娘として甘やかされて育ったに違いないと、イリアは御しやすい獲物に見えたことだろう。


「両親ももう歳でしたから、遠縁から男児を養子に取るという選択もあったのですが、わたくしは、わたくしがこの家を継ぎたかった。小娘一人と侮られ、乗っ取られたくはなかったのです」


 そんな時、現れたのが『風の羽根』だった。

 事情を知ったラウリは、イリアと契約したのだと言う。

『風の羽根』に貢献したいという目標があったラウリにとって伯爵家との繋がりは魅力的に映ったことだろう。


「……俺にとっても好都合な話だったんだ。伯爵家と縁ができれば『風の羽根』は今よりもっと大きくなる。……それに俺を、伯爵家の一員にしてくれると言うから……ああ、言い方が悪いな。この契約結婚が終われば、俺を伯爵家の養子にしてくれると言ったんだ。だから、結婚した」


 疑いたくなるような話。けれど語るラウリは本気の目をしている。

 次々と明かされる事実に、エステルの胸は痛くなった。


「あなたへの連絡は、わたくしが止めていたの。手紙を出さないことを契約の条件に入れたわ。どこで契約結婚だと嗅ぎつけられるか分かりませんでしたから。ごめんなさいね」


 イリアの懸念も理解できた。ラウリの『風の羽根』への想いも納得できる。

 ただ、この怒りはどこへ向ければよいのか。

 手を握りしめて、爪先が手のひらに食い込む。怒りの矛先を持て余して、ぶつける代わりに、ポツリと呟いた。


「どうして伯爵家になりたかったの」


 彼の心の内を知りたかった。


「……伯爵家の身分で、エステルを迎えに行きたかったんだ」


 それで全てわかってしまう。

 怒りもすうっと落ち着いてしまうほど。


「別に立派になってなくたってよかったの、成長できたって戻ってきてくれたら。……私、まだ怒ってるのよ。ラウリはこれまで私を傷つけるような嘘はつかなかったのに」


 だから慌てて乗り込んでしまった。他の女性との結婚だなんて、何を考えているのか、さっぱりわからなくて。ラウリが別人のようになってしまったのかと心が苦しくて吐き出したくて。

 けれど、ラウリは何も変わっていなかった。

 口を尖らせたエステルをチラリと見て、ラウリは手で顔を覆い天を仰いだ。


「あー……カッコ悪い」


 そんなラウリは六年前の告白の時のように、不安からか目が揺れていて。

 久しぶりに彼の姿をちゃんと見た気がした。


「……彼はとても優秀なパートナーでした。ベークマン領で発掘された希少な原石の流通も上手く軌道に乗せられたのもラウリのアドバイスのおかげ。エステルさんがいらないのでしたら、わたくしがこのまま貰ってしまおうかと思っていましたのよ。残念だわ、本当に」


 本当に残念そうな顔をしてイリアが片目を瞑るので、エステルとラウリは顔を見合わせて笑ったのだった。




 ◆




 戻ってきてからはこってりと絞られた。

 ラウリは、ハーレーン子爵と『風の羽根』団長に。エステルは父であるハーレーン子爵にだ。

 破談にして帰ってくると思っていた娘が、その男とともに帰ってきたのだから、ハーレーン子爵もそれはそれは驚いたことだろう。彼の口から「この嘘つきたちめ」と飛び出すほどだ。

 驚かせてしまったことへの謝罪と、これからの未来への懇願と。ひとしきり話すのにたくさんの時間を要してしまった。

 ようやく解放された頃にはヘトヘトで、二人は並んで長椅子に腰を沈ませた。


「エステル……今回の件、本当に悪かったと思ってる」


 ラウリは嘘を謝ったことがない。

 ぎょっとして振り向くと真剣な面持ちで続けた。


「それから、長い間、待たせて悪かった」

「へーえ、じゃあ、私のことちゃんと愛してるってこと?」

「…………そうだ」

「ラウリは嘘つきでしょ? これも嘘なんじゃない?」

「……じゃあ大嫌いだ」

「嘘、好きなくせに。伯爵家に取り入るくらい」


 がしがしと頭を掻くラウリをにやにやと見た。こんなラウリもしばらく見ておきたい気もする。


「あーもう! 俺はどうしたらいい!」

「……もう嘘はつかないって約束する?」

「わかった! 約束しよう!」

「つまり?」

「……もちろん愛してるよ!」


 この自棄気味の告白がちゃんと本気なことも、これからもエステルを喜ばせるための嘘はやめられないことも。


「ラウリの言葉が嘘か嘘じゃないかなんて、すぐわかるんだからね」


 ラウリの本当は全部、目に宿る。

 真っ直ぐに見つめれば、エステルには全部お見通しなのだ。だから騙されてあげられる。


 微笑んでラウリの頬にキスをすると、驚いて目を見張り、しかしそのまま抱き寄せてくれた。——大きな嘘に少し揺らいでしまったけれど、信じた甲斐もあったというもの。


 嬉しさのあまり思わず抱きついて、長椅子に押し倒すように。

 ラウリの瞳を見れば、ずっと張りつめていた心が——社交界での心ない言葉で少しずつ傷ついていたのだろう——すっと溶けていくようだった。


 見慣れた我が家のシャンデリアが温かく、二人を祝福するかのように、ラウリの瞳の中で煌めいていた。



嘘に振り回される子を書きたかったはずなのに。

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