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【下】

 「おお、久しぶりじゃないか」

昔と変わらない声でしゃべり方で、学生時代サッカー部の先輩である田中さんが電話に出た。


 今日のようにからっと晴れた空の似合う男である。大学時代、サッカー部キャプテンとして部員の信頼を集めていただけあって、爽やかで陰ひなたのない性格。僕も大好きだった。


 先輩のことを雑誌で拝見したことを伝えると、そこに至るまでの経緯や近況の報告を受けた。


 返すようにして、僕も自分のことを話す。事故で足が不自由になったこと。それによって色々と障害が立ちはだかり、一々挫けそうになること。


 『俺が看てやるよ』と先輩は明るい声でこう言った。


 久しぶりに話しができただけでも嬉しかったが、面倒を見ると言ってくれた先輩の気立てに感動せざるを得なかった。




 早紀との別れ以来、まるで病床に根が生えてしまったかのように病室から出ることはなかった。当然のことながら、リハビリにも嫌気がさして、足は回復するはずもない。そんな日が何日か続いていたが、少し光りが指したような気がした。


 僕が入院している病院は患者の数も多く、一人一人に多くの向き合いがあるわけではない。この病院のことを否定するわけではないが、他の患者のことを考えればそれは当たり前のことである。僕は理解を示していたし、納得もしていた。リハビリも時間が限られていて、個人に対応するというよりは大病院の枠組みに当て込まれているような仕組みだった。そういう話をすると、田中さんは『うちとは逆だな』という。


 「うちは小さい鍼灸院だから、時間に追われるような診察はしない。騙されたと思って関西来いよ。息抜きにもなるし、俺が面倒見てやるからさ。親御さんに頼んでみたら?」


 本当に嬉しかった。足が不自由になってからというもの、些細なことに申し訳なく思っては同時に感謝の気持ちも多く感じていた。その多くの感謝の中で一番と言って良い。





 先輩との電話を終えて直ぐ、母へ電話した。母は少し困ったようにしていたが、不自由な息子の願いを承諾してくれたのである。


 その週末は母が病院に来てくれて、退院の手続きや準備、関西への荷造りなど手際よく終えてくれた。


 事故前までは、一人暮らしをしていたが、流石に一人で生活はできないということで借りていたアパートは引き払っていた。僕の荷物は僕より先に実家へ帰っていて、先輩の元へ発つ前に実家に三日ほど住まわせてもらう。


 三日というのも、かなりせわしい様ではあるが、田中先輩の配慮である。分かりきっていたことだが、実家の不便さは病院の比ではない。ナースコールも無いし、看護師もいないので、両親にはかなり迷惑を掛けた。簡易ベッドをレンタルし、トイレに近い居間に居座った。この迷惑を掛ける時間も出来るだけ少ない方が良いだろうという先輩のアイデアだった。


 関西へ発つ日、僕は両親に改めて感謝を告げた。


 実家住まいの十代からあまり恋愛の事など話をしなかったのだが、恋人に別れを告げられ鬱ぎ込んでしまっていたことも話をしたのである。


 父は、『お前が生きているだけで嬉しいんだよ』と言ってくれたことが励みになった。思えば、信頼する先輩のところへ行くと言っても少し不安であったのだ。多くは語らなかったが母も涙ながらにぎゅっと抱きしめてくれた。小学生の時、サッカーで初めて得点を決めた時以来だと思う。


 ありがとう――。


 不自由な体だが、少しでも回復させて実家に帰ってくる。そう誓った。






 新幹線を降りると、田中さんが待っていてくれた。プラットホームまで来てくれたのは流石の配慮だと感動した。診察は少し融通を聞かせてもらったらしい。開業医でもあるお父さんに頼んでくれたとのことだ。


 その日は、移動で疲れたこともあり、ぐっすり眠らせてもらった。


 翌日、早速診療に入り、鍼灸治療を受ける。


 現役時代、そんなに大きな怪我をすることもなかった僕は治療とは無縁と言って良いほどだった。と言っても、整骨院くらいは行ったことはあったのだが、鍼灸での治療は新鮮である。

