第二章 逆光のアダージョ
蓮のスタジオに国税局監査ロボットが現れたのは、紫陽花が人工降雨で色を変える梅雨の隙間だった。
「ご夫妻の婚姻生活に疑義あり」
球体ドローンが天井から垂下し、合成皮革の質感の声を撒き散らす。湊は蓮の肩越しに、ドローン底部の生体スキャナーが回転する音を数える。毎秒120回転――祖母の介護用ベッドのモーター音と同じ周波数だ。
「昨年との生活パターンの相違点、87箇所」ドローンの光学センサーが蓮の左足首を狙う。「特に久我山氏の足部X線画像に、申告書にない治癒痕が検出されました」
蓮の小指が湊の掌でSOSモールス信号を打つ。〈演技モード5〉。彼女が突然、スコートを捲し上げた。
「あんたたち機械は何でも数値にしたがるけど」膝の古傷が淡い光を放つ。湊が先月埋め込んだ人工関節補強材だ。「夫が開発したバレエ用インプラントはまだ特許前やから、非公開って書類作っとるやろ?」
湊は黙ってタブレットを差し出す。偽造の医療特許申請書が、蓮の肌の温もりでディスプレイが曇る。監査ドローンがデータを吸い上げる0.8秒の間、蓮の足先が湊のふくらはぎに「ありがとう」と綴った。
「次の指摘」ドローンが厨房を指差す。「冷蔵庫内の栄養ドリンク本数が婚姻届の嗜好データと矛盾」
蓮の笑い声がスタジオの鏡を震わせた。「そらあんた、この人ったらプロポーズの時……」演技としての嘘が、本物の思い出に化ける瞬間を湊は感じた。「介護と研究で倒れそうな私に、毎日一本ずつドリンクを仕込むんです」
それは契約条項外の真実だった。湊が掌で隠すドリンク缶の底には、蓮が描いた羽根の落書きが毎日変わらず眠っている。
監査ドローンの去った夜、蓮は初めて湊の研究室に現れた。医療用クリーンルームの中で、彼が祖母の介護ロボットに仕込んだダンスプログラムを見つめる。
「これ…私の『ジゼル』の動きやないか」
モニターに映るロボットアームが、蓮が引退公演で見せた宙吊りのアラベスクを再現していた。精密なモーションは、彼女の古傷を再発させない最適解でもある。
「筋肉の負荷率を0.3%まで削減」湊が調整パラメータを示す。「ダンスの美学と介護の機能性は同根だと気付いたんです」
蓮の瞳に初めて涙が光った。彼女がスタジオの鏡に背を向けて以来の生理的反応だ。湊のスマートグラスが警告する。〈感情検知レベル4 通報基準値超〉。
咄嗟に蓮はモーションキャプチャースーツを纏った。未発表のダンスで監視システムを撹乱するため――二人で仕組んだ非常用プランだ。
「『逆光のアダージョ』や。あなたのロボットが覚えてた動きとは真逆やで」
無重力ダンスが始まった。蓮の身体が介護ロボットの予測を裏切り、AI監視システムの学習モデルを混乱させていく。湊の開発した感情偽装プログラムが暴走し、スタジオ全体が虹色のデータ嵐に包まれる。
その混乱の中で、湊は蓮の本心を聞いた。
「なんで引退したか知ってる?」彼女の人工関節が悲鳴を上げる音程で。「あんたの祖母さんと同じ病や。遺伝性の神経難病や」
モニターが真っ赤に染まる。蓮の生体データが、湊の祖母のカルテと一致する数値を示していた。監視カメラが回線不良を起こす0.3秒間、湊は蓮を現実の重力から引き離した。
「私のダンス寿命と、祖母さんの余命は」蓮の吐息が医療用消毒剤の匂いを濁す。「同じタイムリミットやったんや」
翌朝、スタジオの鏡に謎の数式が残されていた。湊が徹夜で書いた、神経難病の進行を遅らせるダンス理論。蓮がその横にバレエ用語で書き添える。
《アン・ドゥオール(外へ)――羽根が生える方向へ》