【上】
梅雨--。
雨が降ると、足の痛みが酷い。ズキズキと手を押し当てても決して止むことの無い痛みがまるで波のように押し寄せてくる。こうも毎日降り続けられると、足の痛みが頭まで上ってきて苛々し、何かに八つ当たりもできずにいては人生そのものが嫌になる。
僕は足が不自由になり、入院生活を余儀なくされている。
痛みだけでも嫌になるが、歩けないという劣等感が脳裏にいつも居座っていて、いつも自虐や葛藤を繰り返している。
病室は毎日変わらない景色の繰り返しで、生きている間でこんなに退屈な時間は無かった。個室にしてもらって有り難いのだが、孤独はネガティブな感情に支配される。
普段、小馬鹿にしていたり嫌っていた人が思考によく登場しては、僕を横目で見て通り過ぎていくのだ。心をざらざらした物で包まれて絞られるようななんとも言えない感情になる。
”今の僕”を見て、きっと『ざまあみろ』と思うのである。
まじめに取り組んでいなかった事やないがしろにしていた事も、きちんとしていなかったから天罰が下ったのではないかと思う。誠実に生きていれば、ハンディを背負うことも無かったのではないだろうか。
窓の外を降りしきる雨を見ていると、根も葉もないことがぐるぐると目まぐるしく頭の中をまわっていて、ずうっと車酔いにでもなっているかの様な気色の悪さであった。
そういった風に、思考すればするほど悪循環していた。
なぜ足が動かなくなってしまったかというと、半年ほど前の交通事故が原因で意識不明の重体になり、生死の境を彷徨った。医師からは意識が戻っただけでも奇跡と言われている。
命があって幸いとは言ったものの、下半身が動かないことがこうも不自由だったとは実際に味わってみなければわからない。
この残った命という奇跡はもっと困っている人に行使され、自分は死んだ方が良かった。そんなことを考えることもある。奇跡を起こすのが神だとしても、もっと有益な使い道を選択してほしかった……と、神にさえ八つ当たりをしてしまうのである。
部屋の照明やテレビのリモコンにも手が届かないし、一人では風呂や排泄もできない。
実際に障害を持たなければ、五体満足の有り難みを本当に理解することはできないと思う。動かぬ足はお荷物以外の何物でもなく、僕はこの世にとって無用な者になっているんじゃないだろうか。
事故に遭うまでの僕はというと、フットサルを週3回ほど楽しむスポーツマンであったと自認している。学生時代はサッカーで県大会優勝を果たすチームのエースで、それはフットサルにおいても例外ではない。
また、仲間とともにボールを蹴り合うことができれば。
いや、せめて、自分の足でまた歩けるようになれば……そう思いながら毎日を過ごしている。
現状、松葉杖を使っても体を立たせることは難しく、移動には車いすを使うことになってしまった。ただ車いすに乗るようになり、病室の天井ばかりを眺めなくてすむことは少しばかりの開放感がある。
それから、誰かに付き添ってもらって病院の外に出て、青空を仰いだ時の爽快感はかなりのものだった。青空の持つ肯定力は本当にすごい。ネガティブな感情を排除してくれて、まるで足が治ったかのような気持ちにさせてくれる。
――足が動く時と同じように僕を迎えてくれる。
病室にいても窓から外を眺めれば空は見えたのだが、実際に体ごと外に出て一面の空を自由に仰ぐことは、不自由ゆえに格別なものであった。
しかし、病室に戻った時の現実もまた反動でかなり重たくはなるのだけれど。しかも、残念なことに今の時分は梅雨で、青空を仰げることは多くない。特に今年はよく降る。
車いすに乗るにあたって、できることできないことがある。進む止まるといった操作に慣れてはきたが、乗り降り自体は一人の力では未だできない。腕力というか、タイミングというか、他者の力を借りてなんとか車いすを駆ることができるのである。
看護師の方や、親に抱きかかえられてやっと車いすに乗り移ることが可能だが、最初は恥ずかしかったし情けなくて仕方なかった。けれども車いすに乗らなければより多くのことができないし、その羞恥心はすぐに薄れていった。足が不自由になって、普段は用意にできたことが大きな壁となって立ちふさがる。トイレや風呂はその最たるものであった。