 揉まれたり、骨を矯正するようなこともなかったのだが、自然と痛みが和らいだような気がした。針で刺されるといっても全く痛くはなく、反って心地よいもので、眠たくなる。初めての治療法で少しばかりか緊張していたので尚更のことだった。身も心もほぐれたと言っても過言ではない。



 体だけでなく、精神的な療養も大事だということで、よく外の空気を吸うように言われた。相変わらず雨は続いているが、合間を見て見知らぬ街を散策するのが楽しみの一つになった。



 田中さんは鍼灸師という仕事柄、体のの不自由な人とのネットワークが強くて大きい。そんな田中さんが『今日は良い所に連れて行ってやる』と言うものだから、僕もほんの少し期待して待った。


 田中さんの車に乗せられて着いた先は、市民体育館。


 学生時代はサッカー漬けだった僕は本当に体を動かすことが大好きで、体育館といったら体を動かす場所である。スポーツの予感が僕を途方もなく興奮させた。


 「田中さん、フットサルですか」


 勢いよく質問する僕をなだめるようにして、少し申し訳なさそうな表情で、車いすバスケだということを告げる田中さん。逆にこちらが申し訳なくなった。それでも、車いすバスケは事故をする前から知っていたし、足が不自由な今、フットサルは出来ないのだから、車いすバスケでも興奮する材料になる。


 スポーツの雰囲気が進むほどに強くなっていき、僕の心臓はかなり強く叩いている。


 高鳴る心臓の音と同じようなリズムで、ボールをつく音がダムダムとこだましている。



 場内に入ると、無論みんな車いすでバスケットボールをしていた。見たところ、レクリエーション感覚で楽しんでプレーをしているようだが、ところどころ真剣にやっていて素人目に見ても巧いプレーが見える。


 すーっと、車いすの男性が近づいてきた。


 「よお、田中。新入りか?」


 『柳野さん、お疲れ様です。すみません、今日は後輩連れてきました』と田中さんが答える。


 細い目をしたその男は、座高や手足を見ただけで、優に180センチは超えるだろうという見た目だった。田中さんのことを呼び捨てるということは年齢も僕より3、4歳は上なのだろう。


 『腕が細いな』と僕にも声を掛けてきたが、僕は名乗りもせずに卑下したこの男に若干の苛立ちを覚えた。適当に挨拶を済ませてまたコートに戻ったその柳野という男を目で追ったが、巧い。フェイントを織り交ぜて、敵を欺いては、味方を良く使っていた。


 田中さん曰く、日本代表の選抜に呼ばれているほどの選手らしい。長い手を使った巧みなプレーは周囲の選手と比べてもかなり流麗である。先ほどの苛立ちも忘れるほどに見入ってしまった。


 「面白いだろ?脇でちょっとやってみるか?」


 隣で、田中さんに言われ、バスケットボールを受け取った。車いすを扱うようになってから以前よりは手腕の筋肉は発達したと思う。高校生の時に授業で持ったバスケットボールよりも軽い気がした。


 しかし、ゴールが高い。首を90度にして見上げる。車いすに座ってシュートを打つ選手の凄さが分かる。僕も打ってみたが見事にボールが宙を舞った。車いすの操作をしながらバスケをしていることにも驚嘆する。”慣れ”らしいが、果てしない道のりを感じた。

 そして、みんな乗っている車いすがいかつく治療用の車いすとは一線を画す。近くで見させてもらったが、車いすというよりは、マシーンと言った方が腑に落ちる。


 格好良い見た目に興奮していると、少しだけ乗せて頂けることになった。一漕ぎでかなり進む。生活車両に比べると転倒防止やぶつかっていくためのバンパーがついている。一番際立つのはハの字になった車輪であり、この車輪の傾きのために操作が難しい。油断をすると一人でくるくると回っている。これは恥ずかしい。



 この競技車両を駆りながら、ボールを操り、他選手と連携するのは至難の技だと思う。車いすバスケは車いすスポーツの中でも花形と呼ばれるらしく、確かに魅了された。


 「やってみないか?」


 田中さんに声を掛けてもらったが、そもそもバスケ自体をしたことがない僕は頑なに遠慮した。スポーツを生で観ただけで満足だった。本当はサッカーが観たいなんて言ったら高望みだが、これを機にバスケにも興味が沸いたし、勉強して次は実際にプレーをしてみたいと思ったのである。





