33話.魔界の異変
四方から響く虫の声と、濃密な血の臭い。
重苦しい気配に浸かりながら、火に当たっている男女。
橙色に揺れる焚き火が照らし出す、闇を球形に切り取ったかのように見える空間に。
一方は細身で、優美だが冷たい顔立ちの女。
もう一方は無骨でがっしりした体躯の、生真面目で誠実そうな風貌をしている男。
女の髪は背を覆う磨き上げた銀の色で、男の髪はつむじで結われた夜の色。
女が精気に満ちて力強く座す胸元で、男は今にも死にそうだった。
「これはダメね」
男の胸元を見て、低く女が呟いた。
血にまみれた衣服は、元の色など見当もつかないほどに赤黒く汚れていた。
「胸の骨が砕けて肺腑をえぐっているわね。血も流れ過ぎているし……もって後二刻程かしら」
「……淡々と言うものだな」
男はぜいぜいと喘ぎながら、小さく笑った。
「あら、まだ話せたのね」
女はさして驚いた様子もなく、かすかに唇を歪めた。
「それなら私の言葉は聞こえていたわね。貴方の生命は後二刻程で尽き果てる。次の朝日を見る事はないでしょうね」
「そうか」
男はうっすらと笑う。
「なぁ、ひとつ、頼み事をしても良いか?」
女は答えない。
男は気にせずに続けた。
「俺の形見を……俺の差していた刀を、実家まで届けて欲しいんだ」
女は沈黙したまま、男の顔を見つめる。
ずっと魔界の奥深くで生きてきた女にとって、いま目の前に倒れている男はそれなりに面白い観察の対象だった。
気が遠くなるほど長い間、同じ場所に留まっていた女は、魔族の中でも強い力を持つこの男に興味を覚えて、共に行動をするようになった。
世に出た当初、女は今まで暮らしてきた場所とは異なる世間の多様さに驚き、惹かれた。
魔界で過ごした長い長い時間、彼女はずっと魔族の営みを眺めてきた。
どんなに外面が変わろうとも、魔族は魔族。
肉体という薄い皮を一枚剥がせば、魂の形は大差ない。
不安定で、先の見通しは暗く、自分の縄張りを大事にするくせに、誰か他の者と交わっていないと狂ってしまう。
そこに、魔族も人も差は無い。
何故、魔族はわざわざ己の力の及ばない場所に手を出そうとするのだろう。
何故、己の分からはみ出したものばかり求めるのだろう。
女は考えながら、答えた。
「……良いわ。確か、ケイブリッジだったわね?」
「ああ。お前、なら……安心、だ。俺の荷物を、漁ってくれれば……」
ごろごろと不愉快な音が鳴る喉から、切れ切れに言葉が漏れる。
女は音も無く立ち上がると、闇の中に歩み去った。
すぐに大刀と脇差を手に戻ってくる。
「これね?」
「そう、だ。恩に、きる……」
傍らに慣れ親しんだ刀剣の気配を感じて、男は囁くように礼を言った。
すっかり見慣れた男の生命が、時を追うごとに薄くなっていくのが女には見える。
「すまない……これからだと……もっと一緒に居たかった……」
今はただの黒い穴でしかない瞳が潤み、涙が零れ落ちる。
「すま、ない……初音……」
ほう、とついた小さな溜息が男の最後の呼吸だった。
女の腕に添えられていた手がパタリと落ち、男が屍肉の塊と化す。
「あっけない男ね……まぁ良いわ。今まで楽しませてもらった礼よ。せめて貴方の肉塊は取り込んであげる」
瞳のない金色の目が細められ、炎に照らされる顔は鈍い銀に光って、獲物を喰らう昆虫の顎のようにキチキチと割れる。
それから数刻。
昇った朝日が血臭の原因を照らし出した。
荒ぶる何かが大勢で暴れたと思えるほどに荒らされ、破壊された森の姿。
木々はなぎ倒され、腐葉土の積もった地面は火薬を仕掛けたように爆ぜ、あちこちに赤黒い肉片がこびりつき、血を滴らせている。
残っているのは、あるいは斬られ、あるいは引きちぎられた無数の死体と、焚き火の跡の周りにかすかに残る、赤い染みばかりだった。
「これだけの魔族を魔物と変えれるとはね。個体の強さで、魔物のランクも変わるのね。なら……もっと強者に使えば、どうなるのかしら。ふふ……ナイトメア……接触する価値はあるわね」
その瞳に狂気を宿し、魔性の女が森だった場所を後にした。