トイレや風呂が精神的な負荷であるなら、リハビリは肉体的にもかなりきついものがある。
これが相当につらく、やってもっやっても結果が伴わないために『無意味だ』と、たまらず逃げだしてしまった事もあった。学生時代につらくとも楽しかったサッカーでのトレーニングとは似て非なるものである。ともに競い合う仲間や敵校のライバルの存在は今思えば相当な励みになっていたのだ。
足が動けば――。
いや、むしろ足がなければ良い。重くて邪魔でしかない。腕と足を交換できるとすれば、僕はまだ歩ける方を選ぶかもしれない。歩くことができれば色々な場所に行けてこんなにストレスが溜まることもないのではない。「人間は考える葦」とはよく言ったもので、立つことさえできれば、文字通り自立ができるのではないかと思いもする。
家から程なく近い県立の病院に入院し、当然のことながら働くことはできていない。会社には迷惑をかけている。こちらから辞表を提出した方が賢明ではないかと迷っていた。歩くことすら出来ない自分が会社にとってお荷物になることは分かりきっていることだ。いつか普段通りの生活に戻ることができれば、という願いを病室の天井を眺めがら思う。
そんな毎日が続くばかりというわけでもなく、時々は見舞いに来てくれる人もいる。今日は会社の上司が来るというので、いささか緊張して待つ。
――コンコン
ドアのノックする音が病室に響き、少し宙に浮いた気持ちになった。『どうぞ』と僕が言うと、上司の佐々木課長が入ってきた。
この佐々木さんという人は僕が社内で一番尊敬している上司で、同時に一緒にプロジェクトを任されている。同じ営業1課で商社マンとしてのイロハを僕にたたき込んでくれたのがこの人だ。
僕が役に立たない今、多大な迷惑がこの人に降りかかっていると思うと目も合わすこともできない。
「気分はどうだ」
佐々木さんが口火を切る。
「見ての通りです。すみません」
「そうか」
僕の症状ではなく、気分を窺ってきた事がこの人の人望の厚さを物語っている。どうしようもなさが僕の顔に書いてあったのだろう。 こういった細かな配慮を欠かさない事が社内でも支持されている所以である。医者から症状に関して良い返事をもらっていないので、会社に戻れるかどうかも分からない。足で稼ぐような営業スタンスをモットーとする佐々木さんと相対して、自分がどうしようもなく情けなくなる一方だった。
その日、佐々木さんは会社のことを一通り話をして、たわいもない世間話をして病室を後にした。
僕は、一番心配していたことを佐々木さんが口にしなかったことが引っかかった。課として進めている新しい商材商流のプロジェクトについてである。佐々木さんがその責任者として抜擢され、少なからずとも僕もそのプロジェクトの担い手として邁進していた。
決して景気が良いとは言えないこの時勢には新しい事を始め、新しい物を販売していかなければ商社として縮小衰退していく一方だと強く思っていたからである。それなのに、プロジェクトについて触れなかったのは何か意図することがあったのではないか。今の僕はどうしても悲観的な考えになりがちで、それを拭い去るパワーも持ち得なかったのである。
その一週間後、早紀が見舞いに来るという知らせが入った。早紀は付き合って約一年の彼女である。気配りができてはきはきとして明るいところに惚れて、僕から告白したのだった。半年後に僕が交通事故で歩けなくなると知っていれば、と思うと可哀想でならない。
早紀は病室に入ってくると、膝から崩れ落ちて泣いた。僕は、声のかけ方も分からずにいた。
携帯で連絡は取り合ってはいたが、いざ僕を目の当たりにして現実を突きつけられたのであろうか。携帯の文章でもでもはっきり伝わるほどに僕のことを心配してくれていたのであるから、彼女の気持ちを思うと何を口にすれば良いか本当に分からなかった。
自分のことをこんなに悲しんでくれる人がいるという感謝の気持ちよりも、自分がいなければ良かったんじゃないかという後悔の気持ちが強かった。
事故前はよく二人で旅行をして楽しんでいた。二人とも遠出が好きで、連休を見つけては計画を立てた。実行を楽しみにして仕事を乗り越えることもしばしばであった。