 『また来ようぜ』と田中さんに言われ、体育館を後にしたが、上手い人同士の一対一の迫力は圧巻だった。車いす同士がぶつかる激しさやタイヤの焦げる匂いはいつまでも脳裏に焼き付いた。



 同じ車いすの人たちがたくさんいて、それだけでも勇気をもらえたのに、車いすバスケをして火花を散らしている人たちを見て自分の中で燃えるような気持ちが芽生えた。足が不自由になってから無かった気持ちだ。先輩に関西に呼んでもらって良かったと、心から思った。たかだか障害者スポーツだが、競って勝ちたい活躍したいという気持ちは健常者も障害者も変わらないことが確認できたのである。




 その5日後、僕は久しぶりスポーツウェアに袖を通した。前週のリベンジを果たすために市民体育館へ向かう。その間、あのマシーンの感覚は片時も忘れたことはなかったし、スポーツウェアも実家に送ってもらった。それからバスケのルールブックも。車いすバスケがルールが少し違うことも知っていたが、基本的な考えは頭に入れておくことができると思った。


 ――僕の頭の中は、バスケでいっぱいだった。


 サッカーやフットサルには悪い気もしたが、足が動かないのだから仕方ない。そんなことさえ考えられる余裕が僕に出来たことが幸せだった。


 いざ、車いすバスケ用の車体に乗って、動きを確かめる。初めて乗った前回よりも格段に良い。今回、練習の3対3に参加させてもらう。


 車いすの乗りながら、バスケをするのは簡単ではない。イメージはしてきたが、現実はそう上手くいかなかった。一生懸命やるも効率的ではない動きだあるのが自分でも容易に感じ取れた。あっと言う間に疲れ、休憩を取らせてもらうことに。情けなさを感じつつも汗をかけることの充足感に満ちていた。




 「このボールやるよ。俺のお古だけど」


 この間、僕のことを腕が細いといったあの柳野という男だった。びっくりした。


 「えっ。あの......」


 僕が初心者なりに真剣に取り組もうとしている姿を気に入ったとのことで、見込みがあると思ってくれたらしい。初対面でムッとしてしまったことに罪悪感を感じた。思えば、この人もまた足が悪くて僕と同じように障害に立ち向かっている人なのだ……。


 『体育館以外でもボールを触っておくと良い』と満面の笑みで、また自主練習に戻って行った。


 「良かったな。ヤナさんがそういうことするの珍しいよ」


 脇で見ていた田中さんが寄ってきてそう言った。



 僕は貰ったボールを手にサブのボールへ行き、シュートを放つ。ゴールのほぼ真下で、外す方が少ないと言われるだろうそのシュートは、『ガン』とリングへ当たりはねた。シュートが外れたくらいで僕の気持ちは少しも揺らがず、ボールを拾っては再度シュートを放る。次は一回目よりも高い放物線を描き、リングの中へ吸い込まれて入った。


 もっと確率が上がれば楽しいはず。サッカーでも点を決めた時の喜びは大きいし、それはバスケも変わらない。ゲームの中で決めることが出来れば喜びは比でないはずだ。





 僕は人一倍努力をしようと思った。地元の病院にいた時とはまるで真逆の気持ちだ。


 新天地で新しい治療とスポーツに出会い、新たな交友が始まる。こういった境遇に自分を置けたのはラッキーだったと思うし、親や田中さんには感謝しなければならない。もちろん、辛い気持ちで別れを告げた早紀にも礼を言うべきだと思う。

 車いすになって不便なことは数えるとキリが無い。たくさんのことを失った。しかし、そんな中で自分で挑戦する気持ちが死んでいなかったことは喜ぶべきだと思う。


 今は、田中さんの元で、治療と車いすバスケを生きがいにして強くなっていこうと誓った。






 体育館からの帰り、夜空がきれいで星がきらめいていた。田中さんによると、明日も晴れるらしい。


 後部座席では、もらったボールを擦りながらにぎっていた。使い古されたザラザラとした感触がよく手になじむ。






 車内のラジオに耳を傾けると、DJが梅雨明けを喜んでいた。雨が終わると同時に、僕の気持ちも完全に切り替わっていた――。

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