かんころもち
かんころもち(最終稿)

5月終わりの湿った空気の金曜日
街の中心を少し外れた、くたびれた雑居ビルの二階にある小さな居酒屋で、彼女とふたりで酒を飲んだ。送別会だったか歓迎会だったか、正確な名目は霧のなかだったが、気がつけばそうなっていた。酒席という水路に流された先で、僕と彼女だけがふいに残されたような、そんな夜だった。酔っていたのは明らかに彼女のほうで、僕はまだ舵を握っているつもりでいた。
顔を紅潮させ、語尾を少し伸ばしながら、ぽつぽつと話す五島の話。専門学校時代のこと、職場の上司への愚痴、すべてが体温を帯びてこちらに届いてくる。伏し目がちに話す瞬間もあれば、ふとこちらを見上げていたずらっぽく笑うときもある。そんな彼女の横顔に、僕の視線が磁石のように引き寄せられていた。
彼女は二十二歳。僕より五つ下で、入社してまだ二年。専門学校からこの会社に入り、事務と営業の間を縫うような仕事をしている。僕は東京の大学を出て、地元・福岡で働いて4年目。友人も恋人もおらず、会社でも評価はされない側の人間だと、自嘲的に理解していた。
――
彼女が僕の部署にやって来たばかりの頃だった。
「あの子、できるわよ。頭良さそうだし」
隣の席の先輩が、感心するように言った。
「九大とか出てるんじゃない?」
その言葉に僕も頷いた。仕事の手順、資料の整え方、言葉の選び方に隙がない。しかも、美人で気が利く。飲み会でも自然に輪の中心にいる。
「意外だけど、専門学校卒らしいよ」
へえ、と思った。その整ったものは学歴の産物ではなく、彼女自身の性質なのだと知り、少し悔しく、少し羨ましかった。
――
酒を飲み終えて、駅前のコンビニに寄ったとき、彼女がふいに言った。
「うち来る? まだ飲めるよ」
あ、タメ口なんだな、と思った。
何気ないひと言のなかに、ふと甘えたような響きが混じっていた。
彼女の部屋は職場からすぐの1K。ひとり暮らしの「生活の匂い」が染みついていた。洗い物の残るシンク、冷蔵庫のマグネット、乾きかけの洗濯物。
昨日、会社に着てきていたワンピースが干されていて、僕は彼女の目を盗んで匂いをかいだ。脇のあたりに、香水でも柔軟剤でもない、汗の匂いが、ほんの微かに残っていた。
トイレを借りた。しゃがんだ拍子に、便器の裏に茶色いうっすらとしたスジが見えた。なぜか、それが嫌ではなかった。むしろ、そういうものが彼女を立体的にした。血が通った生きものとして、こちらに迫ってくる感覚があった。
そうだ。これが「機会の匂い」だ。
人生が、夜の河口で身を翻すときの、あの生臭い風のような匂いだった。
部屋に戻ると、彼女がかんころもちを取り出していた。
「実家から送ってきたやつ。ちょっと硬いけど、焼くと美味しいよ。」
僕が五島の話に反応したとき、彼女はかんころもちのことを語った。それを覚えていたらしい。僕は、かんころもちによってこの場に招かれたのだと思った。
トースターに入れられたもちが、やがて甘く香ばしい匂いを漂わせ始めた。
「バターないけん、マーガリンでいい?」
「久しぶりに食べるのでそのままで」
――
彼女は僕の学生時代の話を聞きたがった。東京、バンドサークル、モテなかった話、ギターがうまくならずベースに転向したこと。僕は酒に背中を押されて、よく喋った。
彼女が急に、彼氏の話を始めた。
「うちらと同じ業界の人でね、営業のバリバリの人。体もでかくて」
「今も付き合ってるの?」
「ううん、もう別れた。でも……なんかセフレみたいになっててさ」
「そうなんだ」
「ほんとはそういうの嫌いなのにね」
そう言って彼女は、僕の肩にそっと頭を乗せた。口からはアルコールと、ほんの少し吐瀉物に近い匂いがした。でも、それすら「機会の匂い」の延長だった。逃してはならない何かが、ここにあると思った。
――