入院中、よく思い出の写真を眺めていた。
「ごめんな」
僕は気づくと早紀に謝っていた。
早紀は首だけ横に振り、一層涙が零れた。
窓の外はざあざあと雨が降りしきっていた。止むことのない雨音は早紀の心の声を代弁しているかのようだった。
――仕事と恋愛。
少なくとも一般的な社会人よりも充実していたと思う。事故までは。
また働くことができるようになったとしても僕は車いすであり、早紀とデートをするとしても、車いすである。
車いすで出社してもうちの会社は事務所が2階で、エレベーターは当然ない。
僕のデスクは車いす対応ではないだろうし、もちろん車いすの人間が営業に行っても客先で混乱させるだけだろう。
つまり、僕は今の仕事はできないのだ。
次に佐々木さんが見舞いに来てくれる前に、電話でこのことは話しておこうと思った。早紀に対しても同様である。本来ならば、僕が見切りをつけられる側の人間であることが反って烏滸がましさを覚えた。
車いすであると、自然に動きは制約されるし、目的や手段は少なくなってしまう。というよりも、早紀に迷惑を掛けてしまう。
泣いてばかりいた彼女が感情を整理できるようになったら、改めてこのことも切り出さなければならないと思う。
社会的な立場を考えた際に、五体満足の”かつての僕”と”今の僕”は、まるで鳥とミミズのような差がある。自分のことをよもやミミズだと揶揄することがあろうとは、全くもって想像がつかなかった。
そんな風に冷静に思考を巡らせていたつもりだったのだが、僕は震えて涙が止まらなかった。
それから数日後の晴れ間。
足下の良いタイミングで見舞いに来てくれたフットサル仲間が、ある雑誌を入院中の暇つぶしに持ってきてくれた。何冊かある中の一冊を手にとって捲っていると、大学時代のサッカー部の先輩が鍼灸師として活躍しているという記事を見つけた。
卒業後は故郷の関西に帰り、家業の整骨院を継ぐということは聞いていたが、雑誌に載るほどとは。
僕は先輩に連絡を取ろうと思った。しかし、遠い関西の地にいる先輩に自分の症状を打ち明けたところで、足が良くなるわけでもない。
目を止めていた僕をフットサル仲間が気づき、『知り合いか?』と声を掛ける。説明をすると、連絡を取るよう仲間達がみんな言う。
そういえば些細なことでも真剣に相談に乗ってくれる先輩だった。僕は次の晴れた日に思い切って連絡を取ることに決めた。
良いこともあれば、悪いこともある。
その夜中、早紀から携帯電話に着信があった。僕は今日起きたこと(フットサル仲間が見舞いに来てくれたこと、先輩が雑誌に載っていたこと)を話した。
何かと暗い早紀を不思議に思いながらも話をしていたが、あまりにリアクションの薄い様子だったので、『どうした?』と尋ねる。
「別れない?」
早紀の口から発せられた言葉は僕の頭の中を一挙に抉って中身を空っぽにしていった。
確かに、覚悟はしていたし、早紀のことを考えれば僕から言うべきだと思っていた。しかし、僕は何となく大丈夫だろうと思っていたのだ。まだ僕らは大丈夫だ、と。
先日、泣き崩れてくれた早紀には深い愛を感じたつもりだった。僕は勝手に、本当に勝手ではあるのだが、将来僕の車いすを押してくれるのは早紀しかいないと思っていたのである。それほど、仲睦まじいと感じていたし、周囲の人もよくそう言ってくれた。その度に、二人はお互い満足を得ていたと思う。
僕だって早紀が初めての恋愛というわけではないし、何回か振られたり振ったりして恋愛を経験してしきていたが、今回はダメージが大きい。自分ではどうしようもないことが分かっているし、先述の通り、自分から告げた方が利口だと思っていたから。
僕は、言葉が出なかった。
時間にして、どれほどの時が流れたのか分からない。
僕は早紀の言葉に理解を示し、電話を切った。
その晩は眠ることができず、朝の光が灯っていくとともにどっと疲弊しいつの間にか眠ってしまっていた。
目が覚めると、僕は自由な生活と恋人と仕事を失った自身の不幸を顧みて、呆然としては動かなくなった足に怒りをぶつけた。しかし、足は何の反応も示さず、行動の無意味さを考えると更に鬱ぎ込んでいくのだった。