第零章 青色証明
窓のない部屋が白い光に洗われる。壁面ディスプレイに浮かぶ「婚姻適性審査 第3回面接」の文字が、不自然に長い沈黙の後、ゆっくりと紺色に変わった。
「生体認証、完了です」
AI合成音声が宣告する刹那、新倉湊の首筋に冷たい汗が伝った。隣で蓮が軽く咳払いする。彼女の左小指が、湊の右手甲の上で三度震える。約束の合図――「問題なし」。
「申請者0832号、新倉湊氏」
天井から降り注ぐ青いレーザーグリッドが、湊の虹彩をなぞりながら話し続ける。
「直近三ヶ月間の共同生活データに、87箇所の不自然な間合いを検出。特に就寝時の心拍変動パターンが夫婦平均値から1.3秒遅延しています」
液晶床が軋む音。蓮が自然な笑みを浮かべて前のめりになる。薔薇の香りがする髪が湊の頬にかかった。
「それは私のせいですわ」艶やかな関西弁が審査室を滑る。「この人、布団に入るとすぐロボットの設計図ばかり描いてるんです。つい、スケッチブックを引き抜くのに夢中になると……ほら、昨日だって」
彼女の指先が湊の胸元に触れる。制御できない汗が白いシャツに滲む。AIが想定した通りのタイミングで、蓮の携帯端末が震える。ダミーの寝室映像が審査システムに送信される音が、湊の鼓膜の奥で電子蟻のように這った。
「補足データを受信しました」
壁面に浮かんだ赤い警告表示が、蓮の仕草ひとつで緑色に変わっていく様を、湊は唾を飲み込みながら見つめていた。ダンス教師として培った空間把握能力――彼女が「監視カメラの死角は45度の俯角」と説明していた言葉が、今、青い光の角度を計算するより先に身体が反応している。
「最終質問です」
突然、部屋の温度が下がった。湊のスマートグラスに警告文が点滅する。〈感情認識AI 作動中〉。蓮の爪がそっと掌に食い込んできた。
「あなた方は」無機質な声が宙を切り裂く。「なぜこの結婚が必要なのですか?」
予習していない質問だ。湊の喉が乾く。蓮の肌から伝わる微かな震えが、介護用圧力センサーの校正値と同じ0.3ニュートンを記録する。
「そりゃあもちろん――」
「彼女が」
湊の声が先に出た。掌で蓮の震えを包み込みながら、開発中の介護ロボットの起動コマンドを思い出した。温もりを演算する方程式。
「彼女のダンスを見守りたいからです」
それは契約書にない台詞だった。蓮の睫毛が微かに震える。審査官AIのレーザーが、二人が繋いだ手の指紋継ぎ目を舐め回す。
「追加生体サンプルを採取します」
金属アームが現れた瞬間、湊は蓮を引き寄せた。薔薇の香りとアルコール消毒液の匂いが混ざる。監視カメラの位置、照明の角度、感情認識AIの死角――計算ずくの角度で唇が重なる。
(心拍数、呼吸数、皮膚電気抵抗――全て模範値)
頭の中で数値が踊る。だが蓮の背中に回した手の平に、彼女の脊椎が刻むS字カーブが、なぜか介護施設の祖母の指の震えと重なって消えない。
「……婚姻受理」
電子音が鳴った時、湊の舌先に鉄の味が広がっていた。嘘のキスに流れた本物の血の量は、0.02cc――介護ロボットが検知する最低単位ちょうどだった。