キスをした。彼女は部屋着に着替えていて、ボタンをひとつずつ外していった。指が肌に触れる。柔らかく、ぬるく、どこか寂しい感触だった。脇の下からまた、あの匂いがした。
「ごめん、今日ちょっと汗かいてて」
「うん、大丈夫」
乳首に指が触れたとき、彼女の身体がぴくりと跳ねた。
「そこ……彼氏、ぎゅってつまむの。すごく嫌だった」
僕は、反対にそっと撫でるように触れた。すると彼女は目を閉じ、小さな声で言った。
「もっと強く……」
彼女は、彼氏の影をなぞるように、でも僕に身を預けていた。
僕は思わず言った。
「俺、そんなに大きくないんだけど、大丈夫?」
彼女はふっと笑った。
「うん。彼氏の方が、たぶん大きいけど……でも、あなたの方が、なんか優しい」
嬉しいような、惨めなような気持ちが、胸にじわじわと広がった。
僕が手を伸ばして下着に触れようとしたとき、彼女は自分から膝をついた。舌が触れた瞬間、体がぞくりと震えたが、途中で力が抜けた。萎えてしまったのだ。
おそらく長い時間ではなかっただろう沈黙の冷たく哀しい時間があった
彼女はなにも言わず、目を伏せて服を整えた。
繋がることはなかった。僕たちは、もうなにも言わなかった。
――
明け方、彼女は静かに眠っていた。僕はベランダでタバコに火をつけた。しばらくして、彼女もやってきた。
「一本ちょうだい」
「吸うんだ?」
「受験のときは吸ってた。今はお酒飲んだときだけ」
そして、彼女がキス顔で近づいてきて、こう言った。
「山本さん、キス上手いよね。優しい。」
「タバコ臭いけど。……タバコ吸う人とキスすると、タバコの味がするんだねぇ、ふふ」
彼女の新しい顔を見た気がして、少し嬉しく、少し切なかった。
――
朝。彼女はもう昨日のシャツにジーンズを穿いていた。
「ドトールでも行く?」
「もったいない」と笑って、ダンボールを開けた。
「五島うどん。実家から送ってきてた。作るね」
白くて、細くて、ぬめりのないうどんだった。きちんとした味がした。
「ありがとう。美味しかった」
「うん。もう送られてこないと思うけどね」
それが、最後だった。
もう外はすっかり日が上がっていた。
梅雨入り前の湿った風に流されるように
春生まれの小柄で可憐なアゲハチョウが飛んでいた
とても手の届かない高さで
――
会社では「ふたり付き合ってるの?」と噂された。飲み会で先輩が言った。
「咲ちゃん、山本と付き合えばいいじゃん」
彼女は笑って言った。
「あー、でも山本さん、私に興味ないんですよ」
暫くして彼女は異動し、会うことはなくなった。一度だけ、社内メールが届いた。
《報告したいことがあります》
嫌な予感しかしなかった。
返信はしなかった。
そして、彼女は元彼と結婚して、九州を離れたらしい。人づてに聞いた。
そして僕の記憶には、
かんころもちの甘い匂いと、乾いたトイレのスジ、乳首をきつく摘んだときの硬さ、
そして何より五島の潮風と汗の混じったような女の匂いが残った。

⸻
五月の金曜日、湿気を帯びた風が福岡の夜を撫でていた。
会社を出て部署の送別会の会場へ向かう。
私は軽く濡れたアスファルトを踏みしめながら、スマホの画面を眺めた。
《今夜、会えない? ──圭吾》
迷いはなかった。あの人の名前を見ると、胸の奥がすっと痛む。
結局、土曜の夜、古びたバーで再会した。
彼は変わらず強い匂いを放っていた。スポーツマン特有の汗と、酒がまざった匂い。
やっぱり、嫌じゃない。
店の薄暗い明かりの下、私はすぐにわかった。ふた月前、彼としたキスの感触が──
「久しぶり」
声が震えたのは、懐かしさでも戸惑いでもない。ただ、身体が先に思い出したからだ。
帰り道、彼の手を取ると、指先の太さが頼もしかった。
部屋に入ると、玄関の空気が甘く濃く変わる。
「かんころもちみたいな匂い…?」
私はつぶやき、彼は笑った。
寝室で服が床に散らばり、肌と肌が触れ合う。
昨夜、山本さんと出会った“優しさ”は確かにあった。だが今、湧き上がる「熱さ」は全く別物だ。
