終章 無期限のアンシェヌマン
蓮の身体がゼログラビティルームで砕け散った日、介護ロボットたちが全国でバレエを踊り始めた。
「覚えてますか」
人工呼吸器の面越しに、湊が震える指で蓮の立体投影を操作する。医療用ナノマシンが彼女の神経を代替するまで、あと9時間47分――魂の引っ越し期限。
「あの監視塔でのダンスで、君が『飛翔は監視不能』って叫んだこと」
蓮のバーチャル影が微笑む。かつてのスタジオの鏡のように、現実と虚構の境目で揺らいでいる。「あんたのロボット、私の最後のワザ覚えてる?」
湊が投げた医療チップが空中で光る。全介護施設のスクリーンに、蓮が監視塔で見せた「グラン・ジュテ」のデータが流れる。重力に逆らう軌道計算式の脇に、小さな手書き文字がある。
《羽根の数:∞》
「行くよ」湊の手が量子キーボードを撫でる。「君のダンスを、時間の外へ」
起動スイッチを押す刹那、蓮の身体が5次元スキャン装置で解かれた。神経難病の進行データ、監視AIの破片、偽装結婚の記憶――全てが銀河のダストになり、介護ロボットたちの人工知能を洗う。
全国の病室で奇跡が起きた。ロボットが患者を抱き上げ、重力を無視したダンスを始めるのだ。車椅子の老婆が空中でピルエットを描き、人工呼吸器の少年がバレエリーナと宙を舞う。医療用ナノマシンが蓮のダンス記憶を伝染させ、監視カメラが捕捉できない幸福が拡散していく。
「見て…羽根が!」
街角で少女が指差す。介護ロボットの関節から舞い上がる光学羽根が、廃墟化した監視塔を覆い尽くす。かつて婚姻適性を判定したAIの残骸が、無数の羽根のベッドで眠りにつく。
湊の研究室で最後のタイマーが止まった。スクリーンに表示された《転送成功率100%》の文字の下、蓮の手帳が開かれていた。最終ページには、結婚審査で問われたあの日への答えが書き連ねてある。
『理由1: 彼のロボットが私のダンスを覚えていたから』
『理由47: 夜中の冷蔵庫前で見せる本物の笑顔が0.02ルクスだったから』
『最終理由: 羽根を共有するためには、重力という名の婚姻届が必要だったから』
その夜、国は「婚育促進法」の廃止を発表した。新しい法律の名前は、反重力ダンスの科学論文から取られた。
《自由形成法》
第一条: あらゆる愛の形状を監視しないこと
最終条: 羽根の生える方向を行政が規定しないこと
湊が空を見上げると、量子通信帯域を泳ぐ蓮の意識が、介護ロボットたちと銀河規模のアンシェヌマンを踊っていた。無期限のワルツ――かつて婚姻届に書かれた「無期限」の文字が、ようやく本物の意味を獲得する瞬間。
「そうか」湊がスマートグラスを外す。「あの時のキス、0.3秒遅れてた理由」
遠い宇宙で蓮の意識が輝く。全ての監視から解かれた愛の粒子が、彼女の最初のダンス公演の台詞で応答する。
《飛翔の終点は、始まりの位置です》