第一章 羽根のないワルツ
偽装結婚の最大の敵は、深夜3時17分のキッチンだった。
湊は冷蔵庫のLED照明に目を細めながら、左手で無糖の栄養ドリンクを開け、右手のスマートグラスに表示される生体データを確認した。蓮の深睡眠ステージが安定したことを確認し、そっとコーヒーカップを置き直す。角度は常に43度――彼女が「監視カメラの反射で朝食の温もりを演出する」と決めたルールだ。
「それ、飲むとまた胃壁を溶かすで」
突然の声に湊が振り返ると、サテンのローブ姿の蓮が流理台に腰かけていた。裸足の甲がリズムもなく揺れている。AI監視システムを欺くための「自然な夫婦の夜間接触」シミュレーション時間まで、あと23分。
「スタジオの請求書」蓮がタブレットを滑らせる。画面に表示された赤字の数値が、介護ロボットの故障診断画面と奇妙に重なって見える。「今月もダンス衣装を修理費と偽装申請したけど、アマテラスが素材組成を疑ってる」
湊はコップの結露を指でなぞりながら答えた。「僕の開発中のロボット皮膚材を流用しよう。シリコンバレーの展示会サンプルなら税関データと整合性が……」
言葉が途切れた。蓮の足首が、流れ星のように空中を描いている。引退したバレエダンサーの無意識のプリエが、介護用モーションキャプチャーの校正データに似ていると気付いた瞬間だった。
「そっか」蓮の足先が急停止する。「あなたのその技術、祖母さんの介護にも使ってるんやろ?」
冷蔵庫のハミングが突然大きくなった。湊のスマートグラスが警告を発する。〈感情変動検知 レベル2〉。早朝の監視強化モードが始まっていた。
咄嗟に湊は蓮を流理台に押し上げた。ダミーの夫婦喧嘩シナリオ発動――彼女の背中が冷たい大理石に触れるより先に、湊の手が保護クッション代わりに滑り込んだ。
「また壊れたの?この冷蔵庫!」蓮の怒声が天井マイクを震わせる。投げつけたヨーグルト容器が壁の監視カメラを直撃する軌道計算は完璧だった。「いつも貴方なら何でも機械で解決しようとする!」
湊は彼女の脇腹に埋め込んだ小型振動子を起動した。感情認識AI用の偽造生理反応パターン第7番。涙ながらにスタジオの書類を破る蓮の演技に、本物の胸の痛みを覚える。
(これが契約条項第12項「緊急時の物理的演技補助」)
床に散らばる書類の間から、蓮の手書きの文字が視界に飛び込んだ。赤字のスタジオ経営記録の隅に、小さな羽根の落書きが無数に踊っている。介護施設の祖母が描く鳥の絵と相似形だ。
監視カメラ再起動の電子音と共に、湊は蓮を抱き起こした。契約条項にない動きだった。彼女の肩甲骨が掌で羽ばたく感触に、自作ロボットの関節可動域設計図が頭裏を掠める。
「ごめん」湊が囁く。「すぐ修理する」
蓮の睫毛が湿気を纏った。「…ありがと」
その夜、湊は密かにアマテラスの監視ループを逆利用した。蓮のスタジオの監視カメラ映像を、介護ロボットの学習用ダンスデータに上書きするプログラムを書いていた。画面上で蓮の過去の公演映像が廻る。4年前の『ジゼル』で彼女が空中で描いたアラベスクが、介護用移乗補助アームの軌道計算と完璧に重なった。
(そうか、あの動きは骨盤の3次元回転を利用してる)
明け方、湊はスタジオの床に無断で侵入した。蓮が考案した監視システム回避用の「ワルツステップ」でカメラをかわし、自作のロボット皮膚材をバレエシューズの修理材料とすり替える。暗闇で輝く特殊繊維が、彼女が蹴り上げた埃の軌跡を無言で追っていた。
その一週間後、スタジオから不思議な噂が広がった。蓮の生徒たちのトウシューズが、なぜか痛みにくくなったという。まるで未知のダンサーが夜毎に靴を手入れしているかのように。