彼の腰が、私の奥へと滑り込む瞬間、
「うん……」
思わず声が漏れた。痛みも不安もなく、ただぴったりとしたフィット感。
一度、息をのむように身体が震えた。
「やっぱり、これだ」
彼の額に額を寄せ、静かに確信する。
山本さんの手はそっと触れるだけで、おそらくそれは優しかった。
だが、圭吾のそれは、渇きを満たす波そのものだった。
朝、日曜日の光がカーテンの隙間から差し込んだ。
身体の余熱がじんわりと残る。隣で眠る彼の胸の上で、私は深呼吸した。
「ありがとう」
言葉は自然にこぼれ、彼は寝ぼけ眼で笑った。
窓の外、五月の風がまたアパートを揺らす。
わたしはひとりで
──これが、私の求めていた身体と心の繋がりなんだと、自分に言い聞かせた。
あとがき
どうしてふたりきりになったのか、よく覚えていない。ただ、あの人と飲み屋を出たとき、自分の中に少しだけ、静かな確信のようなものがあった。酔っていた。たしかに酔っていたけれど、それだけじゃなかった。
あの人は、最初からちょっと浮いていた。派手なタイプじゃないし、仕事ができるかって言われたら、正直、わからなかった。ただ、無理に話題に入ろうとしないところが好きだった。誰かの悪口にも加担しない。静かで、でもときどき鋭いところがある。そういう人。
「うち来る? まだ飲めるよ」
自分でも驚くくらい、自然に言葉が出た。なんで呼んだのか。わからない。ただ、そう言いたくなった。ひとりでいたくなかったのかもしれないし、誰かに見てほしかったのかもしれない。部屋の生活感まで含めて、自分の全部を。
かんころもち。母が送ってきた荷物の中に入ってたもの。あの人が五島の話に興味を持ってくれて、なんだか嬉しかった。だから覚えていた。
焼き始めると、あの匂いが部屋に満ちた。甘くて、香ばしくて、少しだけ寂しい匂い。五島の匂い。
あの人は、ずっと話を聞いてくれた。自分のことも少し話した。
専門学校出て、福岡に来て、仕事して、なんとなく彼氏がいて、なんとなく別れて、でもきっぱり終われないまま、惰性みたいな関係が続いていて。
「ほんとはそういうの、嫌いなのにね」
誰に向けて言ったのか、自分でもわからない。ふっと、身体があの人の肩に寄っていた。
—
肌を見せるのが、こわいわけじゃなかった。触れてほしくて誘ったような気もするし、誰かに違う手で触れられたかったような気もする。
「そこ…彼氏、ぎゅってつまむの。すごく嫌だった」
そのときの自分の声が、どこか遠くから聞こえた気がした。あの人の手は、やさしかった。やさしいけど、軽くて、ちょっと物足りなかった。だから、強くしてって言った。わからない。自分でも、何を求めていたのか。
彼が気にしていた「大きさ」は、実はどうでもよかった。だけど、比べてしまったのは事実だし、あの人が萎えてしまったとき、どこかホッとしている自分がいたのも事実だった。これ以上、進まなくて済んだ。そんな気持ち。
ベランダでタバコを吸ってるあの人の横顔を見ながら、「この人とは、たぶん何も始まらないんだろうな」と思った。そう思うのに、ちょっと悲しくて、だから冗談を言った。
「山本さん、キス上手いよねぇ」
笑ってほしかっただけ。少しでも、印象に残りたかっただけ。
—
うどんを煮ながら、最後かもしれないなと思った。もう送ってこないって、母の声が聞こえたような気がした。
部署が変わって、あの人との距離は自然に離れていった。あれきり、彼は何も言わなかったし、自分も言わなかった。結局、元の彼と結婚したのは、正解かどうかなんてわからない。ただ、あの夜のことは、いまだにときどき思い出す。
あの人の目。五島の匂い。かんころもちの焼ける音。
そして、あの人の唇に残っていたタバコの味。
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