3.日常への帰還?
冷たい声が、カーテンを勢いよく引く「ガラリ」という音と共に、暁斗を混沌とした夢から引き剥がした。
「兄さん、起きて。もう六時十五分よ」
眩しい朝日がまぶたを貫く。暁斗は無意識に手で顔を覆い、もごもごと呟いた。
「あと五分…」
異世界で培った「冒険者の生活リズム」が染みついている。布団に顔を埋め、再び眠りに落ちようとしたその時──
「へえ」
頭上から降り注ぐ嘲笑が、氷の水のように彼を覚醒させた。
「どうやら某人は、今日の授業をサボるつもりらしいね」
授業。その言葉に暁斗は目を見開く。思い出した──彼はもう、日が昇るまで眠れる冒険者などではない。今日は…木曜日だ!
高二の学生、しかも登校しなければならないのだ!
「マジかよ!」
ベッドから飛び起き、慣れない手つきでスマホを掴む。画面には無情の数字が浮かぶ──6:16。
「一限目は七時始まり…家から学校までバスで二十分はかかる…」
「今さら焦る?」
制服姿の凛がベッド脇に立っていた。彼女の通う桜ヶ丘高校は校則が緩く、指定制服は月曜の朝礼時のみ。今日は淡いブルーのブラウスに紺のカーディガン、膝丈のチェックスカートという私服姿だ。漆黒の髪は高く結われ、青白い肌をより透けて見せている
。
暁斗の視線が無意識に彼女の唇へ吸い寄せられる──淡いピンクのその柔らかな形からは、昨夜の鋭い牙など想像もつかない。
(まさか…あれは夢だったのか?)
「何見てるの?」
凛が眉をひそめる。
「三分。洗面と着替え。玄関で待ってるから」
振り向く背に、冷たい空気がまとわりつく。
暁斗は跳ねるように洗面所へ飛び込んだ。冷たい水道水が頬を打つ。鏡に映る首筋を仔細に観察するが──傷跡は一切ない。
(夢だったのか…?)
しかし咄嗟に手をかざす。
「風よ、我が意志に従え──イッツ・マイ・ゴー!」
微かな気流が洗面台のサメマグカップを直撃する。
(魔法は使える…異世界の記憶は現実だ)
歯ブラシをくわえながらカバンを掴み、玄関へ駆け出す。凛はすでにスニーカーを履き、爪先でリズムを刻んでいた。
「遅い」
吐き捨てるように言うと、彼女は先に歩き出した。
コンビニでおにぎりを買い、バス停へ向かう途中で暁斗は気づいた──凛が明太子おにぎりを避け、小豆あんパンを選んだことだ。
(またもやニンニク避け…? いや、単なる偶然か?)
満員の通学バスは学生でぎゅうぎゅう詰めだった。暁斗は無意識に凛を壁際に押し込み、肘でスペースを確保する。
「…ありがと」
凛の呟きがかすかに聞こえた気がした。彼女は窓辺に寄り、小豆あんパンをちぎりながら外の景色を見つめている。長い睫毛が朝日に照らされ、蝶の羽根のように震えていた
。
(この距離感…昨夜のことはやはり夢なのか?)
「おい」
凛が突然振り返った。窓から差し込む陽光が、彼女の瞳を一瞬ワインレッドに染めた──まるで異世界で見た吸血種の目のように。
(まてよ…!)
瞬きする間に、その色は再び深い闇へ戻る。
「桜ヶ丘高校、到着です」
車内アナウンスが現実を突きつける。
正門をくぐると、周囲の視線が凛に集中した。男子の熱いまなざし、女子のささやき…転入して一ヶ月も経たぬうちに、彼女は間違いなく学年のアイドルとなっていた
。
「私は一年棟へ」
凛は振り返らず西校舎へ歩き去る。スカートの裾が軽やかに揺れる。
「お、おう…昼飯一緒に食うか?」
背中に向かって叫ぶと、凛の足がわずかに止まった。うなずく小さな動作だけを残し、人混みに吸い込まれていった。
(この違和感…もしあれが夢なら、なぜ胸が騒ぐんだ?)
呟きながら東校舎へ向かうと、階段の踊り場で影が飛びかかってきた。
「おーい白瀬!今日の顔色ぃーっ!」
初中時代からの親友・馬場正嗣が首筋に腕を回してくる。その細面から「ウマちゃん」の愛称で親しまれている
。
「遅刻すんじゃねえぞ、ウマちゃん」
暁斗は笑いながらも胸が熱くなった。異世界で最も恋しかったのは、この気遣いのない戯れだった。
「おっと? 貧血貴公子の青白さが消えてるじゃねーか」
馬場がじろりと見つめ、ニヤリと笑った。
「もしかして昨夜ついに、右手の恋人とお別れしたとか?」
「ぶっ飛ばすぞコラ!」
肘鉄を入れると、馬場は猿のように跳び退いた。
「魔法で治したんだ」と言いかけて飲み込む。代わりに「規則正しい生活の賜物だ」とごまかした。
「ウソつけー!ま、いいや!俺も教室行くわ!」
馬場が走り去った後、暁斗は三年B組のドアを開けた。